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ふるき・もりえ ノンフィクションライター。一九四八年長崎県生まれ。編著にフェンスの内側から在沖米軍を描いた『隣人の顔』、吉本隆明の語り下ろし「老いの流儀」など。 雑誌「世界」六月号より マンガ右翼の論理破綻小林よしのり責任編集長の季刊誌『わしズム』(小学館)が、二〇〇九年冬号(二月二五日発売)で最終号となった。同誌は〈漫画・音楽・思想。日本を束ねる知的娯楽本〉として、○二年四月に幻冬舎から創刊。○五年秋号から出版社を小学館に移し、SAPIO増刊号として年四回発行してきた。 文藝評論家の山崎行太郎は、月刊誌『部落解放』(四月号/解放出版社)に寄稿した「マンガ右翼・小林よしのりへの退場勧告!!!」で次のように述べている。〈マンガで政治を語り、マンガで思想を語る漫画家が、我が物顔で論壇やジャーナリズムを開歩する時代があり、しかもその漫画家に迎合・追従し、マンガで「もの考える……」若者たちや知識人たちが、巷に溢れた時代があった。むろん決して昔のことではなく、またそんなに遠い異国のことでもなく、それは、ここ十数年ぐらいの目本の論壇やジャーナリズム、あるいはアカデミズムで起こった珍現象である〉 珍現象の主役は、もちろん、小林よしのりである。一九七六年に『週刊少年ジャンプ』(集英社)の連載『東大一直線』で漫画家デビューした小林は、九二年から『SPAIO』(扶桑社)で社会問題や政治問題をテーマに「ゴーマニズム宣言」の連載を開始した。 〈おそらくその頃から、左翼、右翼、保守を問わず、日本の論壇やジャーナリズムの言説の思想的レベルが「マンガ以下」に堕落しはじめたのだろう。同時に、「マンガ右翼・小林よしのりの時代が始まった……」と考えられる〉(前掲)と、山崎は続ける。 小林は、被差別部落、薬害エイズ、台湾、チベット、沖縄、アイヌ問題など少数派の問題をとっかえひっかえ漫画にしては物議をかもした。 いうまでもなく山崎は漫画という文化的ジャンルを差別しているわけではない。 〈マンガという大衆にお馴染みのサブカルチャー的技法を使って、「総保守化」、あるいは「ネット右翼」全盛の時代思潮に迎合するかのように、過激な右翼的、保守的言説を繰り返〉し、〈しかもその破綻や矛盾を自覚することすらできないという醜態を露呈しはじめた漫画家〉(前掲)に退場勧告を発しているのである。 山崎が指摘する小林の自己矛盾あるいは論理破綻は、アイヌを取り上げた「日本国民としてのアイヌ」(『わしズム』○八年秋号)や、小林自ら企画・編著した『誇りある沖縄へ』(同年六月一八日/小学館)でむき出しとなった。 日本政府の同化政策がアイヌ差別を解消したとする小林は、〈昔のアイヌの毛深さは全身に毛が生えてる程だったが、今では沖縄の毛深い人と大差ないし、全く和人と変わらない者が多い。毛深くて何が悪いのか!〉(前掲『わしズム』)と記述している。 さらに、こうした言説こそが差別だと批判した比例北海道ブロック選出の衆院議員・鈴木宗男や作家・佐藤優に対し、〈相手が誰であろうと「毛深い」ことは単なる特徴であり、何も悪いことではない!〉、〈「毛深くて何か悪いのか!」わしはちゃんとそう書いている〉、〈アイヌ系の人々の前では「毛深い」という言葉も禁句にするらしい〉(『SAPIO』○八年一二月一七月号(ゴーマニズム宣言)と反掌した。 差別は「する側」と「される側」の間係性の問題である。小林は〈毛深さに関してはもはや差別の原因とはならない。今どきの日本では、お笑い芸人のゴリが 毛深さで笑いを取っているが、その屈託ない笑いに差別感情などどこにもない〉(『わしズム』最終号)と言う。しかし、ヤマトゥの人間に酒席で「お前は毛深い!」と言われたら、お笑い芸人のゴリといえども笑えなくなる瞬間がある。 「毛深い」という言葉は、単なる身体的特徴の差異というものではなく、和人がアイヌや琉球人を差別するためにこそ使われてきた言葉であり、それは当事者の胸を挟る凶器となる。そこには少数派や差別されてきた人問の苦悶があるからだ。 筆者の母親は、長崎県五島列島の小さな島の出身である。この島の辺境にある集落に隠れキリシタンの末裔約一二世帯が、細々と半農半漁を営んでいた。母親はこの集落で生まれ育ったが、一九六五年頃に人々がボリビアを中心とした南米棄民あるいは日本各地に生活の場を移し、今では海岸沿いに集落の石垣や井戸が放棄されたままの「消滅集落」となった。 長崎市内で育った筆者は、諏訪大社の祭礼である「長崎くんち」の世話役から「お前は伴天連か!」と言われたことがある。そのときは何とも感じなかった。 しかし、長崎くんちの数日前に、祭り当日に着る衣装や小道具などを飾り、市民に披露する「庭見せ」という行事の由来を知って複雑な気持になった。「庭見せ」はキリシタンの弾圧が厳しかった江戸時代に「庭おろし」と呼ばれ、庭見せをする家々は道路に面した格子や障子を取り払い、中庭まで見せることによってキリシタンではないことを証明する行事でもあったとの説を知ったからである。 差別をする人間は、往々にして差別していることに気づかない。相手から差別を指摘されたときに、反省して改める過程が大切である。だが、小林は差別を指摘されると、差別はしていないと居直るばかりか、差別や迫害を受けてきた少数派の歴史を顧みることもなく、差別を持ち出すほうがおかしいという理屈を展開する。それこそが差別の本質である。 しかも、かつて小林は『新・ゴーマニズム宣言9』小学館文庫)の「見ぬふりされてるチベットでの民族浄化」で、中国政府のチベット民族への同化政策を民族浄化と弾劾した。ところが、「日本国民としてのアイヌ」では日本政府のアイヌ民族に対する同化政策を肯定するばかりか、〈差別の解消と同化の達成は表裏一体だった〉(『わしズム』○八年秋号)とゴーマンをかますのである。 版元の見識と常識は問われないのか小林はさらに、アイヌ民族出身で東京外国語大学非常勤講師の多原香里を〈「アイヌ民族」と自称する〉と誹膀し、〈ちなみに多原氏は母親がアイヌ系だが、父親が和人だから、半分以上和人である〉(前掲『わしズム』)などと記述している。名指しで「自称アイヌ」と攻撃された多原は、『SAPIO』の発行人と編集人、筆者の小林よしのりらに、記述の撤回と謝罪を求める通知書を送付した。 これに対して同誌編集人の飯田昌宏は、次のように回答している。 〈特集全体をお読みいただければ明らかなように、小林氏は「アイヌは『民族』ではない」という立場に立っています。その上で、多原氏が主張されている「個人がどの民族に帰属しているかは、帰属意識によって決定される」という、その「帰属意識」はすなわち「自称」と同じことではないかというのが小林氏の見解です。そのことを含めまして、多原氏の「抗議と申し入れ」に対する小林氏の回答は、2月25日発売の「わしズム2009年冬号」に掲載しておりますので、お読み頂ければと存じます〉 小林の回答は『わしズム』最終号で三ページに亘って掲載されたが、アイヌは民族でないとを繰り返し、〈国会がアイヌを「先住民族」とする決議を可決したなどということは、この際関係ない〉とまで記述している。 しかも『SAPIO』編集部は、こうした差別的言説を掲載したことについて抗議を受けたにもかかわらず、版元としての見解を述べようとしない。 多原の抗議と申し入れについてどう考えるか、編集人に取材を申し入れたが、質問にはノーコメント。 「『わしズム』は出版流通の都合でSAPIO増刊としているが、責任編集長は小林よしのりさんです。取材は直接小林さんにしてもらいたい。質問事項をファクスで送ってもらえば、いつでも編集部で取り次ぎます。私はコメントできる立場にありません」と、丁重に断られた。 『野中広務 権力と差別』の著者でジヤーナリストの魚住昭はこう言う 「小林さんは、アイヌ民族の出身を名乗れない人がなぜ現在もいるのか、その背景をまったく理解しようとしていません。同化が進んだのだから差別はないのだというのは、あまりにも乱暴な議論です。朝鮮人差別や部落差別でも過去に同じような議論が繰り返され、その都度徹底的に批判されてきたはずだが、またその亡霊が甦ってきたなという感じです。もし自分がアイヌ民族の一人だったら……という想像力のかけらさえあれば、こうした差別的な言葉を吐けるはずがない。差別を助長するような雑誌を発行した小学館についても、出版社としての見識・良識を疑わざるを得ません」 小学館の社名は、創業時に小学生向けの教育図書出版を主たる業務としていたことに由来する。国内出版業界最大手になった現在も、学習雑誌や学年誌、教育技術誌などを発行している。 教育出版社である版元が、同化政策によってアイヌ差別が解消したとする差別的な言説に場を提供することについての見解を求められたとき、「編集責任は小林にある」との理由から逃げることが許されるのだろうか。 小林的言説を看過するメディア「『日本人としてのアイヌ』が発売されてすぐに、小学館の知り合いに電話をしました。小林さんが日記でどんな言説を吐いても構わないが、こうした言説を公刊することはいいのでしょうか。書店に流通させる版元の責任も問われるべきだと思うと。そう申し上げました」そう語るのは、解放出版社東京事務所長の多井みゆきだ。『わしズム』の終刊が『SAPIO』〇八年一一月二六日号)で発表されたのは、それから約二週間後のことであった。多井が続ける。 「メディアも知識人も小林さんを批判して得をすることが何もない。むしろ佐藤優さんのように、漫画に描かれて攻撃される。それが嫌で『消耗するだけだがら相手にせず無視した方がいい』と言う人が圧倒的です。『日本人としてのアイヌ』の差別問題については、ほとんどのメディアが扱わなかったし、知識人も反論らしい反論をしませんでした。佐藤さんは、小林よしのり的な言説を看過してきた結果が、こうした現況を生んだと指摘しています」 これまでメディアの人権意識が強かったとはいわないが、差別的言説に対するメディアの自己防衛的な反応は過敏なほどだった。そうしたカッコつきの人権意識すら薄れ、物議を醸しても売れればいいという風潮がメディアにまん延した。 映画監督・作家の森達也はこう言う。 「辺見庸さんが『月刊現代』の最終号で、戦前戦中は国家権力の弾圧で雑誌や単行本が発禁になったが、今は版元自らがあっさり休刊、廃刊を決めると書いていました。まったくその通りだと思います。新聞・雑誌の部数やテレビの視聴率が落ち込むなかで、ジャーナリズムの使命や衿持がどんどん消え失せ、残っているのは売れればいいという市場原理だけそうした商業主義は出目からあっだけど、それが露骨になり、人権意識もズブズブになっているんでしょう」 だからといって、小林の〈「同化」=「国民化」が進むということは、裏を返せば差別が少なくなるということだ〉(『激論ムック』二七〇号/オークラ)といった言説が容認されるわけではない。 日本政府の同化政策とは何だったのか。いま一度振り返ってみよう。一八六八年、北海道の領有を宣言した明治政府は北海道開拓使を設置し、道内に居住するアイヌ民族を白国民として戸籍を作成。アイヌ民族の土地や資源からアイヌ民族を排除し、アイヌ文化の伝統的文化を未開として否定する政策を打ち出した。 「しかも、一八七一年の戸籍法改正で平民に編入しておきながら、旧土人という蔑称でアイヌ民族を厳然と区別しました。これらすべては法律や行政命令によって行われたものです。このような歴史的背景によって、今もアイヌ民族の多くが、労働や就職、教育における差別の対象となっている実態は、統計上のデータからも明らかです。アイヌへの差別は許せないという小林氏の文言は、同化を正当化する免罪符ではないのです」 そう語るのは、現在スイスに在住するアイヌ民族出身の多原香里だ。 先住民族とは、こうした国家から従属を強いられ、侵略によって迫害されてきた人々の権利を回復する国際人権法上の概念である。ところが、アイヌは民族でないとする小林は、〈アイヌ系と和人(非アイヌ系)の結婚が九〇%超で、アイヌの血は拡散の一途をたどっている〉(前掲『わしズム』○八年秋号)ことを理由に、アイヌ民族を先住民族とすることも認めたくないらしい。 さらに小林は、日露戦争に召集された北風磯吉などを、皇民化教育を受け入れたアイヌの英雄として描いている。しかし、彼らの行動は差別に対する憤りやアイヌ民族の地位向上を願う切実な思いから出たものである。こうした小林の差別意識、少数派に対する無理解、思想レベルの低さは沖縄へも持ち込まれ歴史修正主義という政治的意図が露骨に表われる。 右派勢力の「敵」としての沖縄小林は○五年七月、『新ゴーマニズム宣言SPECIAL沖縄論』(以下『沖縄諭』)を出版した。○四年八月から『SAPlO』に連載した一七章と、書き下ろしの二章で構成したものである。○四年から○五年といえば、右派勢力が一斉に沖縄へ目を向け始めた時期だ。沖縄県在住の小説家・目取真俊がこう言う。 「○五年五月に自由主義史観研究会の藤岡信勝代表らが、沖縄戦の集団自決は軍の命令によるものではなかったとする検証を行うために慶良間諸島で現地調査を行いました。そして八月に梅滓裕と赤松秀一が大江・岩波裁判を起こします。同じ八月に『沖縄論』を出した小林が宜野湾市で講演会を開くのです」 その後、○七年三月の教科書検定問題をきっかけに、大江・岩波裁判への関心が全県的に広がるなか、小林は「ゴーマニズム宣言」(一一月一四日号)で集団自決は沖縄の住民が「家族への愛情」から自発的に行ったものと主張する。 「集団自決の原因を家族の愛情か、軍の命令かと二者択一の問題として設定すること自体がおかしいんです。慶良問諸島や伊江島、読谷村など、集団自決で多くの犠牲者が出た地域は、日本軍の特攻基地や飛行場などの重要施設があり、住民がその建設に動員され日本軍と住民の密接な関係が築かれていたところです。日本軍のいなかった島では集団自決が起こっていないことを見ても、家族への愛情だけでそれが起こりえないのは明らかです。小林はそうした事実には触れず、軍命を否定するために家族への愛情を利用しているのです。家族への愛情があったのは当たり前で、それと軍命がなかったというのは等しいことではないのです」 こうした小林への批判を『琉球新報』○七年一一月三日付)に掲載した目取真に対して、小林は『誇りある沖縄へ』で次のように語っている。 〈目取真が「風流無談」というコラムでわしを批判した後、琉球新報の記者が「何回かの論戦になってもいい」と言うから反論を書くことにしたのに、書き始めた途端に「小林さんの反論は今回かぎりにさせてもらいます」と言ってきた。しかも、わしが書いて送った文章には何度も何度も「この言葉はおかしい」という琉球新報の検閲が入る〉。〈で、わしの反論が掲載された一週間後には、目取真の再反論が紙面に載った。(中略)でも、わしはもう反論させてもらえない。要するに、わしにまったく反論させずに非難し続けるのは新聞としてさすがにまずいから、1回だけ書かせたんでしょう。それを免罪符にして、あとは一方的に徹底した印象操作をやる〉 事実関係を聞くため、琉球新報社に事実確認をしようと編集局長へ取材を申し入れたが応じなかった。旧知の文化部長・宜保靖はこう言う。 「最初から一回だけの約束で掲載を進めました。秘書を通して『小林も一回だけの掲載だが反論を載せることに感謝している』と了解しておりました。彼は検閲と言ってますが、中国をシナと書いたり、目取真さんについて、倫理規定上、新聞では掲載できない表現があったり、あるいは事実関係が問違っていたので、秘書を通じてこちらの要望として検討をお願いしたのです。『ためになるアドバイスありがとう』と、文章を修正しました。こちらとしては誠意を尽して掲載したつもりですが、ああいうふうに書かれたのは残念です」目取真が続ける。 「『風流無談』は二年間、毎月第一土曜日の連載です。小林は一回しか書かせてもらえなかったと言っていますが、『風流無談』で彼の言説に触れたのは一回だけです。その後、彼が文化欄に反論を書き、私も一回だけ別の紙面で反論を書きました。小林は『わしズム』や『SAPIO』で大江健三郎さんや私のことをあれこれと書いていますが、私の反論記事を掲載させてくれますか。小林は沖縄のマスコミの不信煽りを狙って批判し、住民が自発的に死んだという発言を繰り返してきました。そうした小林に毅然とした態度をとれず、発言の場を与える沖縄のマスコミの危うさを感じます」 「全体主義の島」という印象操作危うさはほかにもある。小林は『SAPIO』の連載を『沖縄論』として一冊にまとめる際、五〇ページに及び「亀次郎の戦い」を書き下ろしている。この長編漫画を読みながら違和感を覚えたという目取真は、二一五のせりふすべてをチェックした。「少なくとも四八%に当たる一〇四のせりふが、『沖縄の青春 米軍と瀬長亀次郎』(佐次田勉著/かもがわ出版)からそっくり引用されています。巻末の参考文献一覧には書名が記されているが、不思議なことに瀬長亀次郎関連の他の著作は四〇六ページにまとめて挙げられているのに、『沖縄の青春〜』だけが四〇四ページに切り離されて挙げられているのです」 瀬長亀次郎は沖縄人民党の結成当時(一九四七年)から中心メンバーとして活躍し、那覇市長、日本共産党幹部会の副委員長を務めた政治家である。 佐次田の著書は、もともと映画『カメジロー 沖縄の青春』の原作として書かれたもので、映画はビデオ化もされた。「亀次郎の戦い」には夜間の演説会や那覇市議会の様子など、明らかにビデオを利用したと思えるカットがあるが、参考資料として明示していない。 目取真が続ける。 「『沖縄論』が発行された後に佐次田さんに電話で確認したところ、小林やその事務所から『沖縄の青春〜』を利用することについて事前の連絡は一切なかったと明言しました。こうしたことを一方でやりながら、『ゴーマニズム宣言SPECIAL沖縄論』のあとがきで、〈沖縄の若者たちも、いや沖縄のマスコミや言論活動に携わる知識人たちまでもが、沖縄の歴史を知らない〉と書くことによって、自分のほうがよく知っていると読者に印象づけるのです」印象操作といえば、小林は沖縄に「全体主義の島」というレッテルを貼り、沖縄のマスコミや知識人を罵る。 沖縄県マスコミ労働組合評議会議長の米倉外昭はこう言う。 「沖縄のマスメディアに対して偏向報道という批判はずっとあります。二〇〇〇年に当時の森喜朗首相が日の丸・君が代問題に触れて日教組を批判した際に、沖縄の二紙も含めて『共産党支配』『政府、国に何でも反対する』と発言して問題になりました。これは勝手な決めつけで、沖縄への無理解、偏見が露骨に表れた発言でした。○六年には沖縄担当相だった小池百合子氏が、沖縄のマスコミを『超理想主義』『アラブに似ている』と、褒めてくださいました。琉球新報も沖縄タイムスも読者は沖縄県民ですから、県民が欲している情報を県民の視点に立って報道するよう努めています。それが偏向に映るとすれば、それは認めざるを得ません」 全体主義とは一人一人の自由や権利を無視しても国家の利益、全体の利益が優先される政治原理であり、その原理からなされる主張である。しかし、沖縄の何かどのように全体主義なのか、小林は実証すらしない。歴史教科書問題での県民の盛り上がり、沖縄のマスコミ論調や白分か琉球新報紙上で批判されたのに反論を十分に書かせてもらえなかったことなどをもって「全体主義の島」と言っているのだろう。 米倉が続ける。 「琉球新報の反論掲載問題は、論証抜きの『わしはこう思う』という論を書かせろというものだったと思います。彼は別に発表の場を存分に持っているし、新聞社には編集権があります。この問題で反論の場を提供する義務は発生しないと思います。読者に訴えたいなら『投書欄にどうぞ』ということになるでしょう。異論が出せない社会なのかどうか、沖縄県内の各種選挙での各候補の主張とか、新聞の投書欄とかを調べてから言うべきです。実証性が乏しいままのレッテル貼りは、それこそ悪意ある『印象操作』というしかありません」 自由主義史観研究会の藤岡や小林が、沖縄の地元紙を執拗に攻撃するのは、本土と異なる沖縄のメディアの独自性を認識し、大江・岩波裁判や「全体主義の島」というレッテル貼りを仕掛けることで、沖縄の世論を引っくり返そうと企んでいるからだろう。しかも、彼らは沖縄からの反論に乗じて地元メディアに自分らの足場を築こうとしているのである。 大江・岩波裁判で「虚言」と断じられた宮平秀幸新証言を擁護した藤岡も、琉球新報「○八年一〇月二一日付)の投書欄「論壇」に寄稿している。では、なぜ小林の反論は投書欄ではなく、文化欄の紙面を割いたのか。 ウソも一〇〇回つけば本当になる小林的言説を看過してきた本土のメディアの現況を、ありありと示したのは北朝鮮のミサイル騒動をめぐる報道である。政府・防衛省はミサイルが日本の領土や領海に落下する場合に備え、自術隊による「破壊措置命令」を発令。迎撃ミサイルを装備した海上自衛隊のイージス艦を日本海と太平洋に展開し、さらに地上配備型の迎撃ミサイル部隊を首都圏や東北地方に配備するなど、ものものしい”戦時体制”を演出した。 本土のメディアは連日、迎撃ミサイル部隊の映像などを報じ、政府や防衛省の”広報機関”と化した。沖縄のメディアもこうした報道に無縁ではなかった。琉球新報は発射のあった四月五日に二万部の号外を配布。〈北朝鮮「ミサイル」発射〉の大見出しを掲げ、発射施設の衛星写真などを掲載した。こうした状況が五年、一〇年続くとどうなるのか。沖縄は全体主義の島どころか、情報統制の島になり、集団自決に対する認識が一八〇度ひっくり返る日も遠くない。 「(小林や藤岡らは)ウソも一〇〇回つけば本当になると考えています」 目取真が別れ際に残した言葉をスルメのように噛みながら帰路に就いた。 |
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