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http://chikyuza.net/modules/news1/article.php?storyid=604
09.03.31>情報を判断するのは受けて手の側である<三上治>
<みかみおさむ:社会運動家・評論家>
メディアに対する不信が強い。今回の小沢一郎秘書の「献金疑惑事件」の報道についてもその姿勢についての批判が根強い。今回の報道では、結局のところ検察のリークする報道を垂れ流しているだけではないかという印象が強く、それが検察の正義観に同調し、小沢一郎降ろしに加担しているだけだ、という不信につながっている。メディアに対する批判や不信は今に始まったことではないにしてもである。
今回の事件について言えば、メディアは検察の流す情報を一方的に流すしか手がなかったことは分かる。それは検察権力が情報を独占し、そこが流す情報しか報道のしようがなかったことは理解できるからである。権力が情報を独占し、それを権力運用の手段に使った典型例はナチスであり、日本の大本営もそうであった。情報が高度化する最初の時代に権力の運用手段として巧みに利用したのだ。もちろん現代はその運搬手段も含めて情報はより高度化し、人々の生活の中で情報のもたらす影響が格段に大きくなっている。統治権力(軍や警察、あるいは検察)の性格が開かれてなければ、メディアは権力のもらす情報を一方的な流すより道はないし、権力の様々な規制に従わざるをえない。アメリカ軍の報道管制を見ているとそれが現実である、というほかない。
問題の一つは権力のあり方にあるのだが、今回はメディアの問題にしているのだからそれには触れない。取材源ということを含めて権力に関わる問題についての報道が厳しい制約の中にあることを僕は認識する。メディアはそうした中でより多くの情報を引き出すための努力をするしかないのであろうが、それは限界のあるものだ。こうした中で、重要なことは情報の判断をするのはあくまでもそれを受け取る側にあるということだ。情報を判断する主体は受け手である。そうであれば、この情報を判断するための素材(それも情報の一つだ)を同時に提供すること、それが広くて深いものであればよい。それは一方的な考えの宣伝や理念の押し売りではなく、判断素材の提供である。論評とかコメントでいいわけだが、情報にそれが含まれていることだ、現在のメディアに対する不信が強いのは、権力の側の閉鎖的で操作的な情報に対して、それを判断するための論評などの提供が自覚的になされていないことだ。報道の自由という問題の一端はこちらにあり、それがジャーナリズムの機能でもある。この領域での機能を回復しない限り、メディアへの不信は増幅するだけである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔eye566:090331〕
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