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この新聞だけが逝けないとは思えない。「容疑者」は推定無罪の状態でも、虚ろな目で護送されて行く映像を数十回流されれば、見るものに消えない不安を与える。たとえ無罪でも。
~~~~~~~~~~~~~~~~(引用ここから)
特集:「開かれた新聞」委員会 千葉・東金事件、検証続け真実へ
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20090315ddm010040022000c.html
毎日新聞の「開かれた新聞」委員会は、昨年9月に千葉県東金市で起きた女児死体遺棄事件の本紙報道について議論しました。容疑者の弁護人から委員会に対し、報道は「倫理違反、人権侵害ではないか」との申し立てがあったためです。委員会の議論を紹介します。【司会は冠木雅夫「開かれた新聞」委員会事務局長、写真は平田明浩】=委員会は3月9日に開催しました。紙面は東京本社発行の最終版を基にしています。
◆千葉・東金事件
◇知的障害のある容疑者取材をめぐって
<申し立ての内容と対応>
08年9月、千葉県東金市の路上で、保育所園児、成田幸満ちゃん(当時5歳)の遺体が見つかりました。死体遺棄と殺人容疑で逮捕された勝木諒容疑者の弁護人からの申し立ては「(勝木容疑者を)犯人視して密着取材し、知的障害者と知りながら友だちのような関係と思わせて取材した。倫理違反、人権侵害だ」などというものでした。広田勝己東京本社地方部長から「通常取材の範囲の接触で、犯人視した密着取材はしていない」などと返信しています。
◇記者の疑問も生かせ−−玉木委員
◇捜査監視の仕組みを−−田島委員
◇記事化はより慎重に−−吉永委員
◇もう一度「全体像」を−−柳田委員
司会 今回は事件の容疑者に知的障害がある場合の取材と報道の問題です。
吉永みち子委員 取材者は、容疑者が知的障害者だとどの時点で認識したのか。
地方部長 逮捕前の取材は、あくまで現場周辺の聞き込み取材の一環であり、容疑者視した密着取材ではありませんでした。記者としては変わったところがある人だなという印象は持ったものの、受け答えはスムーズで「当然に知的障害者だ」とまでの認識は持ちませんでした。逮捕段階の取材でも捜査当局は「刑事責任は問える」としていました。
吉永委員 テレビで逮捕前の容疑者の映像をいくつか見ただけだが、知的障害を思わせるものが感じられた。「当然に知的障害だという認識はなかった」というが、納得しにくい。ある程度知的障害を認識した時、どう取材をしたらいいのかと考えたのか、逆に取材しやすく、取りあえず話や映像を取っておくと考えたのか。
地方部長 「この人は普通とは違うな」と思っても、周辺に確認取材するのはなかなか難しい。確認できない以上、通常と同様に取材するしかない。逮捕時に千葉県警が精神発達遅滞と発表した後は「知的障害者は証言を誘導されやすい」という認識のもと、警察に対する供述内容を報道する際には弁護側の意見もできるだけ掲載するなど配慮してきました。
柳田邦男委員 弁護人は母子手帳の記録や専門医の診断など詳細なデータを添えて、取材過程や逮捕以降の記事の違法性を問うている。しかし弁護士という、データをそろえて法的に違法性の線引きをする立場と、その時点時点で、凶悪犯罪や悲惨な事件を伝えていかなければならないメディアとは目指すものが違う。
この事件は、幼子が無残に殺害され、放置された重大事件で、すべてを調査し終えてから初めて記事を書くなどということはありえない。資料として提出された療育手帳判定結果を見れば、知的障害の内容は実によく分かるが、取材の初期段階ではまず入手できない資料だ。今後も、特に軽度の知的障害者の場合、取材者が最初から全部データを持ちうることは不可能だ。事件とのかかわりや障害の程度を可能な限り検証しようとすれば、どうしても当事者取材が必要になる。それは、全否定されるものではないと思う。報道の任務としての徹底取材と、法的に厳しく縛ろうとする立場の接点をどうするか。これから議論を成熟させなければいけない。
玉木明委員 問題がありそうな記事は、逮捕翌日の「女性つけ回しも 部屋一面少女漫画」(7日朝刊社会面)ではないか。これだと読者は、事件は性的な変質者の犯行という印象を持つだろう。警察は、過去の犯罪の類型に合わせて捜査し、パターン化されたわかりやすい物語を描こうとする。逆に弁護人は、事件の個別性や特殊性に固執することでその類型化された物語を突き崩そうとする。7日の記事は、性的変質者の犯行という警察の物語を裏打ちするような記事になっていないか。これは個別の記者の問題ではなく、犯罪報道の手法そのものがパターン化しているせいだと思う。
地方部長 容疑者の部屋に幼児向けアニメのポスターが張られていたり、少女漫画が並んでいたというのは、確かに警察からの情報です。でも同じマンションの女性のつけ回しは、独自の聞き込み取材で明らかになった。取材した事実を積み上げて容疑者像に迫ろうとしたもので、警察の手中にはまったとは考えていません。本紙女性記者が何度も無言電話を受けたり後を付けられたことも記事にしました。容疑者に関する事実の記録の一つとして必要だと判断したからです。
田島泰彦委員 それ自体は事実でも、その事実をこの記事の文脈の中で出すと「変な人」という印象を助長する。独自取材をいくら重ねても、捜査側の情報を強化する材料を提供するだけなら、本来の独自の意味はあまりない。容疑者像に迫るのは大事だが、一方で今後どういう事実が明らかになるか分からないのだから、あえて違う見方や別の可能性も同時に提示しておくべきではないか。弁護人は雑誌などで「(知的障害者のつきまといは)一般の性的不審者とか性的行為とは違う」と主張されている。ほかの専門家の意見もいろいろあり得るだろう。これらも受け止めつつメディアは警察とも、弁護人とも違う、主体的に事実を伝えていくべきだ。
特に、犯罪報道では捜査機関の権力行使のチェック、監視がジャーナリズムの最大の使命だ。知的障害などハンディキャップがある事件関係者への格別の配慮は欠かせない。捜査情報依存から脱却するためには、捜査情報の公開とともに、ビデオ撮影による取り調べの全面可視化や、取り調べ時の弁護士の立ち会いなど、捜査をチェックする仕組みの導入を求めていくこともメディアの重要な役割だと思う。
吉永委員 記者は「通常取材と同じ範囲の接触しかしていない」と言うが、通常の取材がこの人(容疑者)には誘導的に働いていなかったか。取材者と取材対象者という関係が認識されていたのかどうか。理解力が低いという障害を持つ人が話したことを、全部そのまま書いていいのかということになると思う。活字にする時、つまり取材で得た情報をどう整理して表に出すかをきちっと判断できていたのか。申し立てとは別に、私たちが考え、検証しなければいけない問題だ。ここがあいまいだと、類似の事件が起きた時、逆に取材現場がフリーズしてしまう恐れがある。
田島委員 「レジ袋に容疑者毛髪」(08年12月8日)の記事では、警察への独自取材を根拠に、被害者の衣服が入っていたレジ袋にあった毛髪は容疑者のものだと書いている。しかし、その後の取材で、実は容疑者の母親の毛髪と判明した。返信では、13日夕刊の記事「絵描かせ慎重捜査」で、そのことを書き、事実上訂正したとしているが、分かりにくいと思う。証拠と思われるかなり大事な部分についての間違いなのに「容疑者の毛髪と書いたのは間違いで」と、明確に書かれていないからだ。なぜ間違ったか、説明もほしい。
地方部長 継続的な事件報道では、一度書いた内容を修正すべきだと判断した場合、記事で「実はこうだった」と書くことはよくあります。訂正より、むしろ読者に分かりやすいからです。しかしこの場合は、最初の記事で「容疑者毛髪」と見出しにあり、修正記事でも見出しにすべきでした。書き方ももっと丁寧にすべきだったと反省します。
玉木委員 現場の記者が弁護人に「容疑者は人の死というものを認識できているのか」と質問した、と報告があった。この疑問は重要だ。この記者の思いを率直に語る署名記事があってもよかったのではないか。事件報道では、記者が捜査の方向などに疑問を持っても、紙面には出てこない。だから警察の情報も相対化されない。警察に依存した報道と批判されることにもなる。
吉永委員 申し立ても指摘しているが、朝日と読売新聞は「容疑者が職場で暴力を受けた」ことを報道しているが、毎日にはない。これは取材不足だったということではないのか。
社会部長 二十数年前、授産施設を取材したことがあります。そこに一人の知的障害の方がいて、女性と会うと必ず胸を触る。外形的には強制わいせつですが、職員の女性たちは来訪者に「この人はゴメン、胸触りに行くからねえ」と笑いながら説明し、彼をケアしていました。
もし何か事件があって、この知的障害の方が容疑者になったらどう報じられるか。記者が生活実態を知っているかいないかで大きく違うでしょう。知らなければ「強制わいせつ常習者」かもしれないが、時間をかけ取材すれば違う人物像になる。神ならざる身としては、最初から完ぺきな記事は書けず、時間をかけ書き足すしかない、と思っています。
柳田委員 何カ月か後に、より真実に近いものが分かってくることがある。今回の事件でも今後精神鑑定が出るだろうし、そうした段階で記事を書いたらどうなるか、直後の記事と並べて比較し、検証してはどうか。「○日にこう書いたが、こういう事実の意味づけが違った」とか、訂正も必要に応じてきちんと入れる。それができたら、報道のあり方の画期的な財産になりうる。細かい事実の間違いだけを断片的に訂正されても、読者は事件像や容疑者像を再構築できない。全体をもう一度書き直す検証記事が求められている時代だ。
地方部長 どこか節目でまとめてみたい。
地方部デスク 事件取材の指揮を担当しました。千葉県警は、容疑者は精神発達遅滞として匿名にしましたが、事案の重大性を考慮するとして口頭で実名を発表しました。異例の対応で、きちんと説明しなければと思い、翌7日朝刊に精神科医の談話も入れました。談話前半の「10代で軽度の精神発達遅滞と診断されても、社会適応でき、成人後に障害が残ることは少ない」との部分について、知的障害は治ることはなく偏見だと、弁護人から指摘されました。私たちとしては、後半の「通常は刑事責任能力もあるが、一部には特殊な思考を持つケースもあり、善悪の判断ができていたかは一概には言えない」で、この事案で責任能力が問えるかはまだ分からないと示したかった。まとめ方が行き届きませんでした。
柳田委員 今回、容疑者の弁護人から、法律上、報道が人権侵害などに抵触するのではないかと申し立てがあった。だが、報道をめぐる違法性の判断は法律家の仕事であって、我々は新聞メディアのあり方、取材と報道のあり方の中で、果たして妥当性があったのかを議論するためにここにいる。
精神障害者など個別に直接取材ができない、表現に気を付けなければいけないという条件がつくと、途端に事件自体が報道の中で縮小してしまう。歴史的には少年事件がそうだったし、精神障害者の事件もそうだった。加害者の人権が尊重されるかたわらで、被害者側の報道までが消え、被害者は孤立し二重の苦しみを味わう。被害者の視点もしっかりと視野に入れて報道のあり方を考えるべきだ。
メディアスクラムやプライバシー侵害は避けるべきだが、安易に報道が萎縮(いしゅく)してはならない。100日夜討ち朝駆けして真実の窓を開けられることがある。積極的に取材をしなければ、法的責任を問われることもないが、それは報道の自殺行為だ。あえて指摘しておきたい。
司会 ありがとうございました。本日の議論を取材や報道に生かしていきたいと思います。
◇
委員会には毎日新聞社側として山田道子サンデー毎日編集長もオブザーバーで参加しました。「開かれた新聞」委員会は毎日新聞の報道が対象ですが、同じ事件の報道について「サンデー毎日」にも申し立てがあったためです。今回の意見は今後の同誌の報道でも参考にしていきます。
(以下略)
~~~~~~~~~~~~~~~~(引用ここまで)
果たして今後マスコミは「推定無罪」の報道が出来るものか?
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