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近年、『朝日新聞』のある種の「変化」が注目されている。いつ頃からそれが始まったのかについては諸説あるが、とりわけ政権交代以降、その「変化」は際立ってきたように思われる。普天間問題においては、当時の鳩山政権に対する「米国目線」の論評が突出していた。特に2009年12月16日付社説は目を疑った。 「出発点は同盟の重要性を新政権として再確認することにある」として、「大局を見失うな」と、「日米同盟」を前提に取り組むことを鳩山由紀夫首相(当時)に要求していた 。その後も、「アメリカは怒っている」とか「日米同盟がもたない」といったトーンが強く押し出された 。民主党代表選挙に小沢一郎氏が出馬したときには、『産経新聞』の社説と同じく、「あ(開)いた口がふさがらない」という言葉を使ったのには驚いた(8月27日付)。
一面トップ記事は「新聞の顔」である。そこに何をもってくるかで、その新聞社の主張があらわれる。他紙がトップに置いたものを、あえて2面に落とす。こういう形で、その問題に対する姿勢を示すこともある。そこで、『朝日新聞』の「変化」を、最近の二つのケースで見ておこう。
一つは、「郵便料金不正事件」判決の扱いである。9月10日、大阪地裁は、郵便制度に絡む厚生労働省の文書偽造事件で、虚偽有印公文書作成・同行使の罪に問われた村木厚子元局長に対し、「偽造の指示、共謀は認められない」として無罪の判決を言い渡した。裁判所が、検察側の供述調書の大半を証拠採用せず、検察の捜査手法に重大な問題があることが明らかになった。ところが、『朝日新聞』(東京本社)はこの重要な事件を一面肩(左横)に落とした。この日トップにもってきたのは、自社の世論調査(公式には「本社情勢調査」)の結果(「菅氏、地方でリード」という見出し)である。
新聞は報道が第一義的任務である。自社の「世論調査」の結果を「事件」のように大きく扱う傾向が近年顕著になり、特に民主党代表選では、これがかつてない規模と頻度で行われた。『朝日』は、何回目かの「世論調査」の結果公表を、村木元局長無罪判決よりも価値があると判断したのだろう。これが当日の一面担当デスク(東京本社)だけの判断で行われたのかどうかはわからないが、冒頭の写真を見れば、『朝日』の扱いの異様さが際立っていた。
なお、同じ『朝日』でも大阪本社版だけは、この判決をトップにもってきて、「本社情勢調査」を肩(左横)に寄せていた。これが普通の紙面の作り方だと思うのだが、東京本社には、「菅氏、地方でリード」をトップにしなければならない特別の事情があったのだろうか。
今回の民主党代表選については、報道機関が「世論調査」という形をとって、世論誘導的な働きをしたのではないか、という疑問が取り沙汰されている。「サポーター」などへの影響を含め、具体的な分析は専門家の研究に待ちたい。
さて、もう一つ、『朝日新聞』の記事の扱いで驚いたのは、9月12日の名護市議選の結果についてである。基地反対の立場をとる市長に加え、市議会も基地反対派が圧勝した。選挙前、市長派12人、移設容認の前市長派12人、中立派3人で、議会は拮抗していた。今回の選挙で、市長派16人、前市長派11人となり、基地受け入れに反対する市長は、議会で安定過半数を獲得した。これで住民(住民投票〔1997年12月〕)、市長、市議会の三者がすべて基地反対でまとまり、「名護の民意」は確定したわけである。
『読売』13日付夕刊は一面トップで「名護市議選 反対派が勝利 普天間移設一層困難に」という4段見出しを打った。『毎日』も一面トップ5段見出しである。ところが、『朝日』は一面肩(左横)の扱い。トップにもってきたのは、経営破綻した振興銀行の払い戻し開始の記事である。これは、沖縄を管内とする西部本社版(福岡)も同じだった。ただ、西部本社の記事の分量は、名護が振興銀の2倍になっていて、扱いとしてはトップ記事よりも大きくなっている。かつてなら東京本社版も含めて、この名護のニュースをトップにもってきただろうに。一体、『朝日』はどうなっているのか。
もちろん、主筆や論説・政治部の一部などと違い、現場で日夜奮闘している記者を含め、『朝日新聞』を支える多くの人々がジャーナリストの原点を忘れずにがんばっていると思う。実際、那覇支局長の署名入りの、「沖縄 怒り 疲れ 虚脱」「ヤマトよ偽善だ」という見出しの、1面から総合面に続く長文記事も掲載されている(9月12日付)。そのなかで、沖縄の地元紙社説が、朝日、毎日、読売の3紙の実名を挙げ、異例のメディア批判をしたことも紹介されている。「沖縄だけに基地を押し込める日米両政府の従来の政策はなぜか検証されない」「『同盟危機』という言葉が思考停止を起こさせた」等々。
また、米軍ヘリが沖縄国際大学(宜野湾市)に墜落した事件について全国紙の扱いが地味だったことに触れ、「沖縄を裏切るのか。また切り捨てるのか。沖縄から上がる声は、鳩山由紀夫前首相だけに向けられたものではない」と、自省するような言葉も書いている。そして、宜野湾消防本部の関係者が、 「鎮火後、実況見分しようと近づくと、米兵が立ちはだかった。腰の銃に手をかける米兵もいた。事故から1 週間、遠巻きに米軍の調査を見守るしかなかった」という状況を紹介しつつ 、「ここは日本じゃないのか」という関係者の言葉を伝えた。
最後に、「沖縄はまだ完全には日本に復帰していないんです」という琉大教授の言葉を拾いながら、「沖縄は日本なのか。沖縄で今、繰り返し問われる言葉である」と結ぶ。
この記事は、『朝日新聞』が普天間問題であまりに米国と外務・防衛省寄りだったので、読者の批判を受けてバランスをとったようにも見えるが、全体として、『朝日』の見識はなお健全と信じたい。
ところで、『朝日』主筆らの「目線」は、あくまでも米国の立場を忖度しながら、沖縄に対して「ご理解をいただく」「理解を求める」という日本政府と同じ側にある。この「ご理解をいただく」「理解を求める」という言葉はくせものである。
名護市議選の直後、仙石由人官房長官は、「民意の表れの一つとして虚心に受け止めたい。移設計画と負担軽減の具体策について地元の意見を伺い、誠心誠意説明して理解を求める基本的な姿勢と態度を貫く」と述べた(『読売』13日付夕刊)。また、北沢俊美防衛大臣は、「既定の方針を変更することはあり得ないが、きちんと民意が表れた以上、より一層丁寧に説明をしたい」と語った(『毎日』13日付夕刊)。
実は、『産経新聞』8月18日付一面トップに、あたかも「スクープ」のように、「普天間移設 振興策で地元説得」「政府、新チーム設置へ」という見出しがおどった。内閣官房に新たなプロジェクトチーム設置を検討していることが、8月17日に「分かった」という記事である。新チームは外務、防衛両省、内閣府沖縄担当部局などを加えた課長級以上で構成される。官房副長官が、8月11日に仲井真弘多・沖縄県知事に会って、県内移設に「理解を求めた」。新チームはこの方向で、振興策を沖縄側に示して、基地問題に「理解を求める」という。こういう動きはほとんど知られていない。しかし、「誰が首相になるか」をめぐって熾烈な代表選挙が行われていたとき、官僚機構は着々と、辺野古「移設」に向けた態勢づくりをしていたのである。その手法は相変わらず、「振興策で説得」である。もっとも、この記事の終わりの方に、政府内には、前原誠司国土交通大臣が『基地問題と振興は切り離す』という姿勢を打ち出しており、振興策絡みの新チームの先行きは不透明とされている。「理解を求める」側も一枚岩ではない。
私には、近年の「説明」と「理解」という言葉の使われ方に違和感がある。議会で基地反対派が多数を占めたから、「説明」の仕方が「より一層丁寧に」なるというわけか。でも、沖縄の人々が基地受け入れに反対と言っているわけだから、北沢大臣が、どんなにやさしい声で、言葉をたくさん使って、ゆっくり、じっくり説明しても、「(普天間飛行場の辺野古「移設」という)既定の方針を変更することはあり得ない」というのが説明の中身である以上、むしろ「より一層丁寧」な方が、沖縄の反発をかうのではないか。
そもそも、「ご理解をいただく」「理解を求める」という言葉が使われるとき、それを使う側は明らかに一段高いところからものを言っている。相手が嫌だと言って拒否しても、決して拒否の事実を認めず、「残念ながらまだご理解をいただいていないようなので、より一層丁寧にご説明申し上げたい」と言い換える。つまり、相手が「ノー」と言っていることを認めたくないときに、「ご理解をいただく」という言葉が登場する。これは典型的な官僚的文法であろう。
権力者が「〜させていただく」と妙にへりくだった言葉を多用する傾向についてはすでに指摘したが 、その権力者が今度は「上から目線」で、慇懃無礼に相手と向き合うときに使う言葉が「ご理解をいただく」「理解を求める」ではないか。 国・行政など「強者」の側がすでに決定したことを実現しようというとき、それに反対する側が譲歩するか、あるいは反対する側の事情で決裂するまで繰り返される「つなぎの言葉」と言うこともできよう 。
名護市辺野古に基地を「移設」するという日米合意は、名護市議選の結果を見れば、もはや実現困難というのが実際のところだろう。にもかかわらず、県知事に「県内移設」への「理解を求め」、また振興策の金を積んで地元に「理解を求める」。90年代後半からずっととられてきた手法である。菅内閣は、沖縄だけに「理解を求める」という方策しかないのか。米国に対して、沖縄の困難な状況を「丁寧に説明」して「理解を求める」ことをなぜしないのか。なぜ、沖縄はいつも「移設への理解を求められる」側なのか。この点は、『朝日』の那覇支局長の長文記事で指摘されていたことと重なる。
なお、「移植への理解を求める会」というのがある。移植の世界も複雑な問題を抱えているようである。ここは臓器移植それ自体を論ずる場ではないが、臓器移植も、臓器を「提供する側」とそれを「受ける側」とがあり、それぞれに家族がいることを忘れてはならないだろう。
7月17日の改正臓器移植法 の施行により、「親族の総意」という形で次々と移植が行われている。これは、「提供する側」に過度のプレッシャーがかからないようにするという、1997 年の臓器移植法制定時の配慮が後退して、「提供する側」の「理解を求められる」心理的負担が増していることと無関係ではないだろう。
「移設」も「移植」も、「理解を求められる」側への視点が大切であり、どんな場合でも新聞は、「理解を求める」側と一体化してはならない。
(みずしま・あさほ=早稲田大学教授)
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