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転載者注:一部明らかな誤字は転載者の責任において訂正した。
http://yahhoo.cocolog-tcom.com/goodwill/2010/01/post-e17e.html
2010/01/27
「市民ネット」対「利権メディア」
マスメディアは相変わらずの情報捏造を繰り返している。たとえば昨日の国会答弁のニュース報道を例にとれば、前後を切り取った首相答弁を流すものだから、どこか違和感が付きまとう。今までならばそういうやり方で国民の目を欺けたが、今は国会中継もあるし、それを見てなくてもネットで真実が分かってしまうからウソが直ぐにバレる。
今時、マスメディアの報道をそのまま信じてしまうのはインターネットが使えないか、よほどオメデタイ人々ではないだろうか。そして、インターネットが普及したにも関わらず、恣意的報道を繰り返す報道関係者も、絶滅の危機に気がつかない恐竜に見えてしまう。
昨日の首相答弁を例にとれば、「政治資金管理団体による不動産保有は2007年の法改正で禁止された」事を前提とする答弁であるにも関わらずこの部分をカットし、「モラル上はどうか」との質問に、鳩山首相の「当然問題になる」との答弁部分だけを放送していた。
これは小沢氏が不動産を取得した時期の話ではなく、現行法規上の一般論だ。つまり一見似てるが違う論点であり、一般論と特殊解をいっしょくたにする、初歩的な詭弁術だ。
TV局が一生懸命「モラルに反する」と言う部分だけを取り出している事は、国会中継を見てなくともなんとなく分かるし、いかにも一般論と特殊解をいっしょくたにする違和感がある。仮にその事に気がつかなくても、おそらくネット上では誰かが指摘しているのではないかと思ったら植草氏がブログで指摘していた。
と言うわけで、今日はネット社会によってマスメディアのごまかしが利かなくなった事について考えてみよう。もっと言うと民主主義についてだ。
民主主義と情報化は連動していると思う。情報化によって民主主義がもたらされたと言っても良いだろう。だから独裁国家では情報を遮断する。戦前の日本は大本営発表に国民は踊らされていた。では戦後は?・・・。
これを考えてみよう。その前に論点の対象を定義しておきたい。ウィキペディアによれは、マスコミ、マスメディアはこう紹介されているので、拙ブログの定義もこれに従う。
<引用開始>
マスメディアは、新聞社、出版社、放送局など、特定少数の発信者から、一方的かつ不特定多数の受け手へ向けての情報伝達手段となる新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどのメディア(媒体)を指す。
本来、マスメディアにより実現される情報の伝達を「マスコミュニケーション」と表現するのは誤りであるが、日本国内では「マスコミ」として広く定着している。また、国内では「報道(ジャーナリズム)」と混同されることも多い。
<引用終わり>
戦後の情報化の進展は著しく、マスメディアの技術革新によって、情報化社会といわれるようになった。また、日本の敗戦の大きな要因に情報化戦略の遅れが指摘されもした。
特にTVの普及が果たした役割は大きく、情報のボーダーレスが大きく進展した。日米のTV中継での最初の映像はケネディ暗殺であった。今アメリカ初め世界で起こっていることが瞬時に伝わり、否応なく情報のグローバル化、即時性に驚かされる。
だが、どんなに情報伝達技術が進んでも、それはマスメディアの多様化と高度化であり、その機能はマスメディア側にあって受け手の市民側には無かった。情報技術の高度化によって情報を瞬時に且つ正確に伝える事が可能になったが、それを操作するのはマスメディア側だったのである。
ところがインターネットの普及によって、情報伝達の能力においては、個人も組織も大差が無くなってしまった。その気になればコンテンツの中身はともかく、映像なり文字なりを、個人でも世界に発信できてしまう。マスコミュニケーションがマスメディアの特権ではなくなったのだ。
すると、受け手の側もマスメディアと同じ情報発信能力を持ってしまったから、数の論理で大衆の目をふさぐことができなくなった。従来はマスメディアがどんなにウソを報道して見破られても、それを他人に知らしめる手段が無かったから、広まることは無かった、つまりインチキはやり放題に近かった。
例えば、交通事故とか、集会とか、まあなんでも良い、或る事件の目撃者や当事者になったとすると、その事件に関するメディアの報道は事実と大きく乖離していることが少なくない。というか数少ない自分の目撃経験では、不思議なくらいにメディアは事実と違う報道をしていた。
ところがそれを知らしめる手段が無いから、身近なところで、あの事件はさあ、ホントはこうなんだぜいと言う程度の噂話にしかならなかった。
自分が当事者であった場合は、一体何のためなのかマスメディアのインチキを不思議に思うが、ただの受け手になると途端に、自分が目撃したのは特殊な例だろうと思い、自分が関係しない報道は信じてしまう。ところがインターネットの普及によって、これが崩れてしまった。様々な事件には様々な目撃者や当事者がいて、報道のウソをネット配信してしまうからだ。
そこには映像も加わるから百聞は一見にしかず。どんなに恣意的な報道をしてもおかしさは一目瞭然だから、余程バイアスがかかって凝り固まった人では無い限り、あれれ何かヘンと気付いてしまう。
高知白バイ事件などはその典型だろう。あるいは植草教授のチカン冤罪もそうだ。マスメディアの報道だけでは分からないが、ネット上では目撃者や被害者の不自然さや、事件現場の監視ビデオを容疑者である植草教授が要求したのに、消されていたりする検察捜査の不自然さ、やましさに疑念が拭いきれない。
真実は一つであるから、真実をアリのままに写したものを、真実を求める者は求め、インチキをする者は当然に嫌がるか消し去る。だからそこから合理的に推測できる結果は明らかだ。
真実を知りたいものは全てをありのままに開示することを求めるが、恣意的にインチキをするものは当然に、全てではなく自分の求める結果になるように情報を欲しがる。だから小沢氏の足を引っ張ることが目的ならば当然に全てを明らかにしたくないから、小沢氏にだけ説明責任を求め、小沢氏を疑う側の根拠や説明は決して求めはすまい。
そして現実はどうかといえば、マスメディアはこぞって、小沢氏側にだけ説明責任を求めている。この意味するところはもう自明の理だろう。また、少し話題が変わるが、捜査の可視化についても、捜査にやましいところがなければ拒否する理由は無いはずだ。
これについてはまた別に書きたいと思うが、この一連の小沢騒動でのリークは異常であり、そのことはすでにネット上では問題となっている。だから、マスメディアの報道とは裏腹に、検察無謬の神話はとっくに崩れ、無謬どころか恣意だらけ、冤罪だらけではないかと、かなりの人は疑っているのではないだろうか。
なにしろ、リークの後に次々ネット上ではそのリーク情報の矛盾が論破されて、リークがころころ変わっていくのだから、信用しろと言う方がムリだろう。最近では小沢側の銀行口座入金日の直前に水谷建設側が金を支払ったとの供述が出てきたが、小沢氏が預金口座を教えたり、一斉捜査を受ける前ならともかく、その後にそんな供述が出ること自体、証拠の捏造を疑わせる。
何年も前から、水谷建設を調べ上げていたのだから、もし本当にいつ金を渡したと言う具体的供述が先にリークされていて、小沢氏の口座を調べたり一斉捜査をした後に、口座への入金時期がほぼ同時期とか、どこそこの領収書が出てくると言うならば、それは小沢が怪しいとなるが、時期の話が無くて、口座の中身が分かった途端に、その直前に渡しましたと自供?こんな証言、一体だれが信じるだろうか、その上可視化には反対?これで冤罪が無いなんて誰が信じると言うのか。
むりやり、マスメディアはネガティブ情報を流し続けているが、ネット時代には限界があるぞ。これでは、もし本当に小沢氏に違法行為があった場合でも、冤罪の疑いを持つ人は相当にいると思う。結局は、今の検察のやり方は、もしやましいところが無いならば、ハッキリ言ってネット時代には逆効果だ。
人の口に戸板は立てられないように、ネット上では人々の疑問がどんどん膨らんでいってしまうからなんだが、そのために検察の威信は地に落ちてしまい、秘密警察の様相を呈してしまっている。かつて、ロッキード事件で田中角栄が逮捕された時、日本はスゴイ、たとえ時の権力者といえども、正義の番人に逮捕されるんだと感動したものだが、それもこうなると実に怪しくなる。
こう言った事から思うのは、今、世の中の中枢にいて自分がそれをコントロールしていると思っている人々は、忙しくてあまりインターネットを見る機会も無く、また操作をする時間も無くて、インターネットを実は良く理解してないんじゃないか、ということだ。
インターネットの普及と高度化によって、情報発信の一般化がここまで進展してしまうと、先に述べたように、マスメディアも一般市民も、その情報発信能力には差が無いから、目撃者がいたり、チョイとモノを考える市民がいれば、たちまちウソの情報や、見解の矛盾点は、ネット上で直ぐに見破られてしまう。
それどころか、目撃者がいないリーク情報も、たちどころにウソがばれてしまう。いい加減に大本営発表を垂れ流すメディアやコメンテーターは、この事に気が付くべきだ。とくにコメンテーターは組織に属する記者とは違い、自分自身で意思決定しているのだから、危うい発言は人々の記憶に残り、アホな評論家・コメンテーターと思われるのがオチだろう。
日本は北朝鮮ではないし、かつて大本営発表で国民を欺いたマスメディアは反省し、民主主義に向かったのではなかったのか。ところが国破れて正義ありと、正義の番人を標榜する検察、権力の監視を標榜するマスメディア、いづれも不透明でいかがわしい事この上ない。
一体この国の正義とは何なのか、何故ありのままに物事を進めないのか。取り調べを受ける「悪」であるはずの小沢氏側だけが記者会見し、正義の番人・権力の監視をすべき検察・マスメディアは、姑息極まりないリーク報道ばかりだ。
「悪」が堂々とし質問に答えているのに、「正義」がコソコソと策を弄してばかりでは、「悪」と「正義」の言葉の定義が逆転してしまう。
かつての戦争末期に、オトナたちのB29に対する竹槍訓練を見て、子供たちはゲラゲラ笑っていたという。そしてそのオトナ達も最後はだれも大本営発表を信じなくなっていたとも言う。今、検察無謬の神話が崩れようとしている時、かつての検察OBは何とも思わないのだろうか。
「正義」が何を言っても、B29と戦う竹槍部隊と同じで、だれもそんな「正義」は信じなくなる。そういうところまで来ている事を「正義」を振りかざす人々は気づいてほしい。有名人だけが影響力を持っていた時代とは違って、ネット時代では、口封じには限界があるのだ。
本稿のタイトルを「市民ネット」対「利権メディア」としたのは、既存マスメディアが記者クラブという談合組織を維持し、不正な金の授受こそ無いものの、監視すべき権力とべったりだからだ。