★阿修羅♪ > マスコミ・電通批評10 > 325.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
「「リーク批判」に対する新聞の「言い分」
小沢一郎民主党幹事長の資金疑惑問題に関連し、ここ数日、報道の表現方法が微妙に変化を始めている。多くのみなさんも、それに気付いていると思う。例えば、これまでは「……ということが関係者の話で分かった」となっていたのに、「……と供述していることが石川容疑者側の関係者への取材で分かった」「……ということが小沢氏側の関係者への取材で判明した」といった表現が増えているように思う。とくに、2、3日前からのテレビのニュースでは、この種の表現が間違いなく増えている。
「検察情報の垂れ流しではないか」との批判に対抗したものだと思われるが、しかし、相変わらず、「……ということが東京地検特捜部の関係者への取材で分かった」という例は、ほとんどない。「地検関係者」「捜査関係者」もほとんどない。「地検関係者への取材で分かった」といった書き方をすれば、おそらく、東京・司法記者クラブの地検担当記者たちは、かなりの確率で「出入り禁止」処分を受ける。「出禁」は10日間とか2週間とか続くから、「出禁」になれば、庁舎内で行われる次席検事らのオフレコ懇談、被疑者を起訴した場合のレク等に出席できなくなる。それを懸念しているのだろうと思う。要は検察当局に睨まれることが怖いだけではないのか。「検察関係者」という「検察」の2文字すらきちんと書けない理由は、ほかに思い浮かばない。私などは、仮に「出禁」になったとしても、その場合は「出禁」になったと書き、そういう検察の行為を論評すればいいだけの話だと思うが。
そうした中、産経と読売の両新聞がこんな記事を載せた。ネットには出ていないようだし、部分的にではあるが、引用しておこう。
<産経 1月21日朝刊 近藤豊和氏による署名記事>
『……現在、民主党の小沢幹事長の資金管理団体をめぐる政治資金規正法違反事件が、まさに佳境となっている。各報道機関の記者たちは、大量の土地登記簿や政治資金収支報告書などを収集し分析、関係者たちからの証言を積み重ねている。断片情報をモザイク画のように構成し、事件の全体像をうっすらと浮かび上がらせているのだ。地をはうような取材を文字通り、命を削って日々行っている。
事件の内容や逮捕日などを「さあどうぞ」と教えてくれる人などは誰もいない。事件の記事が分かりにくいというご指摘を読者からも受けるが、恥ずかしながら入手できる情報が限られていることもある。
捜査畑で辣腕(らつわん)をふるったある検察幹部は、何かを問い掛けると、「足で稼いでこい」と言うだけだった。別の検察幹部は、同僚記者が雨中に官舎前で待っていると、ずぶぬれの足元を見て靴下を手渡し、何もしゃべらずに、玄関の中ににまた消えたという。
「検察のリーク」「検察からの情報による報道の世論誘導」…。こうした指摘の根拠を知りたい。』
<読売 1月23日夕刊 論説委員・藤田和之氏の署名記事>
『……取材源が不利益を被ったり、その身辺に危険が及んだりしないよう、秘匿するのは記者の鉄則だ。
読売新聞では一昨年春から社内の新指針に基づき、事件・事故の取材と報道にあたっている。事実をどういう立場から見るかで、捉(とら)え方が違うことがある。それを出来る限り読者にわかるようにしよう――。そうしたことも掲げた。
だが、取材源を明示し、読者に知らせるべき情報を得られなくなれば、本末転倒だ。読者の利益が大きい方を選択するしかない。
記者は、多数の「関係者」の話を積み重ね、集めた膨大な資料とも突き合わせて、「間違いない」と確信できる内容を報じる。
「関係者」の中でも、検察官の壁は特に厚い。無言か、「知らない」。寒風吹く中、質問内容を忘れるほど震えつつ5時間待った結果が、わずか数十秒のこうしたやり取りだ。その繰り返しである。
政治家も、記者と同じ取材を1週間やってみればよい。その上で「検察リークを確認した」と言うなら、その言葉に耳を傾けよう。』
他の新聞にも似たような「弁明」は出ていたかもしれない。しかし、何というか、これでは「おれたち、苦労してるんだよ」という話でしかないし、数多ある「今の小沢氏関連報道はおかしいのではないか」という根本的な疑問には何も答えていない。<事件の内容や逮捕日などを「さあどうぞ」と教えてくれる人などは誰もいない>と近藤さんいう。たしかに、地検の庁舎に行って窓口で「はいどうぞ」と教えてくれることはないだろうが、これでは、「ではなぜ、家宅捜索の日時が事前にあんなに広く知られているのですか」という簡単な質問にすら答えていない。
<「検察のリーク」「検察からの情報による報道の世論誘導」…。こうした指摘の根拠を知りたい>と近藤さんは書き、<記者と同じ取材を1週間やってみればよい。その上で「検察リークを確認した」と言うなら、その言葉に耳を傾けよう>と藤田さんは書いている。しかし、相手が積極的だったかどうか、苦労して語らせたかどうか、頷いたかどうかといった取材の態様等は別にして、広い意味でのリークが日常的に行われていることは自明の理だ。そんなこと、事件記者なら常識ではないか。
ただし、たとえ民主党であれ、そのような取材現場の行為を某かの強制的な力で罰しようとの動きには賛成しない。取材とは、極論すれば、相手にリークさせることである。「リーク」「内部告発」「情報提供」といった語句の厳密な定義は難しいが、権力や当局の奥深くに刺さり、常にその動向をウオッチングすることは、報道機関にとって必須の行為だ。
問題は「立ち位置」である。どういう観点からどう取材し、どう報道するか、というスタンスが問われているのだ。
「苦労して取った情報だからリークではない」とか、そんなレベルの話ではないのだ。何度でも言うが、「立ち位置」の問題なのだ。夜回りや朝駆けなど記者としての「営業努力」は必要だし、継続しなければならないと思うけれど、「苦労して得たから情報だから」といって、それを無批判に信じて報道するのであれば、それは単なる垂れ流しでしかない。
捜査の途中情報をじゃんじゃん紙面等で流した結果、例えば、菅家さんの事件や鹿児島の志布志事件では、どういう報道が行われたか。そういうことをきちんと考えなくてはいけない。仮に「供述」が事実であったとしても、その供述は取調官からの威圧や誘導などを受けた結果ではないかどうかを考えなければならない。以前にも書いたが、捜査の途中経過情報を記事にして、結局、それが起訴状にも冒頭陳述にも証拠採用された調書にも登場しなかった事例は、山のようにあるはずだ。しかし、どうしてそういう結果になったのかという反省と検証は、日本の報道界では(完全に冤罪が確定した菅家さん事件のような一部の例外を除き)ほとんど行われたことがない。そうした延長線上に、今回の問題もある。
読者からの少なくない疑問に対しても、「現場の苦労話」を回答とするのでは、本当に、何というか、なんだかなあ、である。読者と取材者の、ここまでの乖離を見せつけられると、逆に、袋小路に入り込み、完全に出口を見失った新聞の現状を改めて見せつけられたような気がしてしまい、溜め息の連続である。どうも日本の報道機関は、とくに警察・司法当局とは二人三脚で歩みたがる。どうして、もっと距離を置けないのか、と思う。あらゆる取材対象の中で、捜査・司法当局に対する従順度はトップクラスではないか。「あの先輩記者は警察幹部に情報をぶつけ、その顔色で記事を書けるかどうかを判断していた。すごい記者だった」みたいな、牧歌的な風景や伝説に心酔している雰囲気は、今でもある。」
http://newsnews.exblog.jp/13562517/