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◆敗戦国のツケは64年経っても付いて回る? 既往の心筋梗塞と軽度の糖尿病があり、2か月に1回ぐらいの頻度で、長年通院している。現在の主治医は40歳代後半ぐらいの男性。付き合いはもう長い。病気のこと以外でも言葉を交わす間柄だ。昨年暮れの診察時、「まだあちこち講演にいらしてるんですか」と聞かれた。70歳代も半ばとなった当方を気遣ってのことだろう。 「講演はそれほどではないけれど、この歳になると、かえっていろいろ頼まれごとが多くなり、外出はけっこうしてます」。ほうっ、というような表情が返ってきた。そこでつい、沖縄返還「密約」情報開示請求裁判の原告団の1員になっている話をした。12月1日の公判で吉野文六元外務省アメリカ局長が証人として出廷し、日本政府の「密約」の事実を証言、テレビも新聞も大きく取り上げたから、この裁判のことは知っているだろう、とする思いもあった。ところが、けげんな面持ちだったので、裁判について少々説明を試みた。すると、事情は飲み込めたとする様子の彼から返ってきた言葉が、「だけど日本はアメリカに負けたんですから、そのぐらいのことはあってもしょうがないんじゃないですか」。意固地で心配性の老人をいたわるような、屈託ない笑顔がそこにあった。 私は、予想外の答えに拍子抜けしたが、「日本はアメリカに負けたんだからしょうがない」という言葉を反芻するうちに、あらためて驚き、それがだんだん大きくなるのを感じた。私が期待していたのは、「たいへんですね。でもあまり無理なさらないでくださいよ」ぐらいの言葉だったのだろう。しかし、この問題を重要と考え、解決には全力を傾けねば、とするこちらの思いが、まったく通じない相手がそこにいた。私の考えに反対だと、立ちはだかる姿勢ではない。 むしろ、些細なことにこだわらず、ゆったりお過ごしになったらいかがですか、とする思いやりが感じられた。暖簾に腕押しだ。このすれ違いに、「医者の専門バカで、これが大事な問題だということを知らないんだ」と理解しようとした。だが、待てよと思った。「世間のたくさんの人が彼と同じように思っているとしたら、こちらのほうが独りで勝手に力んでいるだけで、間が抜けているのはこっちではないのか。 どちらが正しいかではない。世間の多数派から見たら、こちらはそういうものとして映る、ということになるのじゃないか」。驚きは静かな衝撃に変わった。アメリカに負けたのはもう64年も前だぞ。しかし、まだずっとしょうがないということなのか。 驚くことがほかにも起きた。暮れもだいぶ押し詰まった12月22日、読売の夕刊が、「核密約文書佐藤元首相邸に 日米首脳『合議議事録』」「沖縄持ち込み 存在、初の確認」と、スクープを放った。なんで今この時機にと、まず思った。その大きな記事に並んで、「米国務長官 駐米大使異例の呼び出し」「『普天間』先送りを了承せず」「与党3党『5月までに結論』」の記事も、2番トップで載った。他紙より格段に目立つ扱いだった。 「佐藤『核密約文書』」発見は当然、翌朝の各紙もいっせいに追うところとなり、大騒ぎとなった。これが本当に読売の調査報道の成果としての特ダネなのか、だれかが仕組んだ暴露なのかはわからないが、客観的には、「アメリカに負けたんだからしょうがない」とする記憶のなかで生きてきた多数派の思いを、さらに補強する効果はあったのではないか。いや、「アメリカに負けた」とする記憶が薄れかけたものや、そんな記憶を初めから持っていない、より大きな多数派に、「負けた日本」の記憶をしっかり植え付けるほどの衝撃力を、このスクープは発していた。その効用は、過去の記憶の回復だけに終わるものではない。負けたからにはアメリカのいうことを聞くしかない―今やるべきことにもそれが付いて回っている、とする理解を促しさえするのではないかと思わせた。 71年の沖縄返還協定調印(返還実施は72年)に2年近くも先立つ1969年、佐藤栄作首相とニクソン米大統領は、ワシントンで日米首脳会談に臨み、沖縄の施政権返還後の米軍基地の運用に関する協議を行った。非核3原則の政策をうち出している佐藤首相にとって、沖縄返還は「核抜き本土並み」でなければならず、アメリカから沖縄の核撤去の約束を得る必要があった。アメリカとしては、返還後も沖縄の基地は従前どおり使いたいとする、軍の意向を押し通す必要があった。実際、アメリカは続行中のベトナム戦争で、沖縄の基地を補給・訓練の拠点としてフルに稼働し、さらに北ベトナムへの空爆に向かうB52を、沖縄から直接出撃させていた。このような状況の下、佐藤首相の密使、若泉敬京都産業大教授とキッシンジャー米大統領補佐官とが秘密裏に接触、表向きの「核抜き本土並み」を米国側が承知する一方、内密を条件に、米国側から見た「重大な緊急事態」が発生したときは、事前協議を経て「核兵器の沖縄への再持ち込みと沖縄通過」を日本が認める、とする合意を、あらかじめまとめていた。 こうしてお膳立てされてあった英文「合意議事録」に両首脳が署名、各通を両者が持ち帰ったのがワシントン会談の顛末だったが、佐藤首相の受け取った文書は、彼の死んだ75年、佐藤家で発見され、その後は、彼の次男、佐藤信二元衆院議員(元通産大臣)が30年以上も手元に保管してきた―その間のことは官邸も外務省もあずかり知らない、というのが読売スクープのあらすじだ。 おかしな話だ。私はこのニュースが明らかにした事実と、これを取り扱うメディアの報道・論評の姿勢に、腹が立った。トップ・シークレット(極秘)とされたこの「密約」=「合意議事録」は、そこに記載された約定によれば、米国側はホワイトハウスに、日本側は首相官邸に、保管されることとなっている。文書には職名を併記した両氏のフルネームの署名がある。どうみてもこれは、後代にわたって両国政府を拘束する公文書だ。 おそらく米国側には約定どおり、ホワイトハウスに保管されているのだろう。これに対してなぜ日本では官邸に保管されておらず、佐藤首相の私物扱いにされてきたのか。外交上の機密に関し、その内容が関係機関内の責任者らに知悉されていても、その根拠となる文書の公開は一定期間拒まれ、秘密が保たれるということは、制度的にはあり得るだろう。だが、文書が私文書とされ、公的イシューが私事に変えられていたら、当該事案をめぐって生じる相手国に対す外交責任も、国内的な統治行為も、レジティマシー(公的な制度的正統性)を欠くものとなってしまうではないか。 官邸も外務省も、よくもまあこんなことを放って置いたものだと、呆れるばかりだ。おまけに佐藤首相は、「非核3原則」を貫いて沖縄返還をかち取ったことを評価され、ノーベル平和賞をもらったが、これでは授賞委員会をペテンにかけたことになりはしないかと、ひとごとながら心配だ。 沖縄返還「密約」情報開示請求裁判に関わってつくづく思うことは、法廷に出てくる外務省・大蔵省が関係する問題「密約」文書のほとんどすべてが、アメリカの国立公文書館や軍の関係機関から、アメリカの情報公開法に基づいて入手されたものであるのに対して、日本政府からはなにも出てこない情けなさだ。対抗的に保有しているべきそれらの文書について、両省は「不所持」「不存在」を繰り返すだけなのだ。 ところが今回、佐藤「密約」の場合は、アメリカ側保管文書としては公開がないのに、日本側から、政府は関係ないぞといわんばかりのかたちで、日米両首脳の「合意議事録」がすっぱ抜かれたのだ。どう考えてもこれはおかしい。アメリカから出てこないのには、情報公開制度上のわけがあり、最高機密扱いでホワイトハウスに保管されたままという可能性がある。あるいは国立公文書館に移管されていても、情報公開指定の対象外に置かれたままということもある。 もしそうだとすれば、佐藤家の混乱から、アメリカ側が最高機密としたままでいる「密約」文書が暴露される事態となったのは、とりもなおさず日本政府の失態ということになり、公然か非公然かは問わず、日米両国間の外交上のトラブルとならざるを得ない。ところが、そういう動きに発展する気配がないのにも、首をかしげたくなる。岡田克也外相は、「密約」の公表はよかったなどと、のどかなことをいっているし、民主党の対米外交上の失態だったら、自民党が鬼の首でも取ったみたいに大騒ぎして非難するのに、そんなことも起きない。アメリカも前もって承知していたことなのではないか、とする疑問が浮かぶ。 そこで思い返されるのが「日本はアメリカに負けたんだからしょうがない」だ。この「核密約文書」の暴露を思いつき、実行した人たちは、日本国民のそうしたメンタリティーを熟知しており、これを毅然と公表したほうが、かえって多くの日本人に、たいへんなことだったんだ、アメリカのいうとおりにしないとしょうがなかったんだ、と思わせることができると、踏んだのではないか。 そして、読売の翌日朝刊に掲載された公表者、次男の信二氏の談話、24日朝刊の1面コラム「編集手帳」、社説「『佐藤』密約 東西冷戦下の苦渋の選択だった」などが、当時の困難な情勢の下、「国益」のためにやむを得ず、真実と異なる「密約」を隠し通し、その苦渋を一身に背負ったのが首相だったと、見ようにもよるが、故佐藤首相を、あたかも歴史の犠牲者でもあるかのように描いてみせる。冗談ではない。彼こそが、沖縄や核をめぐる、いろいろなとんでもない「密約」の原型をつくった張本人であり、日本の対米従属の構造化に道を拓いた元凶なのではないかと、私には思える。 ところが、読売のスクープに追随した各紙も、さすがに読売ほど露骨な“佐藤びいき”は見せないが、彼の罪過を鋭く指摘し、批判を加えるかというと、そうではなく、なんとなく故佐藤首相の「密約」を遠巻きにして眺めているだけ、といった感じなのが苛立たしい。今度の「密約」の発覚は、いくら日本が戦争で負けた相手とはいえ、アメリカに対してこんなやり方をしてはいけない、ということを日本国民に実物教育する、恰好の機会なのではないか。新聞はせめてそのぐらいのことはいうべきだ。だが、そういう声が聞こえてこない。これでは新聞が率先、「日本は負けたからしょうがない」の空気をつくり出し、日本人をそれに馴らしつづけているようなものではないか。 10月のゲーツ米国防長官来日と11月のオバマ米大統領訪日に際して、ほとんどの大新聞が、前政権の対米合意どおりに普天間基地の名護移設を実施に移す、とする態度表明を鳩山政権がすぐしないことを非難、このままでは日米同盟が危機に瀕する、と批判を繰り返してきた。確かに鳩山政権はもたもたしていた。だが、12月15日、政府はようやく、連立政権の3党首会談を経て、拙速の方針決定を避け、2010年5月まで移設方針の検討をつづける、ということにした。そこには、「日本は負けたんだからしょうがない」的な対応を改め、そろそろ今後の日米安保のあり方を根本から見直し、さらに、たくさんの米軍基地が置かれている沖縄現地の人たちの声もあらためてよく聞こう、とする姿勢がうかがえる。既定の合意に縛られずに、普天間基地をどこに持っていけるか、移転先の基地をどの程度の規模、機能を持つものとしてつくるべきか、日本として主体的に検討していこうという姿勢だ。 新聞は本来、そうした方向の追求をこそ督励すべきだろう。ところが、読売・産経を筆頭に、大方の新聞は相も変わらず、すぐ移設先を名護に決めないのはけしからん、決めない鳩山政権はアメリカの不信を買い、日本はアメリカから相手にされなくなる、と叫びつづけている。こうした状況に普天間問題が置かれている時機に「佐藤『核密約文書』発見」の一石を投じたものは、そうすることによって、アメリカのこわさ、敗戦国の日本が直面しなければならない現実の厳しさを、あらためて日本人にわからせる必要がある、と考えたのではないかという気がする。そして日本の少なからぬ新聞がそれを、自覚の有無にかかわらず、手伝っているというのが実情ではないのか。 日本人が、負けたからしょうがないという考え方から抜けきれないせいで、いつまで経ってもアメリカが、勝手なことを日本にいったり、日本でしたりするのだろうか。あるいは、アメリカの勝手をいつも許し、またそれに馴らされ、いつも似たような対応を繰り返してきたせいで、日本人は、負けたのだからしょうがない、とする考え方から抜けきれないでいるのだろうか。現実には、どっちの関係も成立しているように思える。そして、どちらの関係にせよ、もう戦後65年、「55年体制」成立からは55年、冷戦体制崩壊(89年)からでも21年という長い年月が経った今日、それはもう解体されるべきものではないかと、痛切に思う。何によらず、いきなり日米関係を想定したとたん、アメリカ=勝った国、日本=負けた国、と思い描くことは止めなければならないということだ。 それは意外とむずかしい。長年のうちに習い性としてきたことだからだ。しかし、努力して頭を切り替え、新しい考え方に意識を集中、21世紀の世界の変化を正確に見通し、その中でアメリカの何が今問われているのか、日本の立ち位置に変化はないか、日本が世界に貢献できる独自の役割は何かなどを、まず自分の頭で考えるようにしていく必要がある。 新しい変化へと向かう民主党政権に一縷の望みが託せるうちに、そうした思考方法を確立、政府に変化の課題を呈示し、その実現を促していくことが、今年こそメディアに強く求められている、といわなければならない。メディアがそうした役割を発揮すれば、国民は、1945年に歴史の見方、政治の考え方を根本的に転換したのと同じような体験を、2010年にも味わうこととなり、日本が本当に変わっていくこととなる可能性もある。 最後に沖縄のことを考えたい。というより、普天間問題を、沖縄にとって気の毒な問題だ―沖縄のために早く解決してやりたい、とするような発想で捉える愚と、この際はっきり決別しなければならない、といいたい。 日本人全体が抱く漠然とした「アメリカに負けたのだからしょうがない」というメンタリティーの枠組みの中、沖縄全土の米軍基地こそ、わかりやすい「しょうがない」部分として残りつづけてきた。この事実が示すのは端的に、沖縄の米軍基地がほとんどこのままのかたちで残りつづける限り、日本人全体に、「アメリカに負けたのだからしょうがない」とするメンタリティーが、限りなく再生産されていくということだ。こうした文脈に沖縄問題を置いてみれば、それは沖縄の問題でなく、即日本のあり方全体の問題だということが明白となる。 日本の国民全体がそう考えられようになったとき、これまでの日本が新しい日本へと、本当に変わるはずなのだ。 |