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http://www.the-journal.jp/contents/aikawa/2009/11/post_6.html
【Commons】
取材で全国各地を回り、腰を抜かすような現実に出くわす毎日を送る当方だが、反対にびっくりされることも少なくない。訪問先で「よくこんなところまでわざわざ来ましたね」と驚かれるのである。それで、当方いつも「記者が取材現場に足を運ぶのは当たり前のことです」とこたえるのだが、相手の方からは決まって「いや、最近の記者はだいたい電話で済ませますよ。わざわざ会いに来る人はいませんよ」と、繰り返されるのだ。まるで暇な変わり者のように思われてしまうのである。
確かに、最近は携帯電話とメール、インターネットを駆使して取材活動を展開する記者さんは多い。また、記者クラブ活動を記者活動と勘違いしている記者さんも少なくない。しかし、取材者が直接、取材対象者を訪ねるのは基本中の基本のはず。にも関わらず、余りに不思議がられるので、自分が時代の変化についていけない古いタイプなのかと思ったりもする。もっとも、取材対象者からすれば、遠方からふらりとやってきた素性もわからない記者にどう対応すべきか、戸惑いがあるのは間違いない。それで、こちらはひたすら相手の方のお話に耳を傾けるのだが、これにも驚きの反応が返ってくる。「あなたは私の話をしっかり聞いてくれる。珍しい記者さんだ」と。思わぬ言葉に当方、再び、小首を傾げるのである。「記者は取材対象者の話をじっくり聞くのが仕事なのだが」と。確かに、最近は偉そうで横柄な記者さんが増えていると聞く。だが、それは、巨大な組織や溢れる権威の後ろ盾を持つ記者さんや著名なジャーナリスト達の世界の中でのこと。一介のフリー記者にとって、横着と横柄な姿勢はあり得ない(もちろん、組織内記者や著名なジャーナリストの中にも謙虚でコツコツと地道な取材活動を重ねる方々はたくさんいる)
こうした取材活動を続ける当方、よく「足で記事を書く記者ですね」と言われる。どうやら褒め言葉のつもりで仰っているようなのだが、それは大きな誤解である。記事は足で書くものではない。指で書いているというのは、冗談で、自分のあらゆるものを総動員してやっとの思いで書いているのである。自分の足で現場を訪ね、自分の頭で考えて、自分の言葉で質問し、自分の耳で聞いて、自分の目で見て、いろんなものを感じとって初めて、自分の記事が書けることになる。つまり、全身全霊を傾けて書くものなのだ。「それであの程度の記事か」と、笑われることばかりだが、そうなのだ。つまり、自らの総合力を超えた記事は書けない。だから、いかにして自らの総合力を上げるかが記者にとって大事なのだ。
しかし、それ以上に重要なことがあることに、最近になってやっとわかった。それは何か?記事は「心で書くもの」ということに気づいた。「何のために記事を書くのか」がポイントなのだ。つまり、記者が自らの使命をどのように考え、その使命を果たすためにどのように努力しているかである。恥ずかしながら、四半世紀以上、記者をやっていて、最近になってやっと実感するようになった。では、自らの記者としての使命は何か?五十を過ぎたオヤジが口にしたら、「なんて青臭いことを」と一笑に伏されるのは間違いないので、言わない。だが、おそらく、当方と同じ思いで取材活動を続けている同業者はたくさんいるはずだ。心で記事を書く記者たちである。もちろん、「マスゴミ」という品のない表現でひとくくりにされた、組織内記者の中にも。