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逮捕者まで出た過熱報道が
テレビに暗示するもの【BPnet】
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20091117/195779/?P=1
2009年11月18日
規制ロープを超えてまで顔写真を撮ろうとするのは「報道の自由」か?
もはや「呆れはてる」というべきかもしれない。
10日から12日に繰りひろげられたマスコミの大騒ぎである。
3年近くも逃げ逮捕されたという話題性はあったとしても、新幹線のなか改札口そして警察署前での大騒動に、眉をひそめた方も少なくないだろう。
ついに11月12日の警察署前では、TBSテレビの社員が公務執行妨害で逮捕までされている
(参照:TBSディレクター現行犯逮捕 警察官の制止振り切り取材 JCASTニュース 11月12日)。
目撃したわけではないが、「規制ロープを超え、警察官の制止を振り切って車を追いかけた(同上)」というのだから、ありそうな事態である。
取材中の報道関係者が逮捕されるのは前代未聞だろう。
ただ、それを「報道の自由」に結びつける意見には、いささか抵抗が残る。
たしかに「取材活動に対して警察が安易に公的権力を使い、刑事責任を問うのは報道の自由の点で問題(朝日新聞 11月14日 大石泰彦青山学院大教授のコメント)」かもしれない。
そんなことが横行したら、いわゆる「国民の知る権利」などカタチだけのものになってしまう。
しかし、新幹線のなかからの中継も、駅改札口での大混乱も、なにを伝えるための取材活動だったのか、どう考えてもわからない。
警察の不手際はあったとしても、そこに見えたのは「過剰なまでの狂乱状況」だけである。
仮に、容疑者の顔を撮影するのが目的だったとしても、ほかに効率的で確実な方法があっただろう。
そもそも、移動中の容疑者の姿を、新幹線のなかから中継する必要があるとは思えない。
「規制ロープを超え」てまで、顔写真を撮ろうとするのは「報道の自由」ではない。
それは「国民の知る権利」とは、まったく無関係な好奇心の類である。
しかも、社員が逮捕されたにもかかわらず、11月16日の現時点まで、TBSテレビの公式見解はサイトでは公開されていない。
また、見ていた限りでは番組でふれた形跡もないようである。
国民が知ることができたのは、他メディアに掲載された「体が勝手に動いてしまった」的な逮捕された本人のコメントだけである。
さらに、TBS社員の逮捕を伝えたほとんどの報道が、逮捕されたディレクターの氏名を匿名にし、なかには担当番組が曖昧なニュースさえあった。
けっして「実名で報道しろ」と主張はしないが、これでは「互いに庇いあってるのでは」と疑いたくもなってしまう。
いま知りたいのは、TBSだけでなくメディア各社の公式な見解である。
少なくとも、番組のディレクターが逮捕されているのだから、適正な取材活動だったのかくらいは検証すべきだろう。
それをしないまま、「○日絶食」にはじまり果てはオバマ大統領の「抹茶アイス」にスポットを当てていては、すでに失いかけている報道への信頼は取り戻せない。
テレビのニュースからジャーナリズムは死滅しつつあるのか?
この種の大騒ぎは、今回がはじめてではない。
タレントの薬物汚染の際も似たような騒動をまきおこしていた。
警察署の前に群がるカメラも、移動する車を追いかけるマスコミ各社も、そのときと同じままである。
いや、もっと以前から似たような呆れた取材光景を何度となく見せられてきたような気さえしてしまう。
考えてみれば、警察署などの現場からの中継が必要なのかも疑問である。
いつのまにか不思議にさえ思わなくなってしまったが、いまや、テレビのニュースといえば、民放からNHKまで「現場からお伝えします」が目につく。
もちろん、現場の映像が事実を的確に伝えることもあるし、事故や天災の報道では欠かせない場合もある。
しかし、多くの場合は、平和な街並みや定型的な警察署などの建物しか映らない。
その代わり、「こんなにも報道陣が集まって」という興奮気味のレポーターと、大騒ぎをしている報道陣にヤジウマという構図である。
もし事件の報道かなにかで、そんな放送を見ている被害者の肉親の気持ちを想像すると、暗澹たる思いがしてしまう。
各局が判でも押したように「こちら○○署前です」と放送するのは、「ほかの局には負けられない」という競争意識が働いているのだろう。
原則的に「事実を追求する」競争なら歓迎すべきだが、とてもそうとは考えにくい。
冷静になれば、現場でなくても「伝えるべき事実」を掘りおこすのは、いくらでも可能だろう。
もしかすると、報道とりわけテレビのニュースにとって、「視聴者に訴える」競争のほうが、重要になってしまったのかもしれない。
それは極端としても、正確で客観的な事実を情報として伝えようとする努力が垣間見られないのは確かである。
それよりも、主観や感情に訴えることで興味や関心を刺激し、とにかく視聴者をひきつけようとしているとしか思えない。
だから、関心を集めるための映像を競い、声高で煽情的なレポートが多くなるのだろう。
いわゆる「怒りのレポート」とか「涙ながらのインタビュー」を、単純に否定するわけではないが、取材陣の感情にもとづいた情報は、正確で客観的な事実とは距離があることも事実である。
大胆にいってしまえば、テレビのニュースからジャーナリズムは死滅しつつあるのかもしれない。
新聞もまた、半周遅れで同じ道を歩んでいるようでもある。
上杉隆氏の「ジャーナリズム崩壊」ではないが、メディアからジャーナリズムが喪失する時代が、すぐそこに来ているといえなくもない。
容疑者の顔写真をめぐる大騒動。
そしてTBSテレビ社員の逮捕と、それに対する沈黙は、その象徴のようにも思えてくる。
進むニュース系番組のバラエティ化の根底にあるものは?
ところが、テレビに関してはニュースの連続である。
どこまでを「ニュース番組」と呼ぶのかは別として、早朝の放送開始から出勤の時間帯、そして昼の時間帯、ザッピングすれば、どこかの局でニュースに当たるだろう。
とりわけ夕方の時間帯などは、各局そろって2時間のニュース系の番組である。
なかでもTBSにいたっては、夕方の5時から夜の8時前後まで、3時間もニュース系がつづく。
なにも粗製乱造とはいわないが、こんなにもニュース系の番組がつづくと、中身が薄くなるのも当然なような気がしてくる。
スタッフが不十分なまま時間枠を拡大しては、取材や検証に割ける時間や人員が足りないままの放送になり、結局、そのツケは視聴者が支払わされることになってしまう。
夕方の時間帯にニュースを実際に見てみると、どの局のニュース系番組なのか戸惑うことさえある。
それほどテーマも切り口も似ているし、評論家諸氏の顔ぶれも変わりばえしない。
「事実を知ろう」とするならば、どの局のどの番組を選ぼうが大差はないし、感情に訴える内容も同じようなものである。
ひとつだけ違いがあるとすれば、トピックス的に放送される食やショッピングなどの雑多な情報だけかもしれない。
それとても、同じ局のほかの番組で放送されるものと、内容は似たりよったりである。
そう考えると、もはやニュース系番組と称しながら、内容は限りなくバラエティに近づいているのかもしれない。
長い時間枠全体をとおして見れば、正確で客観的な事実を伝えるのではなく、視聴者の興味や関心をひきつけ楽しませる(?)発想で貫かれているように思えてしまう。
ニュースは、そのための素材のひとつにしか過ぎない。
皮肉なことに、最近ではバラエティ番組がニュースの要素を取り入れている。
芸人やタレントが司会や解説をするだけで、興味や関心をひきつけ楽しませる発想は、もっと露骨かもしれない。
しかも、ニュースにしてもバラエティにしても、そこに登場する政治家の顔ぶれは、ほとんど同じである。
それは、80年代に「楽しくなければテレビじゃない」と断言したテレビ局の路線を、すべてのテレビ局が深く考えることもなく、マネていった結果だろう。
必然的に到達したのは「楽しくなければニュースじゃない(?)」であり、ニュースのバラエティ化なのかもしれない。
まだ新聞は、そこまで来ていないようにも思える。
しかし、「読者の興味や関心をひきつける」という発想に陥れば、いつしか「オモシロくなければ新聞じゃない」になってしまい、急速に色あせていくのは確実だろう。
既存のテレビ局の「終わりのはじまり」がやってくるのか?
これまで「テレビは見なければいい、新聞は買わなければいい」と、多くの方が距離を置き突き放してきた。
それが「テレビ離れ」や「新聞購読数の減少」に、多少は影響したかもしれないし、広告収入の減収も、経済状況の悪化だけが理由ではないかもしれない。
しかし、テレビ局は「テレビ離れ」の根拠を勘違いしたのだろう。
いまや「楽しくなければ」路線を、さらに強化しているかのようである。
やたらと使われる「現場からお伝えします」は典型例だろう。
その延長線上に、10日から12日に繰りひろげられたマスコミの大騒ぎがあるし、行き着く先がTBS社員逮捕だった。
それほどまで「楽しくなければ」にこだわるのは、「視聴率」崇拝の発想だろう。
もちろん、テレビ局も企業であるからには、スポンサーの獲得は至上命令に違いない。
「視聴率」が低い番組は、スポンサーが付きにくい「赤字番組」であり、主要な時間帯の番組が低「視聴率」では、企業の存亡にもかかわる。
その意味で、「視聴率」にこだわるのは、テレビ局の宿命だろう。
ただ、テレビ局には成功体験がある。
1982年から1993年までの12年間、ゴールデンタイム(19時-22時)プライムタイム(19時-23時)全日(6時-24時)の視聴率三冠王(NHKは除く)を獲得したのは、「楽しくなければテレビじゃない」のテレビ局だった。
おそらく、「視聴率」に悩めば悩むほど、この成功体験は生々しく思いだされるに違いない。
「視聴率」崇拝が「楽しくなければ」路線に直結する所以は、ここにあるのだろう。
もっとも、「視聴率」は「視ていた、視ていなかった」の数値である。
広告出稿スポンサーにとっては、CMが露出したかどうかの重大な指標であるが、テレビ局には、その番組の満足度を推し測る数値でもなんでもない。
よく聞かれる「つまんないけど、ほかのチャンネルも似たようなものだから」とか「なんとなくテレビをつけていただけ」は、基本的には「視聴率」で「視ていた」に分類されてしまう。
「視聴率」にこだわりつづけると、この落とし穴を見逃してしまう。
このままでは「ほかのチャンネルも似たような」も「なんとなく」もテレビの前から離れてしまうだろう。
実際のところ、特定の番組を視ようとするならば、既存のテレビ局に頼らない方法はある。
もしかすると、2011年の地上デジタル放送のスタートが、既存のテレビ局の「終わりのはじまり」かもしれない。
「アナロ熊」の味方をするわけではないが、わざわざデジタルテレビを買ってまで、視たくもない番組を視るほど視聴者は甘くないだろう。
そもそも、東京に5局も民放が集中しているのが無理だろう。
適正な競争をとおして退場すべきテレビ局が、整理再編される時代がやってくるかもしれない。
帰ってきた顰蹙の魔王
今は考古学の対象となったパソコン通信の時代。
筒井康隆の朝日新聞連載小説『朝のガスパール』(1991年10月〜1992年3月 朝日新聞社刊)と、その同時進行ライブ電脳筒井線(朝日新聞社刊)に登場。
Web制作の現場に密かに生息中。
その毒舌が再びよみがえる。