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マイナスの激しい充実感の中で生きてきた人にとっては、そんなプラスの充実感は、生ぬるくて仕方がありません。
例えば、家族の中で、争いという形で充実しているとしたら、争いのない世界は、それを幸せだと感じるよりは、退屈でしかたがないと感じるでしょう。
あるいは、平和が、逆に不気味で居心地悪く感じるかも知れません。
前回の「尽くしても、尽くしても、幸せにならない」パターンも、無意識のところでは、自分が犠牲になることで充実感を覚えています。
自分を犠牲にしながら、相手が自分を頼ってくれる、依存してくれる。犠牲になることで自分の居場所を確保できる。自分の存在を受け入れてもらえる。誰よりも、自分自身が、自分の存在を認められる。そんなマイナスの充実感です。
→サイエントロジー教会のロンによると、エングラムという心のトラウマから来る
正気でない、狂った充実感。
争うことで人生を充実させようとしている人も少なくありません。
プラスの充実感を知らなければ、マイナスで充実させるしかないからです。
例えば、顕在意識では、「もう、争うのはイヤだ」と思っているとします。
それでも、争いをやめることはできません。
争いがなくなると、とたんに、することがなくなってしまうからです。
争う合うコミュニケーションしか知らなければ、それをやめると、コミュニケーションそのものがなくなってしまいます。
人や外界との接触がなくなるということが、どういうことかわかるでしょうか。確か、「自分独りが生き残って、誰も存在しない世界」という映画がありましたね。
「争う」というコミュニケーションで人生を充実させている人から、「争う」を奪うというのは、そんな世界でしょう。
まさに、自分独り、うち捨てられた、忘れられた存在のような気がするに違いありません。
平和な環境の中にあっても、そんな気分になるということです。
そんないたたまれなさから、自ら争いをしかけます。
自分が仕掛けた争いに、複数の人が振り回されている光景は、まさに圧巻です。
その中に渦巻いているものが怒りや憎しみであっても、自分を中心に展開する混乱は、自分の存在を知らしめるものです。
自分の存在を実感するに足る瞬間となります。
万能感すら覚えるでしょう。
というふうに、幸不幸を取っ払えば、人は、常に、人生において充実感を求めています。
その充実感をマイナスに求めるか。プラスに求めるか。
どちらの充実感で生きるかは、自分で決断できます。石原加受子
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