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米国株価が今のところは高いところで止まっている。
これは政策的に意図的に上げ止まりを誘導している故えであろうが、何時までもこれを続ける事は出来ない。
経済の基礎的条件が極めて弱体化している場合に弗の増刷と国債の乱発を行ってきた事により、次にバブルが崩壊したりイラクやアフガニスタンからの撤退が完了したりと言った切っ掛けによりハイパー・インフレが発生する可能性が高いだろう。
その時に米国政府がどのような金融政策を採用するであろうか?
一つの選択肢として、我が国が終戦直後(昭和21年)に行った乱暴な「新円切り替え」と同様の政策を採用する可能性がある。
ここでインフレ化した弗(ドル)に替わってアメロが登場させられる事になるのかもしれない。
「新円切り替え」はつまりは敗戦による経済破綻・財政破綻のもたらしたものである。
米国の今の有様は、かつての我が国と同じの「敗戦状態」なのである。
帝国主義国家システムとして行き詰まった合衆国システムを対外戦争を行う事により破綻を早めるように追い込み、再編成を強制せしめようと言う事であろう。
米国の場合は、「弗札切り替え」とでも言うべきであろうか?
単なるデノミでは済まさない政策が採用されるのではないだろうか。
我が国で行われた「新円切り替え」については参考文献も多数存在するであろうし、何よりもまだ体験者としての年配の方々も御健在である。
彼らからもお話を窺って、参考資料や文献にも目を通して今後の米国で発生する経済的・政治的混乱に我が国国民として備えをしておくべきであろう。
我が国の「新円切り替え」は、それだけでは経済社会の復活を招く事はなかった。
それは今後の米国においても同様となるだろう。
我が国は国土が小さい。しかし米国は大きいから合衆国体制を再編成する必要に迫られるだろう。いずれにせよ連邦政府の統合力が低下する事になるだろう。
そして世界経済の牽引力は興隆するアジア経済ばかりではなく、米軍撤退後の戦争により疲弊したイラクやアフガニスタンやパキスタンの復興を中心とする中東や西アジアの経済復興需要も大きな役割を果たす事になるだろう。
疲弊して再編された北米地域もこれ等の世界的需要に引っ張られて経済的には復興する道を歩むのではないだろうか。
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/tachibana/post_185.html
新円切替
橘みゆき
終戦後、戦争の後始末として発生するインフレを抑えるために、1946年2月16日、預金封鎖と新円切替を行い、日本銀行券の流通量を強制的に減らした。この時の経験を持つ人達は「国債なんて信用できない」とか、「国は生き残るためなら何でもやる」などの教訓を今に伝えている。そこまでしても半年程度しかインフレを抑えることができなかった。戦後復興の号令の下、鉄鋼産業と石炭産業を中心に多量の資金が供給されたからである。
終戦後のハイパーインフレ
1945年8月15日の終戦によって、戦時国債の発行や物価統制によって抑えられていたインフレが爆発した。戦争が終わった後の後始末や、復興のためにお金はいくらあっても足りなかった。戦費捻出のために発行された戦時国債の償還、軍需物資に対する支払い、進駐軍による円の大量印刷、復員兵の帰還費用の捻出、戦後復興させるための資金供給、これらに対して、日銀は日本銀行券を刷って刷って刷りまくって対応した。その結果、カネにみあったモノが不足する状態となりインフレが発生してしまった。
1946年の金融緊急措置
1946年(昭和21年)2月16日(土)、「金融緊急措置令」がラジオで発表され、週明けの月曜日から実施された。これは預金封鎖と新円切替を同時に行うことにより、流通している日本銀行券の量を減らして、急激なインフレにストップをかけようとした。また、GDPの3倍に達した借金を返済するために国民の財産を国に移す目的もあった。金融緊急措置の内容は、あらゆる預金を封鎖する。流通している旧円を一定金額に限り新円に切り替える。それ以外は金融機関に全て強制的に預金させ、一定金額(世帯主:1ヶ月300円、家族1人に1ヶ月100円)だけしか新円による引き出しを認めない。3月2日までに交換しないと旧円は無効となるため、金融機関に行列ができた。10万円を超える資産に対して25%から90%の財産税をかけられた。旧紙幣に証紙を貼り付けて10月まで代用させるなどの措置が取られた。
これにより、日本銀行券の発行高は1946年3月末には4割に減少したものの、財政赤字のたれながしが継続されたため、効果が長続きせず、半年後の9月末には元の水準に戻ってしまった。戦後復興のために、鉄鋼と石炭をまず復興させ、その後、他の産業に広げていく傾斜生産を行うなかで、大量の資金が供給され、再びインフレが発生してしまった。大蔵省や日銀は再び預金封鎖を行うことはできなかった。GHQは1948年12月18日、吉田内閣に対して、経済安定9原則を発表した。これはインフレを抑えるためのデフレ政策であった。1949年3月7日、GHQの経済顧問であるジョセフ・ドッジにより、財政金融の引き締め(ドッジ・ライン)が実施された。強烈なデフレ政策により、戦後のインフレは止まったものの、失業や倒産が相次ぎ、不況となってしまった。日本経済が戦後復興するのは、朝鮮戦争に伴う特需であった。
現在の日本銀行券
現在、最も新しい日本銀行券は、2004年(平成16年)11月1日に発行された一万円札、五千円札、千円札の3種類。ほとんど見かけることがない二千円札は2000年(平成12年)7月9日に発行された。現在発行されている銀行券はこちらをクリック願います。(日本銀行のHP) 新しい紙幣が発行されるにあたって、1946年と同様に預金封鎖と新円切替をするのではないかというウワサが絶えなかった。新しい日本銀行券のパンフレットが作られ、全国の銀行や郵便局に置かれていた。実際は半年くらいかけて、古いお札が回収され、新しいお札に切り替わっていくのですが、偽札事件もあった影響もあり、予定よりも早く今のお札が流通するようになりました。今後、高額紙幣が発行されるのか、偽造防止の目的で新しいお札を作るのか、わかりません。過去に起こったことは、再び形を変えて私たちの前に現れます。電子マネーの普及を見ると、現金がなくなって、ICカードを使わないとモノやサービスが買えなくなるのかもしれません。その時、自宅のたんす預金が使えなくなるといった事態もありえます。
橘みゆき 拝
http://www.boj.or.jp/oshiete/money/05700002.htm
「新円切り替え」とは何ですか?
A. 第二次大戦直後のインフレ進行を阻止するために、政府は昭和21年(1946年)2月、金融緊急措置令および日本銀行券預入令を公布し、5円以上の日本銀行券を預金、あるいは貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させ、「既存の預金とともに封鎖のうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払出しを認める」という非常措置を実施しました。これが、いわゆる「新円切り替え」と呼ばれているものです。
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_53.htm
貨幣の散歩道
第53話 戦後インフレと新円切り替え
昭和20年8月15日、第二次世界大戦に敗れた日本経済は、戦争によって国富の約4分の1を失ったほか、生産水準も戦前の2〜3割にまで落ち込むなど、大きな痛手を受けた。そうしたなかで、終戦処理費として巨額の財政支出が散布されたことから、日本経済は激しいインフレに見舞われ、国民生活は極度に窮乏化した。実際、1935年の卸売物価水準を基準とすると、終戦時には3.5倍、24年には208倍を記録するなど、復興期の日本経済はハイパーインフレの渦中にあった。
これに対し政府では昭和21年2月、金融緊急措置令および日本銀行券預入令を公布し、5円以上の日本銀行券を預金、あるいは貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させ、既存の預金とともに封鎖のうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払い出しを認める(いわゆる「新円切り替え」)という非常措置を実施した。これは、インフレ進行の阻止というマクロ経済的な目標を、預金封鎖と称される強制的手段に基づく銀行券流通高の減少を通じて達成しようとした、わが国金融史上においても例を見ない緊急かつ直接的な経済対策であった。
この金融緊急措置に類した緊急対策としては、大正12年の関東大震災時および昭和2年の金融恐慌時に実施されたモラトリアム(支払猶予)を挙げることができる。しかし、それらは、インフレの進行防止を目的とした金融緊急措置とは根本的に性格を異にしていた。たとえば前2回のモラトリアムの場合、支払延期を行うか否かは金融機関など債務者の判断に委ねられており、手元準備の充実とともに預金の支払請求に応じた金融機関もみられた。これに対し、金融緊急措置の場合、保有銀行券についても強制的に預入させられ、既存預金とともにその支払いが厳しく制限された。金融緊急措置という非常措置とともに実施された旧銀行券の新銀行券への切り替えの準備は、極秘裏かつ短期間のうちに進められた。しかし、わずか10日間ほどの間に、預金払い戻しに必要な新銀行券を大量に製造することは不可能であった。このため、応急措置として、従来の銀行券に証紙を貼った紙幣(これを証紙添付日本銀行券という)が新銀行券とみなされ、同年10月末までの約8か月間、市中で流通していた。
金融緊急措置の実施に伴い、金融機関からの預金引き出しは厳重に制限された。もっとも、預貯金のすべてが完全に凍結されたわけではなく、一定の生活資金や事業資金については新円での払い出しが認められていたため、封鎖預金の払い戻し請求はかなりの金額に達した。その一方で、銀行券が市中で退蔵され、金融機関へと還流しなかったことから、日本銀行券発行残高は金融緊急措置実施後1か月のうちに6割にまで縮小したが、その後再び増大し、インフレの減速は一時的なものにとどまった。マネーサプライ増大の背景にある財政赤字の削減が、遅々として進まなかったからである。
そうしたなかで昭和23年12月、インフレの一挙安定を狙いとする経済安定9原則が連合軍総司令部から発表された。次いで昭和24年には、均衡財政による財政の健全化と、単一為替レートの設定(1ドル=360円)を主たる内容とする、いわゆるドッジ・ラインが実施された。これによって、長年にわたったインフレにもついに終止符が打たれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%86%86%E5%88%87%E3%82%8A%E6%9B%BF%E3%81%88
新円切替
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(新円切り替え から転送)
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新円切替新円切替(しんえんきりかえ)は1946年2月16日夕刻に幣原内閣が発表した戦後インフレーション対策として行われた金融緊急措置令をはじめとする新紙幣(新円)の発行、それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う金融政策に対する総称である。
目次 [非表示]
1 概要
2 混乱
3 参考文献
4 関連項目
概要 [編集]
第二次世界大戦の敗戦に伴い、物資不足に伴う物価高及び戦時中の金融統制の歯止めが外れたことから現金確保の為の預金引き出し集中の発生、また一方で政府も軍発注物資の代金精算を強行して実施したことなどから、市中の金融流通量が膨れ上がりハイパーインフレが発生した対策が背景としてある。
この時同時に事実上の現金保有を制限させるため、発表翌日の17日より預金封鎖し、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方で、1946年3月3日付けで旧円の市場流通の差し止め、一世帯月の引き出し額を500円以内に制限させる等の金融制限策を実施した。これらの措置には、インフレ抑制とともに、財産税法制定・施行のための資産把握の狙いもあった。
これによりハイパーインフレの抑制には一定の成果はあがったものの、結果としてインフレを完全に抑えきるところまでには至らなかったため、結果として市民が戦前に持っていた現金資産は債券同様に無価値同然に陥る結果となった。
混乱 [編集]
硬貨や小額紙幣は切替の対象外とされ、新円として扱われ効力を維持した。そのため小銭が貯め込まれた。また市民は旧円が使えるうちに使おうとしたため、旧円使用期限までの間は、当局の狙いとは逆に消費が増大した。
占領軍軍人は所持する旧円を無制限で新円に交換することができた。十分な新円紙幣を日本政府が用意できないため、占領軍軍人への新円支払いにはB円軍票が用いられた。
また新円紙幣の印刷が間に合わないため、回収した旧円紙幣に証紙を貼り新円として流通させた。この際に証紙そのものが闇市で出回っていたという証言がある。証紙付き紙幣は後に新紙幣との引換えが行われた後に廃止され無効となった。
参考文献 [編集]
児島襄: 日本占領(2); pp. 9-44 "新円発行", 文春文庫, 文藝春秋社刊, 文庫版初版1987年(単行本初版1978年),ISBN 4167141264
関連項目 [編集]
預金封鎖
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%86%86%E5%88%87%E6%9B%BF」より作成
カテゴリ: 日本の戦後処理 | 昭和時代戦後の経済 | 円 (通貨) | 1946年の日本 | 占領
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%90%E9%87%91%E5%B0%81%E9%8E%96
預金封鎖
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預金封鎖(よきんふうさ)とは銀行預金などの金融資産の引き出しを制限すること。
金融機関に対して経営危機が流れた場合、多くの預金者は預金引き出そうとして取り付け騒ぎになるため、経営健全と評価されるまで一時的に金融資産の引き出しを制限する政策がとられることがある。
政府は財政が破綻寸前になった場合、銀行預金などの国民の資産を把握して、資産に対して税金を掛けて政府収入にあて、破綻から免れようとする。国民の資産を把握する方法として、通貨切替などをした上で、旧通貨を無効にして旧通貨を金融機関に回収させる方法がとられている。
日本では新円切り替えの際に、1946年に実施された。この1946年の預金封鎖では第一封鎖預金と第二封鎖預金に分けられ、最終的に第二封鎖預金は切り捨てられる形となったが、2002年10月13日付けのYomiuri Weeklyでは新型決済性預金が預金封鎖の布石ではないかとの記事が掲載されるに至る。また同年の住民基本台帳ネットワークシステムも預金封鎖の布石ではないかと注目を浴びるに至った。
2002年には文芸春秋で1997年に大蔵省内部で預金封鎖の検討が行われた記事が掲載された。
関連項目 [編集]
預金
財産税法
差押
デノミネーション
新円切替
住民基本台帳ネットワークシステム
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%90%E9%87%91%E5%B0%81%E9%8E%96」より作成
カテゴリ: 金融
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