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http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20091125-00000301-chuokou-pol
ルポ●群馬・八ッ場ダム
「悪い歴史」は繰り返す
暑い夏の日が来ると
テレビから
毎年 水不足が叫ばれる
でも 私達のように
ダムで湖底に沈む者の
長い苦しみなど
誰もわかってはくれないだろう
白い雲の下に
真っ赤な百日紅の花が咲いている
これは群馬県長野原町に住む女性が作った詩の一節だ。八ッ場ダムに沈むはずだった地区の住民である。
ダムは、首都圏の飲料水や洪水の対策として政府が建設を進めてきた。
地元は当初、大反対だった。
だが、下流の都県から「水が足りない」と大合唱が起こり、それをメディアが大々的に報じると、住民は追い詰められていった。
「人が困っているのに、いつまでゴネているのか、という圧力でした。カネをもらって移転しろとメディアでもたたかれた。私たちは孤立無援でした」
そうした苦境を詩にしたのだと女性の夫は話す。反対闘争は「現地での生活再建」を条件に建設容認に転じた。
一般的なダムがそうであるように、八ッ場ダムも工事は周辺から進められた。昨年度末で七割が終了しており、本体工事中に河川を迂回させるトンネルも貫通した。さあいよいよ本体に着手、という時になって中止された。
八月の衆院選で民主党が圧勝し、政権を取ったからだ。同党はマニフェストで八ッ場ダムの建設中止を公約していた。
「今さら……。私たちが反対していた時に、なぜ止めてくれなかったのか。首相や国土交通相の所属していた新党さきがけは自社さ政権で政権党だったんです。あの時ならまだ傷が浅かった。なのに最悪のタイミングじゃないですか。地域が切り刻まれた建設終盤で止められても、住民はどうすればいいのか」と、女性の夫は言う。
ただ、こうした話は外ではしたことがない。「地元住民が我がままで無駄な工事を進めようとしている」とメディアにたたかれるからだ。それどころか、見知らぬ人から電話や手紙、ファックス、電子メールで抗議が殺到する時代になった。事実、町役場や観光協会、旅館組合は、「抗議」で業務に支障が出る事態に陥った。
「地元はまた孤立無援ですよ」
かつて八ッ場ダム建設反対川原湯期成同盟会の委員長を務めた竹田博栄さん(七十九歳)はため息をつく。「民主党も自民党と同じだ。悪い歴史が繰り返している」と、遠い目をする。
「八ッ場ダムは霞が関で造られたと言われています。つまり官僚が造ったダムだと言うんです。台風で水害があったから、どこかで水を止めなきゃならない。それなら峡谷で狭くなっている所に造ろうと勝手に決めて、住民の生活など考えずに推進した。それが自民党の政府でした。
ところが民主党の政府になっても、中止という結論を先に決めて、生活再建はそっちのけで押しつけてくる。『推進』と『中止』が引っくり返っただけで、やり方はそっくりなんですよ」
官僚主導であろうが、政治家主導であろうが、住民は二度、同じようにして突き落とされたのである。
下流の人柱になれ
JR吾妻線の単線列車は、高崎駅を出ると一時間二〇分ほどで川原湯温泉駅に着く。峡谷に線路がへばりつくようにして走った、その先の駅である。
峡谷は「吾妻峡」といい、国の名勝だ。深い谷底を流れるのは、利根川の支流・吾妻川。秋には紅葉が映え、若山牧水など多くの文人が訪れてきた。
この吾妻峡を途中でせき止めるのが、八ッ場ダムの計画だった。
発端は一九四七年のカスリーン台風である。利根川を決壊させて、埼玉県と東京都の約四四〇平方キロメートルを洪水に浸した。政府は四九年、それまでの治水計画を見直し、利根川の上流ではダム群を建造して洪水調節をすると決めた。八ッ場ダムはそのうちの一つで、三番目に大きなダム計画だった。ちなみにこれまでに、本流で六つ、支流で四つが完成している。
地元が計画を知ったのは五二年、旧建設省から町長に届いた予備調査の通知だった。
水没するのは現在の五集落。中でも川原湯と川原畑の二集落はまるごと沈んでしまう。川原湯は一一九三年、源頼朝が発見したと伝えられる由緒ある温泉地だ。上流の草津温泉は強酸性の湯として知られているが、川原湯は中性に近くて湯が軟らかいため、「草津の上がり湯」として親しまれてきた。
通知を受けて、地元では激しい反対運動が起きた。当時の長野原町報には次のような記事が載っている。
「何で吾等が自らの身を以て、利根川水系下流同胞の人柱たる決意を持ち合わせようという殆ど絶望に似たあきらめに到達することができ得よう」
下流の人柱になどなれるか、というわけだ。翌年、地元の分校で「建設反対住民集会」があり、八〇〇人以上がむしろ旗を持つなどして参加した。
後に反対同盟の委員長として闘争の先頭に立つ竹田さんは、ぼう然としていた。
「沈むというのだけは分かったけど、ダムなど見たこともなかった。実感がわかなかった」
竹田さんは高崎市で生まれた。小さい時から気管支が弱く、医師に転地療法を勧められて、親が各地の温泉を連れ歩いた。湯が合ったのか、たまたま体力がつく年齢に達したのか、小学校高学年で訪れた川原湯では、みるみる健康を取り戻した。そして家を借り、長期滞在するうちに居ついた。借家に徐々に客を泊めることから始めて、旅館にした。ちょうどそのころダムの計画が持ち上がった。
ところが、政府はこの時、数年で動きを収めている。竹田さんは「立ち消えになった」と思っていた。地元のほとんどの人がそう考えた。だが、政府は諦めたわけではなかった。大きく回り道をしながら進めていたのである。
草津温泉などの影響を受けた酸性河川が流れ込む吾妻川は、強酸性で魚が生息せず、「死の川」とも言われていた。コンクリートやクギさえ溶けるのだ。このため政府は、ダム計画を打ち出したものの、そのままの水質では建設できないと判断した。そこで、県事業として草津温泉の下流にダムを建設し、河川水の中和工場を造った(完成後国に移管)。その期間が「立ち消え」になったように見えていただけだった。
皮肉なことに、この小春日和のような期間に、川原湯温泉は一つの興隆期を迎える。
吾妻線は敗戦直前、鉄鉱石の運び出しのために建設された鉄道で、当初は貨物の専用線だった。それが戦後、旅客営業を開始し、高度成長期を迎えるに従って客が増えた。泊まり切れないほどの人が来たこともあった。パチンコ店やスナック、芸者の置屋も増えた。竹田さんの旅館は「川原湯でも中規模の宿」に成長した。
中和工場が運転を開始した翌六五年、政府は再び動き出した。
「なんだか、だまされたような気がしたんだよね。もう終わったと思い込んでいたのに、誰も知らないところでダムまで造っていた。住民にはそのやり方が面白くなかった。このボタンの掛け違いが最後まで尾を引くんです」
竹田さんは暗然とした顔で話す。
もう、疲れ果てた
「建設省の職員は『まず調査をする』と言いました。『ならばダムは造るのか』と聞くと、『いやぁ、調査してみないと分かりません』と、何度聞いても同じでした。でも、その陰では中和工場まで造っていたわけだから」と、竹田さんは今でもすっきりしない。
再び反対運動に火がついた。だが、今度は一枚岩ではなかった。反対派だけでなく、賛成派、中立派と分かれて、様々な思惑が入り交じった。狭い土地に借地借家人が多い地域事情もそうさせた原因だったと言われる。
そのため反対組織は七ヵ月ほどで解散した。そして同日同時刻に、反対と賛成で別々の旅館に集まって道を分けた。反対派が八割、賛成・中立派が二割。反対派が結成したのが、八ッ場ダム建設反対川原湯期成同盟会だった。
反対同盟では「ダム建設反対の家」のステッカーを張ったり、のぼりを立てたりした。屋根にペンキで「ダム反対」と書いた家もあった。川原湯のあちこちには一斗缶がぶら下げられた。「建設省の役人が入ってきたら、たたいて追い出すぞ」という気概を見せるための示威行動だった。
政府は強硬だった。
水没線を決めるための杭打ちを強行し、未明を狙って相談所を建設した。
反対同盟は悲痛とも言える戦術を取った。会の規約で「会員の土地家屋等一切の権利を共同管理する」として、誓約書や印鑑証明の提出を求めた。一時は全員の実印を委員長宅の金庫に預け、切り崩しからの防御態勢を敷いた。
後に首相となる群馬県選出の自民党国会議員にも働きかけた。福田赳夫衆院議員の自宅に押しかけて陳情し、小渕恵三衆院議員を頼っては、東京の目白御殿で田中角栄首相に陳情をした。中曽根康弘衆院議員は「住民の意向を無視するわけにはいかない」という考えだったと地元では言われている。
会には一つの方針があった。
「外部団体とは共闘しない」と決めたのだ。それは当時、成田国際空港の建設に反対する地元農民の運動が、外部団体との共闘で激化し、死者を出すまでになっていたからだ。
「あくまで自分たちの生活を守るための闘いにしよう、と話し合ったんです」と、竹田さんは振り返る。
そうした穏健な闘争方針や、有力政治家の“理解”があったせいか、成田のような土地の強制収用はされなかった。ただしそれが問題を長引かせたとする見方もある。
こうして闘争が続くなかで、県が動いた。知事が「反対が激しいのは生活再建ができないからだ」として、八〇年に県独自の生活再建案を作ったのだ。これが契機となって事態が動いた。
ただし、この生活再建案についても激しい反発があった。「説明を受けるかどうかで四年間もすったもんだした」と竹田さんは話す。だが、下流からの圧力が高まり、「現地で再建できるなら話だけは聞いてみよう」「それほど下流が水を欲しいのなら仕方ない」と建設容認に転換していった。二年間かけて案を修正し、受け入れた。「日々の生活だけでも大変なのに、仕事が終わった後で毎晩会議が続く。もう疲れ果てていた」と、ある住民は漏らす
この時期に不幸な事件があった。
県の生活再建案では、水没する集落の代替地がそれぞれ現地の山の中腹に建設される方式が採られていた。
これは後に現地再建方式とか、ずり上がり方式と呼ばれるのだが、予定地を見なければ議論ができない。そこで地区住民で山に上がってみた。ところが下山途中に女性が転落死した。代替地はそれほど急峻な場所を造成しなければならなかったという裏返しでもあった。
竹田さんは、この事件の後で委員長になり、県の再建案の取りまとめ役になる。八七年、現地への立ち入り調査に関する協定を建設省と結び、反対闘争に終止符を打った。
「これでようやく賛成派も反対派もなくなり、住民は一丸となれたのです」
委員長はなぜ去ったのか
その後、建設省からも県の生活再建案を焼き直したような案が出され、修正して合意した。
「すぐにでも生活再建が始まると思っていました。でも、その後も、補償基準や代替地の分譲価格を決めるには、大変な時間がかかりました。分譲価格が高いと再建できないので、川原湯では何度も建設省の案を蹴りました。そのたびに毎晩会議です。住民はどんどん疲れていきました」
最終的に分譲基準が調印されたのは二〇〇五年になってからである。
ところがこのころから、住民が町外に流出し始めた。
人生には持ち時間がある。計画から半世紀が経ち、残り時間を考えると待っていられなくなったのだ。代替地の分譲手続きが始まったのは、さらにその後の〇七年。住民の代替地移転が始まった現在も工事は終わっていない。
「苦しい。でも、歯を食いしばって、もう少し辛抱すれば、ダムができる。そうなれば生活再建ができて、必ずいいところになるはずだ。そう信じて生きてきた。しかし、高齢化は待ってくれません。新しい土地では生活を建て直すまでの時間も必要です。だから、まだ足腰が丈夫なうちにと、町外や、子供のところへ行く人が増えたのです。ギリギリの選択でした」と、竹田さんは代弁する。「思い出すだけでも辛い歴史がありました。そもそも、ここに生まれたのが悪かったのではないか。もうダムの渦中にいるのはたくさんだ。耐えられない、住んでいられない、という人が多かった」。
流出については「急傾斜の代替地なので、造成費用がかさみ、分譲価格が高くなった。高くて不便な代替地より、安くて便利なまちに移った方がいいという人が増えた」と話す住民もいる。
いずれにしても、長い闘争の果てに高齢化し、疲れ果てて、人々は歯が抜け落ちるようにして去った。
竹田さんもそのうちの一人だった。
旅館は〇五年の秋にたたんだ。そして一五キロメートルほど下流の町に移り住んだ。旅館は娘の若女将が作るウエルカムケーキが評判だったのだが、その技術を生かして喫茶店を始めた。
約三四〇戸あった水没対象戸数は、現在一三〇戸ほどにまで減っている。流出したうちの四分の三が町外に出た。川原湯温泉の旅館も、二〇軒近くあったのが、七軒になってしまった。
水没地にあった小学校は〇二年に移転新築されたものの、流出で児童数が確保できなくなり、〇七年に一度は廃校を決める事態に追い込まれた。
それでも残った住民は代替地で再建を果たそうとしている。特に川原湯温泉の旅館は、「湖畔の宿」としての再生にすべてを賭けた。県の生活再建案を受け入れて以来、長い年月をかけてプランを練ってきた。
果たしてそれが成功するかどうかは分からない。だが、もうこれ以外に選択肢はないのだ。
ところが、その唯一の希望を失わせる事態が発生した。ダムありきの再建ができなくなったのだ。
水のない湖畔の宿で
〇八年十一月、川原湯温泉の旅館組合と観光協会は、当時の民主党の小沢一郎代表に要望書を出している。「生活再建案を地元に提示し、地元住民と膝を突き合わせて、何度も会議を繰り返し、住民合意の生活再建案を作成し、法制化という後ろ盾を整えたうえで、次に『ダム中止』を訴えていただくのが順序」などとする内容だった。
これを受けて民主党「次の内閣」の「ネクスト国土交通大臣」だった長浜博行参院議員が温泉を訪れた。
旅館組合長の豊田明美さん(四十四歳)は憤る。「私たちは組合員で集まって『ダムは、もう止められたら困る』と話しました。党内で検討すると持ち帰られたんです。ところがその後、何の音沙汰もなく、いきなりマニフェストに中止と載せられた。マニフェスト作成のプロセスには問題がある」。
豊田さんは一七九五年から続く旅館の跡取りだ。一九九〇年、東京の会社を辞めて戻ってきた。
「当時は二〇〇〇年にダムが完成する予定で、今ごろはもう新しい旅館が軌道に乗っているはずでした。ところが政府はダムの完成を一〇年に延ばし、さらに一五年に延ばした。そして今度は中止です。もう人生はメチャクチャですよ。父の世代で再建できるはずが、私でもできない。こんな悲惨な地域が日本にありますか」
常に数年先には「ダムができる」とされてきたため、施設への投資はできないできた。宿は老朽化が進み、維持できるかどうかギリギリの状態だ。
それだけではない。代替地には全員で移ると決めているものの、新たに流出する家族が出ないとも限らない。
「旅館を再建するにも、新しく経営戦略を練り、施設の設計をし、社員を教育して、広告を打ち、利益を出すまでには大変な労力が必要です。できる年齢は限られているのです。観光業はそうでなくても厳しい時代なのに」
だからこそ民主党政権には、まず新たな生活再建案を提示してもらいたかったが、何一つ示されていない。
しかも、ダムなき代替地に移れば、水のない湖畔の宿になってしまう。見えるのは切り刻まれた山ばかりだ。
「僕らにはもう時間がないんです。不安で不安で仕事が手につかない」
前原誠司国土交通大臣は九月二十三日、現地で地元の首長らにダムの中止を説明した。だが、新たな生活再建案についてはほとんど言及しなかった。
「本末転倒ですよ」と水没地区の住民が言う。「上流に必要なのは生活再建、ダムが必要なのは下流なのだから」。
肝心の下流自治体には、説明を放置したため、六都県の知事が十月十九日、「再三説明を求めているにもかかわらず、今日まで国から何一つ具体的な説明がないというのは極めて異常な状態」と共同声明を出した。
民主党政権が民意なら、下流都県の知事も民意だ。しかも、政府にとっては、河川法や特定多目的ダム法で計画変更の意見聴取を義務づけられた相手である。
そもそもマニフェストは、どこまで無条件に実施できるのか。マニフェストとは公約集だ。実施するのが全有権者との約束である。だが、その一項目として挙げられた特定地域の問題だけを取り出してみれば、その地区の住民の意思を反映しているとは言い難い面もある。特に八ッ場ダムの地元の群馬五区では、民主党は候補者を擁立せず、「推進」を主張した自民党が社民党に圧勝している。
今、国と地方という二つの「民意」は真っ向から対立している。
とするならば、新たに八ッ場ダムのみを争点とした住民投票しか、民意を問う方法はないのかもしれない。
政権の体質を測る試金石
前原大臣が主張しているのは「できるだけダムに頼らない河川整備」だ。山を手入れして保水力を上げ、河川の水質を上げてゆく。そして海に至るまでの生物資源を回復させる。一方、ダムは土砂がたまるため、浚渫せざるを得ず、河口では海岸浸食を起こして護岸整備が必要となる。既存のダムの改修も含めて、公共事業が公共事業を呼ぶ。そうした構造を変えるトータルな社会コストの削減が「中止」の理由だ。
理想としては正しい。
ただ現実には、八ッ場ダムの建設に反対する市民団体の訴えが地裁で相次いで敗訴し、治水や利水には効果があるとされた。判決は首都で渇水が起こった場合のリスクについても言及しており、民主党政権にはこれら司法判断への明確な反論が求められる。
「ダムが必要だという政府の説明を信じて、受け入れたのだから、嘘ならば証明して、国交省に謝罪させてほしい」と、旅館組合の豊田さんも話す。
上下流含めて、民主党政権の住民への説明は圧倒的に不足していると言えるだろう。しかも進め方は雑だ。
今、水没地区では民主党の行く末に不安がささやかれている。
「民主主義は少数意見が尊重されてこその多数決のはず。ところが、選挙に勝ったら意見も聞かないで進めている。建設が公益なら、中止も公益。国益のために少数の命や生活を犠牲にしてもいいというなら、戦前の日本やナチスドイツと同じ運命をたどりかねない」
「住民主導なき政治家主導は独裁につながらないか」
こうした批判に答えるためにも、きめ細かな説明と同意が必要だろう。前原大臣の理想を貫くためにもである。
その意味では、八ッ場ダムは民主党を試すことになる。公共事業が止められるかどうかもさることながら、政権としての体質を測る試金石なのだ。
はがみたろう 全国紙記者を経てフリーに。地方自治をテーマに取材、執筆活動を行う。
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コメント
麻生内閣当時の税収見通しは46億円だった。その見通しにしてもいかにも浅はかとも感じるが、今年度の税収にしても財務省は、37兆円と見通しをたてているようですが、最近になりその数字さえ危ぶまれているようです。
そして民主党政権は、来年度予算の概算要求は95兆円。
そして民主党政権によるデフレ宣言。
そのうえで仙石行政刷新大臣のもと、3兆円の事業仕分けカットノルマ。
また、鳩山ポッポ総理の発言によると国債発行を44兆円にとどめるという。
民主党は政権交代は、最大の景気対策とうたって政権を担当したのですが、株価は、世界の流れに反して下落しており、上記の数字にしても理科系政権と言われているがどうもつじつまがあわない政権になりつつあるような気がします。
税収のがた減りなど選挙前から予測がついたことであり、そのために自民党政権は補正予算をしたのではないでしょうか。
その補正予算の中に日本経済に即効性が見られないものは削減するのはいいのですが、削減するだけで次の対策、戦略もうてないならば、一体鳩山民主党は、何をしたいのですかとも問いたい気分です。
仕分け作業にしてもいい部分もあるが、削減するだけなのか、それとも次の戦略に資金をまわせるのかさえみえていなく、次の経済戦略さえみえないからその戦略にどのくらいの資金が必要なのかも提示していません。
子供手当、高速道路無料化など即実行するのかなともいえないようですし、今では果たしてできるのかとも多くの国民が不安になりつつあるのではないでしょうか。
その点、米国企業にいたっては、消費不振などで売上増加は見込めないのですが、ドラスチックなリストラにより利益を上げ、アジアなどの財政出動などで多国籍企業ともいえる米国企業は、ドル安ゆえに現地通過建てで売上を上昇しているようです。
米当局がドル安容認をしたこともわかります。
藤井財務大臣がここにきて異常な為替変動があれば介入をするような発言がありましたが、当初は、協調介入を示唆していたのであり、米当局がドル安容認なのに日本だけ介入しようとしているのでしょうか。
まったく言っていることとやっていることが滅茶苦茶です。
平野官房長官も公務員改革後退を示唆しましたが、この民主党政権は、政権交代で景気をよくするという考え方よりも景気を悪くして景気が悪くなっても有利な待遇を維持できる公務員および御用組合労働者をまもる姿勢に変わりつつあります。
長妻厚生労働大臣がまだ判断されていませんが、厚生労働省、社会保険庁などの問題は一体何だったのでしょうか。幹部殺人まで進行した問題です。
それは、あまりにも厚生労働省、社会保険庁の職員の資質が国民から見てひどすぎるということが問題になったのではないでしょうか。
結局は、民主党は、労働貴族を守るために国民を欺いたということかもしれません。
なにせ政府の本当の台所事情はわからないのですから。
こうなると鳩山民主党政権は、不況を続伸させる政権と投資家がみるのもわかります。
それがはっきりと現れるのが、来年度の主要企業の決算かもしれません。つまりは、今年の前半は、効果があったのですが、後半にドテンされたということにもなる可能性すらあります。
仕分け作業にしても、担当者、国民からみればどれも必要だと感じる事業でもあり、鳩山政権がこの4年の任期の中で何に力を入れたいか、資金を集中したいのかわからないまま削減にむかうことは、目先の経済に大きな痛手をこうむるのかもしれません。
支持率が60%程あるようですが、不支持率も上昇しており、逆転する日も近いのかもしれません。国民が動かないならば、経済が動くのかもしれません。金融の世界はそれぐらいの力を持っているのかもしれません。