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(回答先: スパム認定は、Ddogの連続投稿が原因だった。この点については私が馬鹿で無知でした。謝罪します。 投稿者 Ddog 日時 2009 年 6 月 10 日 00:33:43)
japanhandlers2005はたぶん、中田安彦氏だと思うが、上から目線でコメントがあった。http://amesei.exblog.jp/9828032/
元レス本文に『フリードマンは死ぬ直前の2006年、雑誌「リーズン」に行ったインタビューの中では、「中央銀行を廃止することが望ましい。しかし、それは現実にはそれが実現する可能性はゼロだ」と語っていたのだそうだ。』と書いてあり、中田氏のコメント
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Commented by japanhandlers2005 at 2009-06-10 00:47
Ddog さんへ:どうやら自己完結したようで何よりです。念のために言っておくと、私はオーストリア学派のような理念型がそのまま適用できるとは思ってません。世界の中には様々な勢力がいるわけで、その中でロン・ポールは少数派でしょう。しかし、中央銀行が2003-07ころまでバブルを加速させたことは事実ですよ。今になって、中央銀行をヒーロー扱いするなんて片腹痛いです。オーストリア的批判をふまえつつ、建設的に提言するならば、pro-cyclicalな動きを中央銀行がするのではない方向にするべき。政府が通貨発行権を持っているのと、中央銀行の独立性はあまり区別しても意味がない問題です。中央銀行と政府(大統領)を選んでいるのは、巨大銀行の政治献金だからです。マネートラストが動かしているのですから、中央銀行が政府からの独立をしようがしまいが関係ありません。こういう偽りの二項対立をもとにしても意味がないんですよ。
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Commented by Ddog at 2009-06-10 19:31 x
非礼は詫びるが、少し書く。フリードマンがグリーンスパンの退職時の手紙『アランとの長い交友関係を通じて、全般的にはわれわれの金融理論と政策についての見解は一致していた。しかし、一つだけ重要な例外があった。私は長いことマネー・サプライの創造についての厳格なルールを提唱してきた。アランは、私が間違っていると言い、それについては裁量的にやるのが望ましいというだけでなく、必要だと述べた。彼の18年にも及ぶ連銀議長の仕事が終わったいま振り返ると、彼の仕事振りを見て、私が、彼が正しいと「彼の場合だけは正しいと」納得したことを告白しなければならない。実際、彼の仕事振りは素晴らしかった。
これほどまで長期にわたって連銀システムが良好に機能したことはかつてない。これは程度の違いではなく、むしろ本質の違いといってよい。1914年に開設されて以来の70年間に、連銀は世の中のためになるよりは、世の中にとって害になることばかり続けてきた。二つの世界大戦におけるインフレについての責任、穏やかな景気後退を大恐慌に変えてしまった責任、そして70年代に平和時において最も深刻なインフレを作り出した責任。・・・続く
Commented by Ddog at 2009-06-10 19:43 x
・・・もし連銀が作られていなかったら、ここ70年間のわれわれの経済はずっとましなものだっただろう』インタビュー記事を読んではいないが、フリードマンは少なくとも廃止しろとは思っていないようだ。
グリーンスパンは意図的に住宅バブルの発生をさせた。しかし、それは今日のようなカタストロフィーにならないと慢心していたことは間違いないが、グリーンスパンはこうも言っている。「バブルがバブルと認識されるのは崩壊後であるので、中央銀行の存在意義は、バブル崩壊以後の政策こそ中央銀行の活躍の場所である」まあ、「中央銀行をヒーロー扱いするなんて片腹痛いです」とおっしゃっている方には、中央銀行の本質は理解できないでしょうね。
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これ以上投稿すると、またスパム扱いされてしまうので、こちらで批判を書き加えておく。
『「金本位制(銀本位性でも良いらしいが、とにかく稀少金属本位制の)復活論者」である。ところが、ロン・ポールの活動する現在のアメリカは、金との交換性を保証しない、「不換紙幣」。アメリカだけではなく、1971年8月15日いらい、そうです。不換紙幣の登場は、紙幣というものが長らく、銀行への金地金の預かり証書だった歴史からすれば、コペルニクス的な転換だったわけです。この実験がはや40年を迎えようとしている。』だそうですが、人類初のぺ-パーマネーをご存知無いようなので、私のブログで、を貼り付けておきます。
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私のブログ【Ddogのプログレッシブな日々】
B『堺屋太一著「大激震」副題:堺屋太一かく語りき 実業之日本社』を読む その3
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/24214737.html
人類初のぺ-パーマネー(不換紙幣)の発行p225〜226
そして、第三はぺーパーマネーです。モンゴル帝国は税金を安くしたので、万年財政赤字でした。また、モンゴル高原はあまり生産力がないので、「国際収支」も大赤字でした。
つまり、今日のアメリカと同じく「双子の赤字」だったのです。
財政を維持しないと政権は長続きしません。安い税金で財政を維持する方法をチンギス・ハンとその家来たちは考え出した。それがぺーパーマネー、何の物財にも裏づけられていない不換紙幣を発行する、という方法です。
お札、紙のお金というのは昔からありました。けれどもそれは、この紙を持ってきたら金貨や銀子や銅銭に換えるという見換券です。つまり金、銀の支払いを約束した手形です。
日本の藩札も同じです。だいたい、金や銀は重くて危険、その保有量にも限界があるので、紙の証書を出して支払いを約束する、という方法は自然発生的に全世界で起こりました。ところが、チンギス・ハンの孫のフビライ・ハンは、史上初めて、金や銀や銅に換えないお札を出しました。「そんなものが通用するのか」と誰しも思います。
それを考え出したのは、チンギス・ハンの家来で財政家のマフムード・ヤラワチという人物です。チンギス.ハンの死後、孫のフビライ・ハンの治世まで長命を保ったヤワラチは、「通貨は金や銀だから通用するのではない。需要と供給が均衡していれば価値を保ち流通するのです」と主張します。
では、通貨の需要とは何か。それは「借り手のことだ」とヤラワチは考えました。「紙幣を有利子で借りる者がたくさんいれば、紙幣は喜んで受け取られ、価値が下がることもない」というのです。
フビライ.ハンの元朝は、権力者の官僚や軍人には給与を紙幣で支払う。その一方、政府に納める税金も紙幣で受け取る。つまり、給与も納税も政府に関わるものは紙幣で回るようにする。同時に、官僚や軍人、出入商人などの受け取る紙幣に需要をつけるべく投資システムをつくりました。それが「オルトク」と呼ばれた利益分与型のファンドです。
紙幣をもらう官僚や軍人などに出資をさせて、商人(実業家)に貸す。これで、利益分配の収入になれば価値は維持されるというのです。
堺屋太一かく語りき その4へ続く
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/24214996.html
サブプライムローンを思わせるファンドの劣化
p226〜228
初めはオルトク(ファンド)の規模は小さかったのですが、だんだんとお札を増発するとそれが増えていく。オルトクの投資対象は、初めは主として貿易、つまり商業金融でした。
千一夜物語には、「船乗りシンドバツドの冒険」という元朝時代の話があります。シンドバツドが、今はイラク領のバスラの金持ちからお金を借りて、中国の福建省に来て絹や香料を持ち帰って大儲けをする。シンドバツドのシンドはインド、バッドは風という意味です。シンドバツドとは「インドの風」という名前です。ペルシャ湾からインド洋経由で中国の福建省へ行く商人の話です。モンゴル帝国の時代は、国際貿易の大発展期でした。
それがやがて鉱山開発に使われ、さらには製造業の投資にも使われます・設備資金に使われ出します。やがて、それでも借り手が足らなくなり、ついには王侯や軍閥に貸付け先を広げた。王侯や軍閥は豪華で安全な借り手に見えますが、しょせんは消費者、きわめて危険な借り手です。発行を始めてから80年ほどで、元朝のぺ-パーマネーは流動性過剰に陥ったのです。
いかなる物資にも裏づけられていないぺーパーマネーが世界の基軸通貨になったのは、チンギス.ハンの孫のフビライ・ハンのときからの約80年間、そして1971年の米国による金ドル交換停止以後の現在の二回です。
この二回は非常によく似ています。レーガン大統領は、米国が財政赤字、貿易赤字の双子の赤字になっているのに、財政を引き締めるのではなく、景気振興の減税をしている。これで米国の景気は回復したが、財政も国際収支も赤字で、「双子の赤字」が育ってしまいます。ハーバード大学の先生たちは、「そんなことをしたら一遍にドルの値打ちがなくなり、ドルは国際通貨の地位から落ちる」といったものです。
ところが、チンギス.ハンの財政家たち、マフムード・ヤラワチやその息子のマスード・ベイ、後継者のアフマドから盧世栄と続く人々は、20世紀のハーバード大学の先生よりは少し頭がよかったようです。「お金がたくさん出るのなら、その需要を広げたらいい」というヤワラチの発想を受けてファンドを拡大していきます。
ところが、これがどんどん進んでいくと、通貨の需要をつくるために投資対象を広げる、だんだん信用度の低い投資が増えるのです。
モンゴルが陥ったハイリスクの罠
p228
財政が赤字になってドルが余ると、それを投資に使う。だから、投資対象を広げようとする。投資対象を広げると適格ではない対象も入ってきます。その部分だけ高金利でリスクの高いものに貸す。
つまり、財政と貿易の赤字が続く以上、ドルはどんどんあふれ出す。それに見合う通貨需要をつくり出すとなれば、怪しげな投資商品が出てきます。それをいろいろとつくりかえ、衣がえして、いかにもうまいこと見せる。いわゆるハイリターン・ハイリスクの金融商品だから、ある投階まではよく見えます。三年、五年経つ間に、いつしかこれが当たり前になり、さらに大胆大規模化する。そして、やがて膨らみ切って破綻してしまう。そういう仕掛けになるわけです。モンゴル帝国でも、いく度かオルトク一ファンドの破綻はありました。
それでも、チンギス.ハンの孫やひ孫たちが実に上手にやって、八○年間このぺーパーマネーが世界に通用し、経済は大発展します。モンゴル帝国白体が遊牧征服国家から、巨大な通商世界帝国へと変身していきます。
p230 [交鈔]
モンゴルの紙幣は、80年間で価値が100分の1ほどに下がりました80年間で100分の1に下がったというとすごい値下がりだと思われるかもしれませんが、20世紀の米ドルが、ちょうど80年間で100分の1になっています。1930年には石油1バレルは1ドル以下でした。それが今は100ドル。1930年にはニューヨークの高級ホテルは3ドルでしたが、今は300ドル以上します。
モンゴルの紙幣「交鈔」は、20世紀で最も安定していた通貨の米ドルぐらいの安定度を持っていたということですから、大したものです。
しかし、当初の発行から80年ほど経っと、中国で叛乱が起こって通用しなくなります。同時に元王朝も急速に傾きます。
米ドルがいつまで保つかは知恵の問題
p231〜2
もし20世紀のアメリカの財政・金融担当者が13世紀のモンゴル人ほど賢かったらアメリカのドルも80年ぐらい保つでしょう。
アメリカのドルが金から切り離されてぺ-パーマネーになったの1971年・ことしで37年です。そうだとすれば、あと40年ぐらい保つ、2050年までドルは大丈夫だということになります。問題は、21世紀のアメリカ人が13世紀のモンゴル人ほど賢いかどうかです。
そういうことを考えると、これからのぺ-パーマネーとグローバルな世界がどんなものかというのは、チンギス.ハンの小説からおわかりいただけるのではないかと思います。
そういう中でやっていくには、絶えざる組織改革ときわめて高度な情報が必要です、4特に情報の問題で、早耳情報と裏話を聞かないことが大事です。これは、主観的情報で客観的情報ではないからです。
未来を見通すには、大きく世間を見る対数観察が必要です。
「観念通貨」は需給が均衡すれば、価値を保つ
p275
従来の近代工業社会の金融は、「客観性に基づく金融」でした。近代工業社会が信じた「価値不変の法則」に基づく金融の根底には、金本位制という共通の基盤がありました。「通貨には金に裏づけられた不変の価値がある。少なくともあるべきだ」という発想です。
ところが、1971年のニクソン・ショックで金ドル交換は停止したため、現在の通貨は何らの物質にも支えないぺーパーマネー(観念通貨)になりました。完全なぺーパーマネーを国際基軸通貨にした前例は、歴史上一度だけあります。それは1270年に、大モンゴル帝国のフビライ・ハンがはじめた紙幣です。この紙幣は「交鈔」と呼ばれ、初めから金や銀、銅(銭)に交換できないことを明確にしていました。
これが約80年間、価値が下落しながらも全世界的に通用したのは、これを投資資金として活用するファンド(当時の言葉でオルトク)を拡げたことです。当時のモンゴルの通貨当局者(主としてイスラム教徒)は、「通貨も他の物財と同じく、需給が均衡すれば、価値を保つ」と考えたのです。二度目の観念通貨時代の現在も、基本的には同じです。
1971年に米国の金ドル交換が停止されたあとも約10年間、人類は金本位があるがごとく振る舞っていました。かごの鳥が、かごがなくなっても飛び立たないように、いかにも金本位があるがごとく、米国は財政赤字と国際収支の赤字を抑えようとして猛烈な引き締め政策を採ったのです。
ところが、1981年に大統領になったレーガン氏は、発想を変えました。米国の通貨発行量は何ものにも妨げられることはない。唯一の問題は物価の上昇、つまり通貨価値の下落である、と考えたのです。
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『通貨の需要とは何か。それは「借り手のことだ」とヤラワチは考えました。「紙幣を有利子で借りる者がたくさんいれば、紙幣は喜んで受け取られ、価値が下がることもない」」』元朝は黒死病による疫病や軍閥の内部抗争によって中央政局の混乱し、相次ぐ天災が農村を荒廃させ中国国放棄する前まで、不兌換紙幣でも「通貨も他の物財と同じく、需給が均衡すれば、価値を保つ」ことはすでに実証されてきた歴史がある。
紛いなりにも覇権を保っている状態で金本位制の復活など、狂気の沙汰だ。
金本位制が問題なのは説明するのも面倒になってきたので、以前ブログに書いたものをコピペする。
【Ddogのプログレッシブな日々】
@『「1929年大恐慌」の謎:副題:経済学の大家たちはなぜ解明できなかったのか関岡正弘著』を読む。
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/25962973.html
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「金為替本位制の弱点―第6章国際金融システムの果たした役割」
金本位制の問題点
第一次世界大戦前の金本位制は金貨本位制で実際に金貨が流通していたがその期間は1870年頃〜1940年のわずか40年しかないのである。
Ddogがここで気がついたことだが、金本位制が可能となったのは日本の金ではなかったのだろうか?幕末日本から流失した金こそが19世紀末から20世紀初頭の欧米帝国主義経済を支えてのかもしれない。
1920年代の金本位制は世界経済が一気に拡大し、金不足で第一次世界大戦前の金本位制は復活できなかった。
P180〜184
ガブルレイスは「マネー」のなかで1867年に主要ヨーロッパ諸国は、パリに会して、金を彼らの通貨に対する基礎的で唯一の準備とし、彼らの間の支払い手段とすることを決定した」と述べている。(略)
イギリス以外、まだ金本位制を採用していた国はなかつた。イギリスだけが、すでに十九世紀前半、いろいろと試行錯誤を重ねた後、金本位制を確立していたのである。
ところで、真正の金本位制といわれる金貨本位制の成立の要件は、次の三つにあるといわれる。
@金貨鋳造・鋳潰しの自由
Aぺーパー・マネーとの免換の自由
B金貨および金地金の輸出入の自由
(略)要するに、金本位制というのは、すべての商品の「価値ないし価格」を、金の「価値ないし価格」を尺度として決める社会制度なのである。価値と価格の問題については、次章で詳しく述べる。
イギリスでも、ほとんどの国と同じように、昔は銀本位制であった。中世のヨーロッパは金が不足していたし、また商品の流通がそれほど発達していない時代には、金は、日常の取引の価値の尺度としては、あまりにも高価すぎたのである。
その後、十字軍の遠征を契機としてイタリアの商人が勃興すると、1252年にはフローリン金貨が鋳造される。中世ヨーロッパとしては、初めての金貨であった。そしてだんだんと、金と銀が並んで尺度に用いられる金銀複本位制の時代に入る。当時のヨーロッパの辺境、イギリスが金銀複本位制に入るのは、ようやく1666年である。
しかし、両雄並び立たずという諺どおり、複本位制は、不安定で、長続きしない。金も銀も商品であることには変わりはないから、それぞれ需給バランスによって、別個に価格が変動する。したがって、「本位制」で金銀問の交換比率を固定すると、かならずどちらかが割高になったり、割安になったりする。そして、流通するのは割安になったほうの金属であり、割高になったほうは退蔵されてしまう。
さらに、国によって両者の交換比率が違う場合には、より有利な国を求めて、金と銀が反対方向に移動するという問題が生ずる。イギリスは、当時他のヨーロッパ諸国に比べて、金を割高に評価した。銀を虐待したのである。そのため、イギリスから銀が流出し、金が流入した。
偶然かもしれないこの歴史的事実が、イギリスを早い時期から事実上金本位国にしてしまったのである。正確には、1717年の法令が事実上、イギリスを金本位制に移行させたといわれている。
金貨本位制の第二の重要なポイントは、「兌換」という点にある。この兌換という要素は本位制固有のものというより、歴史的な過程において、半ば必然的に金本位制に付け加わったものといえる。
近世ヨーロッパは、「マネー不足」という難問に直面していた。人類は、紀元前数千年も前から金と銀をマネーとすることを決めていた。そうなった最も重要な理由は、この二つの金属の「稀少性」にあった。半面、金と銀をマネーにしたこのそもそもの理由が、問題を発生させた。
稀少性は、「不足している状態」ということでもある。近世ヨーロッパ経済が、テイク.オフして、商品の流通量が増大すると、まず流通手段としてのマネーの不足が深刻な問題となった。
そこで人類は、不足したマネー「金銀」を補うために、「紙」のマネーを発明したのである。ぺーパー・マネーは、いくらでも作れた。その意味では、「不足」を補う手段として理想的であった。半面、その利点が重大な欠点ともなった。人びとは、どんどんぺーパー・マネーを印刷するという誘惑に勝てなかったからである。
ガルブレイスは、アメリカ建国の父の一人、ベンジャミン・フランクリンも、若き日、経営していた新聞社の印刷機を転用しては、ぺーパー・マネーを印刷していたと『マネー』に書いている。植民地時代のアメリカでは、とくに流通手段としてのマネーが不足していたのである。
しかし、マネーも本質的には一種の商品である。印刷されすぎたぺーパー・マネーも、需要と供給の法則の免疫性はもっていない。かくて、近世の資本主義勃興の歴史は、発行され過ぎて無価値となったぺーパー・マネーの実例に満ちあふれている。
このぺーパー・マネー固有の欠点を抑えるためには、ぺーパー・マネーをいつでも必要なときには金と見換する制度が必要であった。見換の保証によって、ぺーパー・マネーは金と等価になったのである。
兌換制度が確立する過程で、ぺーパー・マネーの二人兄弟のうち「紙幣」は廃れ、「銀行券」が生き残った。紙幣は多くの場合、政府によって、それ自体が法貨(国家が認めた正貨)として発行され、見換が保証されていなかったのに、銀行券は、本来銀行が発行した約束手形であり、正貨(金)との兌換が保証されていたためである。
その2
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/25994735.html
また、トンでも本の「金融の仕組みはロスチャイルドが作った」の批判となるが、本書で解き明かす歴史的背景を理解すれば、この時代の流れは経済学的な必然性があり、陰謀論者が妄想する陰謀説の本は、無学な連中を洗脳そそのかす目的の危険な本としか思えなくなります。
それでは、金本位制について、続きです。
P184〜188
ぺーパー・マネーの供給の責任は、国家の手から銀行へ移された。イギリスは17世紀末、諸国に先駆けて、イングランド銀行を設立し、銀行券を発行していた。
ここで、重要なのは、兌換の保証といっても、銀行は、発行したすべての銀行券と同額の金を常に準備しておく必要がないという点にある。そんなことをしていたら、金銀の不足を埋めるというぺーパー・マネー本来の目的を果たすことができない。それに人びとは、いっでも金に替えられると信じているかぎり、あえてぺーパー・マネーを金に替えようとはしなかった。重い金よりも、ぺーパー・マネーのほうが扱いやすかったからである。
それは確率の問題であった。銀行は、保有する金以上の銀行券を発行することができた。ここに「準備率」.という概念が生まれた。準備率とは、発行済みの銀行券の総額に対する保有する金銀の比率である。準備率としては、三分の一が経験的に妥当であるという意見が、1830年頃、イングランド銀行のパーマー総裁によって主張された。
1844年のピール銀行条例は、最終的にイギリスの金本位制を確立した法律だが、イングランド銀行に対し、保有する金貨、金銀地金の総額に加えて、1400万ポンドまで銀行券を発行することを許した。逆にいえば、1400万ポンドと決めたのである。これは、以後、ポンドの信用は著しく高まった。
金銀の裏付けのない銀行券の上限を法律でかなり厳しい規定であった。そのせいか、以後ポンドの信用は著しく高まった。
「イギリスのパラドックス」
1870年以降、イギリス以外の諸国も次々に金本位制を採用する。1872年、普仏戦争に勝ち、フランスから50億フランの賠償金を得たドイツが、まず金本位制に踏み切った。1874年にはオランダが、78年にはフランスが続く。そして79年には、アメリカが一応法的に金本位制に移行する。しかしアメリカの金本位制が確立するのは、ようやく1900年になってからである。1892年にはオーストリア、1897年には、日本とロシアが続いた。
1870年代以降、国際的に金本位制が急速に普及したのは、時代が必要としていたからである。当時、イギリスでは、急速に「過剰流動性」つまり使い道のないマネーが蓄積されていた。一方、遅れて産業革命に入ったイギリス以外の国は、資本主義経済を発展させるための資金をのどから手が出るほど必要としていた。
しかし、ある国から別の国へ、長期貸付けという形でマネーを流してやるためには、為替レートが安定していなければならない。そうでなければ、貸し手は安心して長期の貸付けをすることができない。金本位制は、当時それを実現する唯一の方法であった。第一次大戦前の国際的な金本位制は、イギリスを世界の銀行にするための必要な条件だったといえる。
重要な点は、この時代のイギリスの金の保有高が、意外なほど少ないことである。『文明の血液-貨幣から見た世界史」(湯浅赴男著、新評論)は、1890年代から1922年までのイングランド銀行の保有する金は、2000万ポンドと4000万ポンドの間を上下していたにすぎないという。それに対して、フランスやロシアは1億ポンド以上保有していたという。オーストリア帝国も5000万ポンド保有していた。
金本位制の全盛時代、その宗主国、イギリスの金保有高が意外なほど少なかったという一見して矛盾に思える事実は、しかしじつは、金本位制成立の真の条件を示唆しているのである。
イギリスの金保有量が少なかった事実は、イギリスが積極的に海外へ金を投資していたことを意味する。当時のイギリスの海外投資家は、金利生活者など多数のいわゆる小金持ちから構成されていた。彼らは、国内で資金を運用するよりも海外で運用するほうが金利が高かったから、それを好んだのである。
その上、彼らは海外へ投資することに不安をもっていなかった。19世紀には、イギリスは世界で圧倒的な海軍力をもっており、そして地球上どこへでも、砲艦や兵上たちを送ってイギリスの権益を守ることができたからである。イギリスの海外投資が、多数の比較的小規模な投資家によって行なわれていたことは、その資金のフローを安定化するのに役立っていた。
結局、イギリスあるいはポンドの信用は、単に金の保有高といったハードウェアで裏付けられていたわけではない。数百年の蓄積である「イギリスの世界システム」というソフトウェアによって、その信用が支えられていたのである。パラドックスだが、イギリスが保有する金の量が少なかったという事実は、イギリスの弱さではなく、強さを、そして当時の金本位制の安定性を表わしていたのである。
ここで、金本位制の目的、マネー価値の安定には、犠牲がともなったことに注意しなければならない。よくいわれる金本位制のメカニズムは、次のようなものである。
<なんらかの原因で、ある国で景気がよくなり、所得が増えるとする。商品に対する需要が増え、価格が上昇する。すると輸出が減って、輸入が増える。その結果、金が外国へ流出する。一方、国内の商品流通が増大する結果、金貨の需要が増える。それは中央銀行の手持ちの金貨の流出を意味する。
かくて、国内と国外への二つの流出により、その国の中央銀行が保有する金の量が減り、準備率が下がる。そのため中央銀行は、手持ちの公債を売って銀行券を回収するのである。
この中央銀行の操作を「公開オペレーション」というが、それによって回収される銀行券は、流出した金の準備率の逆数倍(準備率が3分の1であれば3倍)となる。かくて、国内に流通するマネーの量が急激に下がるので、景気が悪化し、物価が下落する。所得も減る。輸入が減って、輸出が増える(物価が下がったため)。
その結果、金が再び外国から流入してくる。国内で流通していた金貨も、中央銀行へ還流してくる。中央銀行の手持ちの金が増大する。準備率が高くなるので・市場から国債を買い上げて、銀行券を増発する。かくて、景気は再び回復に向かう>
国内で流通するマネーを金にリンクしているかぎり、マネーの価値は安定している。上記のプロセスでわかるとおり、インフレーションを防止するメカニズムが経済システムにビルトインされているからだ。これこそ、古典派経済学が理想とする経済システムであった。
半面、それは、実物経済のダイナミズムが、マネー・サイドの事情によって制限されることを意味している。それは、昭和三十年代、四十年代の日本経済を思い出させる。当時は、国際収支の天井があって、少し好況が続くとドル(当時は金と同じと考えてよかつた)不足になるので、泣く泣く不況政策(引締め政策)を採らざるをえなかった。金本位制の場合は、それが政策的にではなく、自律的メカニズムで行なわれたのである。
マネーを安定させるための代償は、「景気」であった。そのせいだろうか、国際的な金本位制が機能していた1870年頃から1890年代の半ば過ぎまでの間、世界は「生産」の増大の一方で、「価格」の長期低落傾向に悩んだ。
その3
http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/25996450.html
189〜195
「金為替本位制」
ところで第一次大戦後、ようやく1925年になって、イギリスは金本位制に復帰する。しかし、それは本当の意味の金本位制ではなく、「金地金本位制」という変形であった。金貨は発行されなかった。兌換については、イングランド銀行券は金地金(インゴット)と交換することが一応保証されていた。しかしそれは、たいへん大きな単位でのみ可能だった(イギリスの場合1699ポンド以上)。したがって、一般大衆とは縁のない制度であった。
かくて、金地金本位制は真正の金本位制成立要件のうち、@金貨鋳造・鋳潰しの自由が否定され、Aぺーパー・マネーとの兌換の自由が、事実上制限されていた。
フランス、ドイツをはじめ、ほとんどの国は、1925年から28年にかけて金本位制に復帰する。日本の復帰はさらに遅れた。問題だったのは、これらの国の金本位制は、金地金本位制からさらに縮退した「金為替本位制」だったことである。
これらの国では、金があまりにも不足していたので、金貨を発行できなかったのはむろんのこと、通貨(中央銀行券)発行に必要な準備のための金地金にも不足していた。そこで、ドルおよびポンド建ての外国為替を金の代用とし、通貨発行の準備に加えたのである。ドルは金貨本位制で、ポンドは金地金本位制で、一応金との見換が保証されていた。
そのため、ドル為替とポンド為替を「金為替」と称し、金の代替物と見倣したのである。
その本位制を金為替本位制と呼んだ。
この苦しいやりくりで、金為替本位国の通貨も、間接的に金とリンクしたことになる。
しかし、金為替は、その性格上「両刃のやいば」であった。たとえば、フランスが保有するポンド為替を考えよう。それはフランスにとっては金為替であり、金と等価の資産であった。同時にそれは、フランスにとってはイギリスに対する債権であった。つまり、フランスは、いつでもそれをロンドンヘ送り、イギリスの金本位制を利用して金と交換することができた。
もちろんフランス以外のポンド為替を持つ国も同じことができた。そして、為替である以上、金本位制がうまく機能しないと、一定の枠内とはいえ、その交換レートが変動した。そして、ポンドが安くなり、為替ロスが発生する恐れが生ずると、ポンド為替がイギリスに大量に還流して、もともとぎりぎりの金量で無理に無理を重ねていたイギリスの金本位制を、たちまち危機に陥れたのである。
そればかりではない。イギリスの金本位制は、1925年に復活した当初から、問題を含んでいた。それは、イギリスがポンドの金価値を戦前の平価に据え置いたことである。
それに対しフランスは、戦前の平価の五分の一の価値しかないフランで金本位制に復帰した。明らかに、ポンドは過大評価で、フランは過小評価であった。そしてこの事実は、フランス商品のポンド価格が、フランス国内のインフレーションを考慮に入れないとすると、5分の1になったことを意味した。割安になったフランス商品の輸出は急増し、割高となったイギリスの商品輸出は低迷した。その結果、海外のイギリスに対する債権、つまりポンド為替はますます増大したのである。
この時期、国際金融をめぐって、はっきり強者と弱者が分かれていた。強者はアメリカとフランス、弱者はイギリスとドイツである。アメリカはともかく、フランスが強い立場にあったのは、フランスが金本位制に戻る前、フランス政府がフランをどんどん下がるにまかせたため、フランスの資本家たちが海外、主としてロンドンヘその資産を待避させていたためである。換言すれば、ポンドの形をとっていたフランスの資産が多かったのである。
これらのフランス資産は、一時的にポンドに避難していたのであり、それでなくてもフランスに帰ろうとしていた。その上、経済の実態から見て、フランがポンドに対して騰貴しそうな情勢になっていたのである。投機家あるいは短期資金の運用者たちは、イギリス人もフランス人も、一斉にポンド為替をフランスヘ持ち込んでフランに換えた。
その結果、フランス銀行(フランスの中央銀行)のポンド為替の保有高が、1926年11月の530万ポンドから27年5月の1億6000万ポンドヘ、たった半年間で30倍も急増した。
フランス銀行は、手持ちのポンド為替をイギリスヘ送って金と交換し始めた。ポンド為替を保有したままにしておくと、フランに対してポンドが下落した場合、損失を生ずるからである。しかし、そのことは、イングランド銀行の保有する金を減少させて、イギリスの金本位制に大きな危機をもたらした。
もちろん、フランスもイギリスの金本位制を破壊することは望まなかった。そこでフランスは、イギリスに金利を上げることを要求した。そうすれば、相対的に高い金利に魅かれて、ポンド資金がイギリスに滞留し、フランスヘ流れて来ないからである。
しかし、当時のイギリスは、政治的に金利を上げることが困難だったのである。なぜならば、当時イギリスの景気は、割高な為替レートのため輸出が伸び悩んだ結果、ただでさえ不況に苦しんでいたからである。そんな情勢では、それ以上景気を悪化させることが確実な、金利の引上げはできなかった。このイギリスとフランスの問の、どうにもならない難問を解決するために乗り出したのが、アメリカであった。
「アメリカの金利引下げ」
1927年7月初め、イングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマン、ライヒスバンク(ドイツ中央銀行)総裁ヒャルマール・シャハトおよびフランス銀行副総裁シャルル・リストという、ヨーロッパ金融界のVIPたちがアメリカヘやって来て、ニューヨーク連邦準備銀行総裁ベンジャミン・ストロングと会議を開いた。その結果、イギリスが金利を上げる代わりに、アメリカが金利を下げることにした。そうすれば、アメリカからイギリスを含むヨーロッパヘ短期資金が流れて、イギリスおよびドイツの窮状を救うことができると考えられたのである。ニューヨーク連邦準備銀行の金利は4%から3.5%へ引き下げられた。
しかし、このときのニューヨーク連邦準備銀行の政策が、どれほど所期の目的を達したか不明である。佳美教授は、「世界大恐慌の発生過程(V)」(『経済学論集』50−3)で、アメリカの短期資本移動について、1927年から28年にかけて、アメリカ白身の短期資金の海外流出が12億5000万ドルから2億3000万ドルに減ったこと、また同じ時期に、海外の短期資金のアメリカに対する出入りが、27年の9億3000万ドルの流入一アメリカから見て)から28年の1億2000万ドルの流出に変わったことを示している。
この統計を信用するかぎり、アメリカの金融政策は、アメリカの短期資金よりも、海外(その大部分はヨーロッパ)の資金の動きに大きな影響を与えたことになる。
一方、長期資金の動きでは、最も注目しなければならないのは、アメリカの対外債券投資の推移である。その主体は、外国の政府または企業がアメリカで債券(国債やら社債)を発行して、それをアメリカ人の投資家が買うものである。
このアメリカの対外債券投資は、1926六年の22億ドル、27年の28億ドル、28年の15億ドルと推移したが、29年には7億ドルヘ急減した(『アメリカの大恐慌』1930)。
国際金融システムに与える直接的な影響では、債券投資ほどのインパクトはもたないと思われるが、アメリカの対外直接投資(アメリカ企業の海外投資が主体)は、1926年、27年両年の3億5000万ドルから、28年の5億6000万ドル、29年の6億ドルと増え、1930年には3億ドルヘ急減した。
いずれにせよ、短期資金の場合に比較して、アメリカの公定歩合の0.5%の引下げが、アメリカの対外長期投資に与える影響はそれほど大きなものではなかったろう。長期資金は、短期資金ほどには金利の動きに鋭敏ではないからである。
ここで指摘しておかなければならないのは、アメリカの対外投資、とくにドイツや南米諸国に対する投資は、めぐりめぐって、これらの諸国に対するアメリカの商品輸出を支えていたということである。
第二章で触れた、19世紀のイギリスにおける古典的パターンはここでも見られる。したがって、もしアメリカの対外投資が急減すれば、アメリカの商品輸出も急減せざるをえないという宿命にあった。この点は、最近の日本とアメリカの関係との比較において、重要な意味をもっている。
ところで、問題だったのは、連邦準備銀行の金融緩和政策が、同時にアメリカ国内に大量のイージー.マネーを創出してしまったことである。このイージー・マネーは、結局他に行きどころがなくて、ウォール街へ流れ込んだ。
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ということで、金本位制は、実物経済のダイナミズムが、マネー・サイドの事情によって制限されることを意味している。そして金本位制はけして優れた通貨制度ではない。