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(回答先: ヤマハ発、株主総会に384人出席 減益・減配に経営責任求める声 投稿者 gikou89 日時 2009 年 3 月 27 日 15:00:16)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090323-00000002-voice-pol
◇日本的社会民主主義の崩壊◇
金融危機の影響を受けて、各企業で大リストラが進行している。昨年末にはソニーが正社員8000人を含む1万6000人のリストラを発表して世間を驚かせたが、最近、世の中の話題は「派遣切り」から「正社員切り」に移りつつある。
しかし思い起こしてみれば、いまからわずか十数年前の不況時、TDKやパイオニアが幹部をリストラしようとしたとき、大新聞はこぞって「けしからん」と書き立てた。社長がテレビカメラの前で謝罪し、それをまたマスコミが報じるという時代があったのだ。あるいは松下電器(現パナソニック)で中村邦夫氏が「中村改革」を敢行したときも、松下幸之助さんの「1人の社員もリストラしない」という思想とは異なる行為、と大ニュースになった。
それがいまでは若手社員はともかく、幹部クラスの希望退職者を募るのはもう常識のようになった。今回の危機でもパナソニックは大規模なリストラを行なっているが、マスコミが叩くこともなくなって、むしろ「リストラしなければ企業も困るだろう」というムードすら生まれつつある。
そもそも日本で終身雇用が当然と見なされたのは、歴史的に見て、さほど古い話ではない。戦前はもちろんのこと、戦後しばらくの時期まで、企業が都合に応じて従業員を増減するのは当たり前のことだった。それが1950年ごろから、一度採用されたらよほどの不祥事を起こさないかぎりクビにならない、閑職に回されても身分は課長待遇、次長待遇など社会的に見て恥ずかしくない肩書が与えられるという、日本独特の雇用システムが生まれたのである。1995年ごろに至るまでのこの四十数年間だけが、特殊だったのだ。
いまやそのような「サラリーマンは気楽な稼業」といわれた時代は終わって、日本を代表するような、どんなに立派な企業であってもリストラを行なうのが当たり前になった。その是非は別にして、日本的社会民主主義はもう事実上崩壊しつつある、といってよい。
そうなると、重要になってくるのは「個人」だ。労働の最前線で、価値のある人材だと思われるか、それとも思われないか、が大切になってくる。
ここで「労働力」とは何か、を根源的に考えたい。労働力とは基本的に3つに大別される。1つ目は単純労働で、いわば機械や馬の代わりである。右の物を左に動かしたり、何かに穴を開けたり埋めたりする。誰かがやらねばならないことは確かだが、ある意味、誰にでもできる仕事だ。こうした労働力の多くをいま、日本は中国やベトナムに発注している。
2つ目は、業界知識を必要とする仕事である。ホワイトカラーの仕事のたいていは、これに該当するだろう。たとえばテレビ局であれば「カンパケ(完全パッケージ、そのまま放送に出せるもの)」、出版界なら「著者責了(著者の校正がすべて終わった状態の原稿)」といったような、他の業界では絶対に使われない用語を覚え、そして業界常識をマスターして仕事に従事する。しかしその知識は終身雇用制の下、同じ会社でずっと働くには役に立つが、他の産業に移ればまったく通用しなくなってしまう。
笑い話のようだが、ずっと一社に勤めてきた会社人間が転職しようとなって、ハローワークの人に「何ができますか?」と聞かれた際、「部長なら務まります」と返事をしたというエピソードがあるくらいだ。彼らはいわば業界のプロ、会社のプロと呼べるだろう。
そして3つ目が、機能的な仕事である。「人事評価に詳しい」「マーケティングが得意」といった類で、これは他産業においても広範囲に役立つ知識であり、技能だ。たとえば人事のオーソリティになれば、業種を超えた横移動が簡単にできる。マーケティングもしかり。開発力を必要とする企業なら、どの産業でもマーケティングのプロが必要だ。あるいは銀行員でもお客さま係をやっているような人間には専門性は根付かないが、たとえば融資を専門にやってきた人なら、その銀行がダメになってもリース会社などに転職できる。
つまり機能のプロとは、言い方を変えれば、一芸に秀でている人のことである。そして業界や会社のプロのように、その業界や会社では役に立っても、ひとたびその場を離れれば不必要になる知識や技能ではない。そうした機能のプロになれば、大リストラ時代において希望退職者のリストに名前が載っても、別の会社への移動が可能になる。
あるいは自分のいる業界や会社が発展の余地がない、と見切りをつけたなら、これから伸びる業界を探し出してきて、そこでその機能を発揮すればよい。これから伸びる、勢いのある業界ほど人材不足で困っているのが普通だから、そこで彼は重宝されることになるだろう。
たとえば20年前に老舗百貨店に勤めていれば、娘の結婚式であれ何であれ、肩書をいうときに恰好がついた。しかし給料は上がらないし、上が詰まっているから出世もなかなか覚束ない。そんな職場に見切りをつけて、コンビニに転出した知人がいた。当時のコンビニ業界は百貨店に比べれば重みのある肩書にはならなかったかもしれないが、仕事にやりがいはあるし、出世もしやすい。いまでは百貨店に勤めた人よりずっと出世して、給料も高い。まさに、いいことだらけになっている。
資本主義が成熟していくと、産業構造が変化していく。その変化とともに、人材も流動化していく。これは世界中のどこでも見られる、きわめて当たり前の変化だが、しかし日本は過去45年、社会民主主義的な政策を採りつづけ、株主の圧力を受けることも少なかった。そのような状況下では、横移動のできる機能のプロが求められる部分もあまりなかったかもしれない。つまりガラパゴスのように環境が変わらなければ進化の必要もあまりないのかもしれないが、しかし社会が流動化すればするほど、機能のプロのニーズはますます高まってくる。環境が変わったとき、それに適応できる人だけが生き延びられるのだ。
機能のプロになるさらなる利点は、経験を経ることでますますその能力が高まり、企業から必要とされる人材になれることだ。単純労働の場合、45歳よりも35歳、35歳よりも25歳のほうが価値が高い。体力があるうえに、自分の考えを主張せず、いわれたことに黙って従うからである。とくに派遣のような代替の利く仕事では、いまのような時代でなくとも若い人が採用される確率が高い。
一方、機能のプロは25歳よりも35歳、35歳よりも45歳のほうが経験値が高く、企業から重宝される。だから転職にあたっても採用されやすく、もらえる給料も高いのだ。
すでに若者はそのあたりの感覚を敏感に掴んでいる。彼らの多くが経営コンサルタントをめざすのも、単純に恰好よいというだけでなく、「経営学」のプロになれるからだろう。たとえば幸之助さんのように優れた頭脳と自分の経験、鋭い洞察力によって素晴らしい経営を行なう人もたしかにいる。しかし幸之助さんほど天才的ではなくても、それに近似値的な考え方ができるよう、各ビジネススクールは人材を養成している。またその人材を実践向きに鍛え上げているのが経営コンサルティング会社、という認識で間違いはないだろう。
◇会計学を学んで目線を高くしよう◇
しかし、機能のプロをめざそうというとき、いくつか踏まえておくべき点もある。まず、いくら専門的とはいっても、あまりにニッチすぎると他の企業で代替が利かない。
三菱商事に勤めていたときの先輩で、ウールバイヤーという仕事に従事している人がいた。オーストラリアの小さな田舎町をイギリスやアメリカの競合相手とともに転々と回り、その場で羊毛の競りを行なうのである。深い人脈と知識、語学力が必要とされる大変な専門職だが、あるとき「繊維は儲からない」といって三菱商事は繊維本部を閉鎖してしまった。先輩は広報部に異動になり、私の上司になったわけだが、突然そのような悲哀に見舞われるような例もある。
もう1つ障害になりやすいのが、まだ各社に残っている日本的な人事制度の残滓だ。日本の会社は数年置きに社員をまったく別の部署に異動させるケースが少なくない。出版社で編集部にいた人が突然営業に回され、さらに数年後には総務に回されるといった具合で、同じ会社に一生勤めるなら、むしろこの制度は役に立つ。他の部門の気持ちや役割を理解することができ、将来トップに立ったときの財産にもなるからだ。しかしその会社が突然潰れてしまったり、自身がリストラされた場合、その経験は何の役にも立たない。
一方、編集一筋で仕事をしていれば、違う会社や職種でもそのスキルが役に立つ可能性が高い。たとえば最近はBSやCSで新しい局がたくさんできているが、まだまだコンテンツ不足であるのが現状だ。畑が少々違っても、そこで編集の技術が生きるだろう。
そう考えれば、自分の身を守るためには、できるだけ1つの職種に絞って働くことが望ましい。たとえ社内での出世が遠のいても、「私はこの仕事が好きです」といって、いまの仕事を続けるべきである。職種が大きく変わってしまうような異動はできるかぎり拒否することが必要だろう。
さらにいえば、いくら一芸に秀でる、といっても、本当に1つのことしかできなければ、ただの「専門バカ」である。一芸に秀でることをめざすと同時に、いろいろなことを広く、浅く知ろうとすることが大切だ。いわばアルファベットの「T」字型人間をめざすべきである。
そのようなT字型の横部分に当てはまる最たるものが「会計学」である。損益計算書や貸借対照表は、どのような会社にも必ず存在している。会計学はいわば経営の「言語」で、経営を語るときに会計学を知らないのは、言葉を知らずに会話をするようなものだ。言葉を知っていること自体にさほど値打ちはないが、言葉を知らなければコミュニケーションすらできないのと同じである。
会計学は大リストラ時代に生き残るための「土台」のようなもので、それを学んでいること自体で就職が有利になることはないが、他の人より一段、目線を高くすることができる。いわば下駄を履くようなもので、高い位置から全体を見渡すことができるのだ。
かつてハーバード大学に留学して、大学の夏季講座を受講したときに驚いたことがある。会計学の講座の受講生が建築や美術といった、経営とはまったく関係ない学部の人たちだったのだ。建築にせよ、美術にせよ、会計を知らなければ自分で会社もつくれないし、就職するときも、どの会社がよいのか判定がつかない。逆に経済学部の学生は1人もいなかった。彼らは正規の授業で学ぶからだろう。
これがアメリカの懐の深さで、日本では経理部門以外の人が会計学を勉強することはないし、大学で他学部の学生が会計学の授業を受ける機会もほとんどない。この国はセクショナリズムが強く、横断的な部分が弱いのだ。しかし現実には卒業後、誰もが仕事をするのだから、本来、会計学は必修科目にされてもよいはずである。
社会人でこれから会計学を学ぼうとした場合、本だけから得る知識だけでは難しいだろう。専門学校やビジネススクールの講座に通うのがいちばんで、実例にのっとって講義を受け、かつ自分で考えるという過程を経るべきだ。一般教養については読書だけで十分というのが私の持論だが、画一化された標準的な基礎学問は、先生から学ぶことが、いちばん効果が高い。
◇MBAをもっている有利◇
ビジネススクールと聞いて、なかにはMBA(経営学修士)を思い出す人もいるだろう。会計学が土台であるのに対し、こちらはそれ自体が強力な武器になる。
一時期、日本でアメリカのビジネススクールに留学してMBAを取得することが流行ったが、彼らが現場に復帰したとき、何の役にも立たない、といわれることが多かった。しかしある意味これは当然で、ビジネススクールに留学するのは大半が30代前後の人たちである。日本においては、その年代はまだ課長にもなれない。彼らが実際に行なう仕事と、学んできたトップ層の道具である「経営学」のあいだには、大きなギャップがあったのだ。その結果、留学した人は与えられた仕事に不満をもち、会社は会社で2年も勉強してきたのに仕事ができない人間、というレッテルを張ることになった。
しかし、これこそ日本的な人事制度の弊害といってよいだろう。要は人材の使い方を知らず、MBA取得者をみすみす無駄遣いしていたのだ。料理をつくるのは村正の名刀より包丁のほうが都合がよいが、かといって村正の名刀が名刀ではない、という理屈にならないのと同じである。事実、外資系企業ではMBAホルダーを高給で採用しているし、労働戦線的に考えれば、これからはどのような企業で、どのような仕事が求められるかわからないわけだから、欧米の企業でも通用するという意味でMBAをもっていることが有利になるのは間違いない。
日本は優秀な国民をもっていて、教育設備もしっかりしているわりに、とても無駄なことに時間を浪費している。総じて学校では生徒にとって必要なものを教えることが少ない。英語にしても10年間勉強させるなら、どうして古典や文法を教えるのだろうか。受験勉強が終われば忘れてしまう単語ばかりを暗記させようとするのか。日本の学校は学生でなく、教える側の都合ばかりを優先している。
唯一の例外が予備校と塾で、これらは受講生のニーズに応えるサービスを提供しようとしている。その意味でもビジネススクールや予備校、専門学校に通って技能を身に付けるのは一法だろう。
◇社外にできるだけ人脈をつくれ◇
さらにいえば、これもけっして簡単ではないかもしれないが、これからどのような産業が発達し、どのような産業が衰退するかという見取り図を描いたうえで、そのマップのなかでどうやって生き残るか、という戦略を描いておくべきだろう。
これからの産業構造を考えるとき、製造業において人が不要になり、サービス業で人的ニーズが高まることは間違いない。もっともサービス業といってもいろいろで、伝統的に金融業の給与水準は製造業より高く、流通業は低い。どこで働くかというとき、やはり給料が低いよりも高いほうがよいと考えるのは当然で、必然的に給与水準の高い業界には優秀な人材が集まりやすくなる。
ただし給与水準が低くても、若手の抜擢度が高ければ、その業界に人材は集まってくる。同じ年に大学を出ても他の人より給料が高いこともあるなら、その業界に入ろうとする人は増えるだろう。そこから人材の分布が是正されていく。その意味では、ユニクロのような新興企業のほうが、三越よりも圧倒的に有利なのだ。
また一方で、これまで衰退していて、まったく可能性の見出せなかったような職業が、突如、輝きだすこともある。
たとえば農業は自然相手のきつい仕事のわりには所得水準が低く、従事したいと思う人も少なかった。家に田んぼがあっても後を継がず、市役所勤めなどをしながら農繁期だけ副業的に行なう。市役所に勤めるだけの人より総所得は多くなるが、それでも兼業は大変だからと手を引く人が増えているといわれた。
しかしたとえば魚沼産コシヒカリのようなブランド米をつくれば、普通の米よりずっと高い値段で売ることができる。とくに「食糧危機」が叫ばれたのち、そのようなチャンスを求めて、より多くの人が農業に参入しようとしている。
あるいは、爆発的なブームを巻き起こしている北海道の生キャラメルなども好例になろう。普通のキャラメルの何倍も高いが「おいしい」と評判で、購入するには1時間も並ばなければいけない。ネット時代だから、誰かが「あれはおいしい」とブログに書けば、それだけであっという間に100人が買いに行く、という具合なのだ。
日本のキャラメルは森永製菓が最初に売り出したもので、森永の創業者がアメリカでキャラメルを食べ、これを日本でもつくろうと考えたのが始まりである。当時の日本は貧しく、甘い食べ物が少なかった。森永のキャラメルは大ヒットしたが、時代とともにかつてほどは売れなくなっていった。それが新しいコンセプトによって、ふたたび爆発的な数の消費者を掴んだのだ。
そのようなイノベーションの共通点は、「画期的なアイデアを取り入れること」である。これができれば機能のプロだけではなく、業界のプロとして生き残ることも可能だが、ただしそこには矛盾があって、画期的な何かを行なうためにはそのアイデアの源泉を雲のなかから掴むか、あるいは異業種から学ぶしかない。
異業種にこそ多くのヒントがあり、そこで成功した考えを自分の業界に移植することで、画期的なアイデアが生み出されるのだ。
そのためにも社外にできるだけ人脈をつくっておくことが重要になる。社内にどれだけ人脈をもっていても、やって来るのは職種変更のオファーだけで、むしろこれは機能のプロになるうえで障害だろう。仕事を通じて社外に人脈をもっていれば、転職のオファーも来やすいし、たとえオファーがなかったとしても、現在の仕事にプラスに働くことは間違いない。
1つの世界に閉じこもっていれば、たしかにそのあいだは幸せだろう。江戸時代の農村で暮らすようなもので、不幸にはならないかもしれない。しかしそれは幸福になる道でもない。良い悪いの問題ではないが、そのような姿勢で大リストラ時代に生き残っていくのは難しい。
とくに40代の人たちに元気を出してほしい。その年になるともう元気を失っていく人が多いが、定年が60歳であることを考えれば、40代はまだ若い。最近は、30代でも保守的な人が出てきているくらいだから、逆に40代の人でも新しいことにチャレンジできる時期であり、チャンスなのだ。