いま叫ばれている再分配は労働者と環境を犠牲にする急進的市場主義 コースからの転換 マルクスによれば、歴史上の悲劇は二度目は茶番劇として繰り返される。ブルジョア国家の公式の危機管理に関連して今日「新ケインズ主義」のラベルが貼られているものは、ケインズが本来意図していたものであるかのような印象を与えるが、実は再上演された茶番劇にすぎない。 三十年以上にわたって「ケインズ主義者」はブルジョア経済学の悪がきであった。ミルトン・フリードマンのような著名な人々を抱えるモンペルラン協会の急進的市場主義派は、古典的ケインズ主義に対して、(資本主義)経済の政府による規制の擁護者に対して、そしていわゆる「新ケインズ主義」に対して勝利したように見えた。「新ケインズ主義」とは、一九八〇年代に生まれた、ケインズの基本的な考え方といわゆる新古典主義経済派の考え方を組み合わせた一派であるが、規制緩和と「自由市場」の神秘的な力に対するほとんど宗教的信仰の時代には、絶望的な社会民主主義や労働組合の環境の中でほとんど影のような存在でしかなかった。 今、ケインズは世界の至るところでふたたび風潮となっており、表面的、素人目には、まるで急にあらゆる色合いの経済政治家が、東から西まで、「昨日私がしゃべったたわごとを誰が気にかけるだろうか」という金言を地で行って、最近三十年間の急進的市場主義コースから転換し、ジョン・メイナード・ケインズを再発見したように見える。だが、ちょっと待った。ケインズの考え方をよく調べれば、違う結論になるだろう。 ケインズの意図 は何だったのか 主著の中でケインズは、危機の周期は「資本の限界効率の周期的変化の結果」とみなすことが最も適切である、という観点から出発した。彼は、総需要を、生産だけでなく雇用のレベルにとっても中心的要素であるとし、したがって、失業と闘うには賃金を引き下げなければならないという新古典主義理論を拒否した。彼は、賃金引下げの積極的効果は購買力の低下によってただちに妨げられるであろう、と効果的に主張した。 彼の主著が出版されたのは一九三五年であるが、その執筆は特別な歴史的状況の影響下で行われた。第一に、一九二九年の世界経済恐慌とそのあらゆる結果が存在した。第二に、ソ連だけでなくファシスト・ドイツのような国家独裁的経済の台頭である(ケインズはドイツ国立銀行総裁ヤルマー・シャハトの個人的友人であった)。第三に、米国のルーズベルト政府の路線が存在した。複数のケインズ主義的要素を経済再構築政策の中に現実主義的に統合した三十年代のいわゆるニューディール政策である。ケインズの理論の意図は疑いもなく、一方では彼が「権威主義的政治体制」に分類したものを避けること、他方では失業をなくすことにあった。「世界が失業に耐えられないのは明らかである。私の意見では短期の回復は不可避的であるが、短期の回復は別にして、失業はもっと長期的な現代資本主義の個人主義に関連している。しかし、問題の正しい分析を通じて、病気を治癒させ、同時に容量と自由を保存することが可能なはずである(彼はこれは 権威主義的体制ではないとした―タデウス・パト)。」 彼は明らかに支配的社会的不平等を認識していたが、それを避けられないこととみなした。 「私自身は、所得や富のかなりの不平等は社会的および心理的に正当化されると考えるが、それは現在存在するような巨大な不平等ではない。」したがって、彼の観点からすると、国家は一定の介入を通じて、一方では完全雇用と危機のサイクルの減衰を確保し、他方では所得の不平等を制限するべきなのである。したがって、彼は一連の対策を提案した。まず第一に、投資の誘導と消費の拡大に重点を置いた国家の継続的介入である。この点でも、市場自由化の主唱者に対する彼の主張は非常に今日的であるように見える。 「したがって、消費の負担の均等化や投資の誘導が意味する政府の任務の拡張は、十九世紀の評論家やアメリカの株式仲買人にとっては個人的自由への恐るべき干渉に見えるだろうが、彼らとは反対に私は、全体としての既存の形態の経済の崩壊を回避する唯一の実現可能な手段として、また個人のイニシアティブの行使が成功する前提条件として、これを防衛する」。 この点に関しては、今日ではなるべく隠されているが、ケインズははるかに進んでいた。彼の観点からは、国家は遺産や高額所得に対しては高い税金を課すべきなのである。彼は次のように述べた。「投資の完全に総合的な社会化は、完全雇用に近づく対策としてのみ現れるだろう」。また、ブルジョア経済科学の他の主唱者とは違って、彼は自由市場の資本主義を歴史の最終形態とみなさなかったので、彼はまったく急進的な結論に到達した。「国家にとってその獲得が重要なのは、生産財の所有権ではない。生産財の増加に充当する資源の総量を国家が命令することができれば、またその所有者への報酬率を命令することができれば、必要なことはすべて満たされるだろう。必要な社会化の措置は、追加的に、徐々に、社会の共通の伝統と手を切ることなく導入することができる」。 ブルジョア国家 は中立ではない 国家による介入と再分配の規制を受けるケインズの経済モデルは、当然にも、「自由市場経済」の主唱者たちにとっては奇怪なものに思えた。彼らにとっては、いわゆる新ケインズ主義者は、バーを低く設定し、問題が発生したときだけでなく計画的継続的に、いわゆる反循環的ビジネス・サイクル政策を追求することに自己を限定する。すなわち、租税を引き下げ、公共投資に有利な赤字財政を行い、危機の時には金利を引き下げ、需要を強化し、投資を容易にし、理論的には、ブームの時には反対を行う。この方向に従う限り、公的負債は絶えず成長し続ける。ケインズも彼のあわれなエピゴーネンたちも考慮しなかったことは、ブルジョア国家は決して中立ではないということである。ブーム期の利益を、次の危機を考慮して国家の介入の機能を維持できる程度にとっておくようなことは、単に起こらなかった(遺産税については言わないとしても……)。 エピゴーネンたち が進める現実政策 世界的経済危機に直面して米国、EUや日本のような主要経済大国によって今日行われていることは、ケインズの本来の計画とは何の関係もない。表面的にはいわゆる「消費者クーポン」、危機プログラム、金利引下げや租税引き下げは、新ケインズ主義経済学者が要求していたものであるように見えるかもしれない。しかし、政府の「赤字支出」は、漸進的な再分配を目的としたものではまったくない。 反対に、金融資本や大企業のための直接金融支援、債務保証、買収支援のために使われる金額と、公共投資に使われる金額との間の関係は、極端に非対称的である。たとえば、ドイツでは、銀行救済のためのバスケットに入れられた金額は五兆ユーロであるが、公共投資や購買力強化使われたのは約五〜六百億ユーロに過ぎない。比べてみるだけで分かる。一九六〇年代末期の危機に社会民主党の財務相が始めた投資計画は四百億ドイツマルクであった。これはGNPとの関係では今日の約四兆ユーロに相当する。 それぞれの政府の政策に全般的変化の兆候はない。その代わり最近数カ月間に、さまざまな提唱者が一つの政策を展開している。まるでケインズとそのエピゴーネンの理論は財政的政治的機会に応じて誰でも利用できるものであるかのようである。一方の側は租税引き下げを要求し、他の側は消費者クーポンを要求し、三番目は金持ちへの強制公債(当然、利付である)を要求する。ケインズや三十年代の米国ニューディール政策のような意味での再分配について語るものは誰もいない(ところで、ニューディール政策はまったく成功しなかった。米国経済を救ったのは世界戦争であった)。彼らはまるで、政府の救済策や緊急措置が問題のすべてであって、その後はすべてが元どおりになるかのように振舞っている。したがって、どこでも政治家たちは、経済が息を吹き返したらただちに国家はビジネスから撤退すると主張している。 しかし、ドイツ左翼党議長のオスカー・ラフォンテーヌのようなまともな新ケインズ主義者も依然として存在している。彼は公共投資を要求している。しかし、彼が新しい道路建設を訴えているという事実は(他のことにもまして)、ケインズ主義的アプローチのアキレス腱を示している。 ケインズ主義 と気候変動 ケインズと彼の後継者たちは、一貫して経済成長を重視する。しかし問題は、今日われわれが直面しているのはブルジョア経済が答を見つけられない結合した危機である、という事実である。一方には一九二九年以来の資本主義体制の深刻な経済的危機、過剰生産の危機があり、他方にはまさにこの指数関数的な量的経済成長を通じて自然環境を無制限に搾取してきた百五十年間の結果としての気候変動の脅威がある。 この後者の問題は、これ以上量的成長に重点を置く政策が時代遅れであることを証明している。たとえば、われわれはこれ以上自動車や道路を必要とせず、必要なのは環境的に中立な公共輸送システムである。今日の形態での個人的交通は、エコロジー的に終わりを迎えているのである。気候変動と闘うことは、市場メカニズムや財政政策(租税、CO2証明書)によってエコロジー的結果を処理しようとしたり、追加的な「気候産業」を設立することで対応するのではなく、生産と流通のすべてのメカニズムのエコロジー的意味を査定する経済的制度を日程にのぼせることを意味する。 しかし、本当に必要なものがなければ、すなわち気候的環境的中立性と切り離せない持続可能なリサイクル・ベースの経済がなければ、(新)ケインズ主義的であろうとその急進的市場主義的変種であろうと、資本主義経済は何の基盤も提供しない。したがってわれわれは、一方では人民の必要性に向かう、他方では人類の存続にとって決定的に重要な自然環境の保全に向かう、生産と流通の根本的に異なったモードを必要とする。 ケインズや彼の後継者たちが完全に無視していることであるが、このためにはわれわれは産業資本や金融資本のロビーに握られていない国家を必要とする。 理論的基礎を 持たない政策 工業国の政府が実際に行っていることは、フリードマン派の政策でもなければ、新ケインズ主義でもケインズ主義でもない。それは単なる無思想であり、近視眼的であり、気候政策の観点からは破滅的なものである。国家とその金庫は、産業資本と金融資本の支配的グループによってからっぽにされた。人口の広範な部分を占める諸階層から見ればそうである。彼らは、今後数年間に危機の結果の影響を低賃金、失業、高齢者の貧困などを通じて最も受ける人々である。政府の「救済策」の成功は疑わしいことを別にして、救済策は労働者階級のさらなる搾取に導く。すなわち、インフレを通じて。これは、負債の巨大な膨張の結果として不可避的なことである。 実際、政府は再分配を実行中である。金持ちに有利な、労働者階級に不利な、環境を犠牲にした再分配である。一部の宣伝家によってこれらの政策に貼られた「新ケインズ主義」というラベルは、それが理論的な基礎を持った一貫した危機管理政策であるという誤った印象を与えるものである。そうではない。それは完全な無力から生まれた誤ったラベルである。 (ケインズからの引用はすべてJ・M・ケインズ「雇用、利子および貨幣の一般理論」から行われている。IV原文には1983年出版のドイツ語版の引用ページが注釈されているがこの訳文では省略した。) ▲タデウス・パトはドイツRSB(革命的社会主義者同盟――第四インターナショナルのドイツの二つの組織のうちの一つ)の指導部メンバー。(インターナショナルビューポイント)09年2月号)
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