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(回答先: Re: 『「強欲資本主義ウォール街の自爆」 <-- 次が、分からないのだなあ。 投稿者 健奘 日時 2009 年 1 月 13 日 16:17:14)
それでは、健奘殿だけに、第7章 「バブル崩壊にいかに立ち向かうか」のさわりをご紹介します。
下村博士の卓見
アメリカの双子の赤字に早くから警鐘を鳴らしていた経済学者に下村治博士がいる。下村博士は池田内閣時代に「所得倍増計画」を構想した。オイルショックを契機に「ゼロ成長論者」となり、前川レポートを「日本の健全さを捨てるものだ」として受け入れなかった。1987年には「日本は悪くない。悪いのはアメリカだ」と断言し、レーガノミックスを批判した。
p175〜176
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下村博士が指杵したことは次の通りである。
@消費狂いになってしまったアメリカ人と、レーガンの大減税は、虚構に虚構を重ねる経済政策である。
A日本商品はアメリカの異常膨張に吸い込まれ、繁栄しているかのように見えるが、この異常膨張した経済に合わせて設備投資すると、これからは過剰設備がやがて深刻な問題(重荷)になる。
B財政赤字を減らすには、大幅な歳出削減と増税以外に道はない。しかしアメリカは本気で財政収支均衡法をやる気がない。
Cアメリカの要求に合わせた日本の内需拡大論は、日本経済を破滅させる。
Dドル崩壊の危険性は常にあり、もう日本は何兆円も損をしている。
E日米は縮小均衡から再出発せよ。世界同時不況を覚悟するしか解決の道はない。
下村博士がこのような主張をしたとき、誰も耳を傾けなかった。それどころか、潮笑すら聞こえてきた。やがて土地バブルが起こり、それが崩壊して、下村博士の指摘通りになった。だが、その後も下村博士の主張は無視された。それどころか「小泉・竹中時代」になると、まったくのアメリカ型強欲資本主義を追随する思想が日本を席捲し、「勝ち組・負け組」論が人々の心を支配する勢いとなったことは詳述した。
「六本木ヒルズ族」なるものが生まれ、「売るための会社づくり」が若手起業家を魅了し、大ブームとなった。当時の日銀総裁は、やがて逮捕されるヘッジファンド・マネージャーに資金運用を依頼していたことが発覚し、やはり塀の向こうの人となるホリエモンを自民党幹部が代議士になるよう応援する時代になった。
同時に「格差は正しい」、「東京をウォール街のような国際金融都市にし、モノづくりよりも金融国家となることを目指すべきである」といったことが喧伝された。現在も、その延長線上にあり、下村博士が提一言した厳しい処方嚢を受け入れようとする声は、経済界はもちろん、政界の中心からもまったく聞こえてこない。
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少しだけ、前川レポートを擁護したい。前川レポートが書かれた当時、日米貿易摩擦がピークに達し、日本の内需振興は、経済的な側面より政治的側面があった。前川レポートを一方的に悪者にするのもいかがかと思う。
また、双子の赤字批判についても、ではもしレーガンが登場しなければ、米国がこの30年弱享受した繁栄は無く、また、米ソ冷戦は終結せず、危険な核の均衡にたったパワーゲームを展開していたに違いない。新興国は発展せず、ある意味日本一人勝ち経済が続いていたかもしれません。前川レポート(1986年)批判も、その間の日本経済のバブルの興隆とバブル崩壊を考えた場合、単純に前川レポート批判は的を得たとは思いません。内需拡大、市場開放、金融自由化はグローバル化、フラット化しつつある世界経済の流れや、貿易立国である日本にとってはやむを得ぬ選択としか思えない。
今日の日本は、雇用する側とされる側、銀行と預金者。銀行と企業、企業と消費者、政府と納税者、ありとあらゆる信用の輪が失われ、切れてしまった。だが、日本は取り返しがつかないような状況に追い込まれたわけではない。冷静に判断すれば道が開ける。
p186〜187
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日本の政治家は、特にこの「日米という世界一、二位経済連合時代の終焉」を明確に自覚すべきであろう。
この三、四十年にわたって空気の存在同様、当たり前のこととして受け止められてきたことゆえ、頭の切り換えは非常に難しい。しかし、一つの時代が終わろうとしているのだ。
加えて、日本は少子高齢化が急速に進みつつあり、経済が縮小してゆくのは当然のことだ。
日本国内で電車に乗る人の数は、過疎地帯に限らず、多くの地方都市ではすでに減り始めた。今後は家の数も、自動車の数も少なくて足りるのである。スーパーマーケットもコンビニも銀行店舗も、日本全国津々浦々に行き渡り、今後、新規出店を増やして「成長する」ということなどは、もう経営戦略として描けないのである。多くの小売業が、このように「成熟」し尽くしているということだ。
この状況の中で拡大政策は、技術革新をする以外に望めない。市場規模が縮小する日本国内市場だけで商売するなら、毎年0.6%ずつ人口が減ってゆく社会で、どのように縮小均衡点を見出してゆくのかということこそが、経営テーマなのである。
「ゼロ成長」時代の生き方
これからは、内需振興、輸出振興(特にアメリカの浪費を当てにした)ともに、多くを
望める状況ではなくなる。
石油の価格は上昇する一方である。多くの資源が同様だし、地球温暖化問題もある。加えて国と地方の長期債務の合計は七百七十八兆円、GDPの約一・八倍と世界で断トツの借金大国であり、これ以上の財政支出で経済を拡大するという選択肢は取りえない。一言で言えばもう「数宇を追っかけること」ができない。すなわち、下村博士が指摘したもう一つのこと、「ゼロ成長」を現実のものとして受け止めなければならないのである。
日本に課された課題は、現実を直視し、アメリカの子分であることも止め(子分であるということは、従属するとともに面倒を見てもらうことでもある)、身の丈にあった新しい生き方を見つけることではないだろうか。「ゼロ成長時代の生き方」、「ゼロ成長時代に目標とする新たな指標」「何を以て成功とするのか、その成功の定義」を自ら見出さなければいけない時代となった。
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