http://www.asyura2.com/09/gm15/msg/148.html
Tweet |
http://diamond.jp/articles/-/13982?page=6
「頭のいい人とそうでない人の差はどこでつく?」
『知性誕生』の著書で脳科学の権威が語る
“インテリジェンス”の正体とその高め方
――ジョン・ダンカン ケンブリッジ大学名誉教授に聞く
我々は、日常生活の中でよく「あの人は頭がいい」「知性(インテリジェンス)が高い」といった表現を用いる。しかし、その場合の頭の良さ、インテリジェンスとはいったい何を意味しているのだろうか。それは努力によって向上できるのか。また、そもそも実質的な意味を持つ言葉なのだろうか。英国が世界に誇る脳科学者のジョン・ダンカン博士に、知性のメカニズムについて聞いた。(聞き手/ジャーナリスト 大野和基)
――「頭のいい人」と「それほどでもない人」の差はどこにあるのか。
ジョン・ダンカン(John Duncan)
英国のケンブリッジ大学とバンガー大学の名誉教授。オックスフォード大学の客員教授、王立協会および英国学士院の会員でもある。30年以上にわたって人間の脳と心の関係を研究。近著に『HOW INTELLIGENCE HAPPENS』(和訳本「知性誕生」早川書房)
心理学者のレイモンド・キャッテル(1905〜1998年。イギリス生まれの心理学者)の言葉を借りれば、知能は「流動性」知能と「結晶性」知能に区分して考えることができる。前者は、計算したり、空欄に当てはまるものを考えたり、情報を処理して何かを生み出す知能のことだ。いわゆる「頭の回転がいい」といった特徴のことであり、これは20代半ばをピークに衰えていくと言われている。一方、後者は物知りというか、言語的な知識の蓄積がものをいうような課題に対処する側面を指し、老年期にいたるまで伸び続けると言われている。
このうち流動性知能の水準は、およそ20分間のテストで測ることができる。そのテストの結果だけで頭の良し悪しを判断することは必ずしも正しくないが、結果があまりよくない人については、以下のようなことが起こっていたかもしれないと推察することは可能だ。それは、スリップしている車のように空回りしているかもしれないということ、あるいは問題が大きすぎて脳の活動が何も起きていないかもしれないということだ。
ちなみに、人生で難問に直面したときに、そういう心理状況に陥っていると感じる人は多いだろう。ときにはありとあらゆる可能性を探しているだろうし(そういうときは、脳は活発に動いている)、あるいは、まったくアイデアが出てこないときもあるだろう。難問に直面すると、脳のシステムが非常に活発に動いていることもあるし、まったく作動しないこともあるのだ。
かなり質問からずれてしまったかもしれないが、言いたいことは、頭の良し悪しの線引きは、一言ではなかなか答えられないということだ。すべては文脈や背景、前後関係といったコンテクスト次第であり、誰もが相対的に強いところや弱いところを持っていて、強いところは頭がいいと言える。
しかし、それぞれのパフォーマンスに特有のことがあるとしても、それを超えて何に対しても発揮される能力があるのも事実だ。そのことを説明するために、チャールズ・スピアマン(1863〜1945年。イギリスの心理学者)は、ある因子が脳の中にあって、それがいろいろな認識活動の助けになると説明した。これは、拙書「How Intelligence Happens」(邦訳本『知性誕生』)の大きなテーマのひとつでもある。
―― 一般因子(general factor)のことか。
そうだ。ただ、彼は単純に「g」という呼び方を好んだ。スピアマンは、学校の成績と基本的な感覚能力にプラスの相関関係があることを発見した。(教科に関する)学力テストで優れている者は、2つの音や重さの弁別能力を測る感覚能力テストでも良い成績を収める傾向が見つかった(たとえば、学校でラテン語ができる子どもは、感覚能力テストでも成績がよかった)。
むろん、先述したように、日常生活で一つのことに秀でていても、他のことが苦手な人はいるので、この結果を鵜呑みにはできないが、それでも全体的な傾向としてはプラスの相関関係があることは示されている。
――それは生来の能力か。
流動性知能は、スピアマンの「g」の測定では、かなり遺伝によるもの、つまり先天的であることがわかっている。
しかし、残りの部分は、じつは環境によるものが大きい。私にとってはその部分の方が興味をそそる。というのも、この一般的な認知能力がどのように発達するかを決定するのは環境上の経験であるからだ。となると、人生のかなり初期すなわち幼年期の経験は特に重要である可能性が高いように思われる。それが社会上、文化上のバックグラウンドが異なる人の中でどのくらい影響するかを私は知りたい。遺伝的な要素についてはほとんど何もできないが、環境の要素は変えることができるからだ。
――言い換えれば、人は環境を変化させたり訓練を受けることによって自分の知能指数を向上できるということか。
訓練を通じて一般的な認知能力を向上させることができるかについては、沢山の研究が行われているし、実際に多くのプログラムがある。なかでも、スウェーデンで開発中のworking memory(作業記憶)の訓練プログラムは、有名だ。これは、子どもの作業記憶の容量を向上させるために、覚えるべきことの内容を徐々に難しくしていくものだ。
ただ、普通の人を訓練するときに一つのことを上達させることははるかに簡単だが、それがそのまま別のことまで上達させるとは限らない。これが教育の悲しい現実である。ギリシャ語を学べば、ギリシャ語のことはたくさん覚えるが、それが一般的な記憶までよくするかというと、その証拠はあまりない。
また、本にも書いたように、大切なことは、知能を使う行動はそれがいかなるものであっても、いくつの部分に分けて考える必要があるということだ。各部分は個々に取り組むものなのだ。このことは、問題解決のためにコンピュータのプログラムを作成するときや人工知能を作るときにも明らかである。
――何か分かりやすい例はないか。
たとえば、スープを作りたいと思ったとき、まず左手をどうしたらいいのか、すぐにはわからないだろう。スープを作るという願望が即座に左手をどうしたらいいのかということに何の制約も与えないからだ。
ところが、解決できる部分に分けるシステムを持っているとうまくいく。スープの場合は、まず玉ねぎが必要であると考えると、それがキッチンのどこにあるか情報を結合するところから始まる。その場所に行くことで、この小さな問題を解決できる。そうして初めて問題解決に取り組むことができる。
このやり方はスープを作ることでも三角法でもチェスをやるときでも同じだ。部分に分けて初めて、複雑な問題を解決できるのである。つまり、“多重要求システム”の主な機能の一つは、まず何かをしたいという願望から始まり、それを有用な部分に分けることである。
日々達成したいことを箇条書きにして書きとめることがしばしば有用であるように、問題を有用な部分に分けるように人を訓練することはできる。
――ということは、願望や関心が脳を刺激することはある程度当たっているということか。
特定のテーマについて考えるのに費やす時間のトータルからすると、明らかに筋は通っている。
たとえば、動物の行動に関心がある人は、何百時間も動物の行動について考えることに時間を費やす。車が好きな人も車のことばかり考えている。これほどの時間を費やして、ある分野について高めて行く複雑な知識は、自分の問題を分析する能力を決定する主要な要素であることは確かである。
科学者としての私の人生では、50代になると20代のときよりも流動性知能はよくないかもしれない。その種の知能はかなり急速に落ちて行くからだ。しかし、結晶性知能、あるいはスピアマンがいう特殊因子(specific factor)からの寄与は非常に効果的である。心理学や脳について何が重要な質問かについての専門知識を今まで築き上げているからだ。
問題を解決しようとして、頭を絞っているとき、いい解決を導く一番の要素は自分が持っているその分野の知識である。三角法の知識がないと三角法の問題を解くことはできない。スープを作る場合も同じだ。一つの問題を部分に分けてそれを解決する際の多重要求システムの機能は重要であるかもしれないが、それに劣らないほど重要なことは、たまたま自分が関心を持った分野で人生を通じて築き上げてきた膨大な知識である。
――話は変わるが、人間の脳の研究の限界は何であると思うか。
誰がそれに対する答えを出せるのだろうか。今の我々の限界は、脳についてまったくわかっていないということだ。問題の複雑性にあまりにも圧倒されて、研究の進み具合は非常に遅い。
たとえば、脳を何と比較したらいいのか。肝臓か心臓か。こういう臓器には、脳と同じように何億もの異なる細胞があるが、細胞同士の作用で機能が作りだされる複雑性は肝臓や心臓の方が、脳よりも何ケタも小さい。だから一つの筋肉細胞を理解すると、それを組み合わせて、収縮運動がどういうふうに起き、心臓がどう動くかを調べるのは比較的簡単だ。
しかし、一つの神経細胞が電気インパルスを発して活動を開始しても、何十億もの細胞がその生物学的コンピュータをどうやって動かすかという問題について、何の手掛かりもつかんでいない。
つまり、我々が表現する思考や行動を作りだす何十億もの細胞を、どうやってこの電気活動が組み合わせるのか、という本当の複雑さの研究に取り組める状態から、何光年も離れているということだ。
――本の中で人工知能について述べているが、いつかコンピュータは人間の脳を打ち負かすことはできると思うか。
それは、どういう問題を設定するかによる。非常に多くの問題で、すでにコンピュータは人間の脳を打ち負かしてきた。基本的に、問題が自己完結であればあるほど、知識集約的ではなくなるので、コンピュータの方が有利になる。
簡単な例としては、一つのストーリーを理解することだ。誰かが童話を話しているのを聴くと、我々はいとも簡単に話のポイントを掴み取れるが、実際はそれが複雑な問題であることに気づいていない。いかなるコンピュータもその複雑なことをやろうと思っても、微塵もできない。コンピュータの大きな限界は、言葉が理解できないとか、問題について考えることができないというよりはむしろ、物語の内容を理解することができないということである。人間が内容を理解するときは、その物語が適合する世界についての、豊富な知識を使っているのだ。
たとえば、「ジョンは、いつもの通りを歩いていたら、友人にばったり出くわした」と言われても、人や町の環境や社会的関係などについての知識がないと、内容についてまったく理解できない。コンピュータはそのレベルですでに人間に負けている。そういうことが本当に大きな限界として存在する。
こういう知識をコンピュータに入力することが結局、壮大なチャレンジであることがわかった。Raw Intelligence(洗練されていない知能)と我々が考える例として本の中でも詳説したが、チェスのように一見かなりの知能を要すると思われるゲームでも、必要な知識はかなり自己完結しているので、コンピュータは即座に上達する。
おかしなことだが、人間がある意味でもっともインテリジェントであると思っている分野でコンピュータが輝き、我々が当然に思っているようなこと、たとえば、窓の外に目をやって見えるものを把握することは、コンピュータは非常に苦手なのだ。
これは偶然の観測ではないように思われる。というのも、生物学的システムは視覚を使って物体を認識し、世界をナビゲートすることに何億年も取り組んできたからだ。強力な解決法がそのシステムの上に築かれているのだ。
一方、チェスをしたり、論理を解いたりすることは、人間が誕生するまで、完全に生物の範囲の外にあったので、人間はこうしたロジックについては相対的に得意ではないのかもしれない。
――人間の脳の部位で前頭葉は人間を他の動物と区別する部位と言えるか。
それは単純化しすぎだし、人類と他の種(species)を分ける唯一のものではないが、人間と他の大半の哺乳類との大きな違いの一つは、確かに多重要求システムをはじめとして、前頭葉の中の多数の部位の発達にあるとはいえる。
たとえば、前頭葉の前の部分、つまり額の後ろの部分に、類人猿から人間にいたるまで、哺乳類の発達で、絶対的に拡大した場所がある。おそらくそれが、我々の認識能力や社会能力の加速化に実際関係しているだろう。前頭葉の部位は社会生活をする点で非常に重要であるからだ。これは、fMRI (MRIを利用し脳の血流量の変化を測定する脳機能イメージング法)がもっとも明確に証明したことの一つでもある。
――自分がどれくらい頭がいいかを知りたい場合、知能テストを受ければいいのか。
こう答えよう。まず日常使う言葉と科学上の言葉の使い方に非常に慎重になる必要がある。人が日常的な意味で、頭がいいというとき、無限の意味がある。たとえば、音楽に秀でている人が流動性知能に秀でているとは限らない。
しかし、多くのことでどれくらい成功するかということを広く予想するという意味で流動性知能を知りたい場合、流動性知能テストを受ければ、非常に正確に予想できる。つまり、平均的な能力を予想することに関心があれば、そのテストを使えばよい。学校でどの程度いい成績を出せるかは、大体これで予想できる。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 狂牛病・ゲノム15掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。