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『原子力資料情報室通信』第423号(2009/9/1)より
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30年目の真実、死亡扱いされていた原発親方
樋口健二(フォトジャーナリスト)
「もしもし、福岡の梅田です。相談に乗って下さい」と電話があったのは5月中頃のことであった。電話の主は29年前、取材途中で突然、姿を消してしまった原発下請けのひとり親方であった梅田隆亮(りゅうすけ)さん(74歳)である。
彼が原発定期検査に駆り出されたのは1979年3月に島根原発で1週間、放射線管理区域で作業を行ない、いったん帰省して5月から6月に敦賀原発で約1ヵ月ほど定期検査の工事にたずさわった。
その結果、ひどい内部(体内)被曝を受け、長崎大学医学部のホールボディカウンター(WBC)で計測をしてもらうと、通常では体内にないはずのコバルト57・58・60、マンガン54、セシウム137といった放射性核種が検出されたのである。被曝データをもとに裁判に訴えようと動き出すや、梅田さんに直接仕事をまわしていた下関の井上工業(日立プラント建設鰍フ孫請けで現在、倒産)社長と日立プラント建設梶i東京)社員が九州大学病院放射線科へ連れてゆき、「異常なし」の診断書を作らせたばかりか、暴力団まがいの所からいやがらせの電話を何回も受け、「家内がノイローゼになりそうなほどだった」と顔を曇らせた。そのころ「パァーと鼻血が出たり、脱力感」で悩んでいるとき、「仕事料」の名目で106万円の振込みを受けた。それは実質的な裁判つぶしであった。忌まわしい現実に直面していたので、「わずらわしさと生活を立て直さねば」という思いで姿を隠さねばならなかった」と語った。
私への電話のきっかけは2008年9月に松江労働基準監督署へ原発被曝の労災申請を提出したことに始まる。そのことがNHK島根放送局によるヒューマンレポート「元原発作業員の救済を求めて」として中国地方で放映された。
その後、「電話が鳴りっぱなしでたいへんな反響だった」と振り返り、新聞、雑誌などから取材を求められていた。梅田さんは、私の著書『闇に消された原発被曝者』(御茶の水書房)に自分の被曝実態が取り上げられていて、信用のおける文章だったからと電話をかけてきたのだと言う。29年間の空白が一挙に縮まった。
姿を消して以後、天職であった鉛溶接の仕事を続けてきたわけだが、時々「突然鼻血が出たり、倦怠感に悩まされてきた」と言う。それでもあと5年で厚生年金の受給資格が取れるという矢先の2000年3月28日に「急性心筋梗塞」で倒れた。ゴルフ場の芝生の上でのことである。救急車で飯塚病院(福岡県飯塚市)に搬送された。主治医の長澤一成医師から「普通はハンマーで打たれたか錐で刺されたような痛みを訴える」と伝えられたが、梅田さんの場合は「痛みも全然なく、ただ脱力感でダァー」と芝生に座り込んでしまった。意識はしっかりしているのに立つことすらできなかった。「10%ほどの生存率なのに奇跡的に生き延びてきた」と当時を振り返る。
復職しようと思ったが、「就労不能」の烙印を押され、厚生年金受給の夢も失効となって呆然とする。「医療保障と家内の国民年金で貧乏しながら細々と暮らしてきた」とつらそうに語った。
そんな矢先の2006年に、「財団法人放射線影響協会 放射線疫学調査センター」(文部科学省委託の調査を実施)から3回にわたりアンケート調査の資料が梅田さんのもとに送付されてきた。最初はめんどうくさいと「ほっておったが、これは何かあるんかと思い電話を入れた」。すると「電話口に出た男性が名前をいっさい名乗らず、『被曝者107人くらいの記録があるが、ほとんど亡くなっている。梅田さんはご健勝ですか? ほんとうにご本人ですか?』と、あきれた口調で語った」という。さらに、『すでに死亡していてもおかしくはない』とも話したのだ。梅田さんの体内被曝線量がいかに高かったかを証明するかのようだ。
このアンケート調査は被曝線量の高い労働者や死者の遺族にあてて出されたもので、被曝労働者を救済したり労災認定を行なうためのものではなく、被曝統計を取るものでしかない。梅田さんの病気や発症した日付と年齢からすれば「死んどる」と記されていたも同然だ。現在も存命の梅田さんは国から死亡扱いされていたと言ってもよい。アンケートにはさらに「死亡している場合はご遺族が何で亡くなったか、ご返事下さい」と記されていた。
梅田さんは「私が生きとることがめずらしいんでしょうな」と苦笑した。最後に届いた調査資料に連絡しなければ記録は抹消するというものである。「家内が他の被曝で苦しむ労働者のためと言うので、長崎大学医学部付属病院へ検査に行った」のである。2008年7月2日、WBC測定と診察を受けた。後に、1979年7月12日に測定した測定結果が奇跡的に残されていることが判明した。
その資料によると、「梅田さんの体内から前述したコバルト、マンガン、セシウム137と思われるガンマ線のスペクトルを探知していると推定されました。梅田さんの体内に通常では検出されない放射性物質があった(内部被ばくの)可能性が高いと思われます。当時、悪心、全身倦怠感、易出血性などの症状があり、病院の検査で白血球減少を指摘されたそうですので、急性放射線症候群に近い被ばくがあった可能性は否定できません。心筋梗塞の発症は(諸要因に加え)1979年当時の被ばくが関与している可能性は否定できない」(要旨抜粋)との所見も得ている。
松江労基署の土江啓司課長も3回にわたり聞き取り調査に梅田さん宅を訪れた。今年6月5日に同労基署から電話で「現在、あなたの件はあまりにも被曝量が高いから、厚生労働省で電離放射線障害の業務上外に関する検討会が立ち上がり、支給・不支給を検討している」と知らせがあったという。
さて、梅田さんの被曝に至った原発内作業に触れておこう。
30年前、1979年3月2日より10日まで島根原発第5回定期検査と敦賀原発第10回定期検査の5月17日より6月15日まで約1ヵ月間、原発内作業にたずさわった。ひとり親方の梅田さんは4人の労働者を連れて、溶接の技術を活かし配管工事の仕事を請け負い新日鉄などで働き生計を立てていたが、不況で仕事が減り、知り合いから原発内作業を請け負う井上工業を紹介された。
「島根原発では、重装備ではなく普通の作業衣で働いた」と驚くような証言が飛び出すと同時に、「民宿で食事中、敦賀原発で2人の作業員が足をすべらせて核燃料冷却用プールに落ち、1人は這い上がって助かったが、もう1人は火傷というか皮膚炎がひどく亡くなった。助かった人も1ヵ月後に死によりました」と、悲惨な現実が話題となっていたと言う。原発の闇の世界も労働者たちの口コミで伝えられているのだ。
島根原発の仕事を終え、九州に帰ってしばらくすると敦賀原発に行くよう連絡が入り、梅田さんを含め5人で定検作業に入った。
「毎日、宇宙人のような重装備で外部被曝計器を首から吊り下げて入った。ご存知でしょう、マスクは全面マスクです。顔面をすっぽり包むので息と熱気でパァーッと曇り、前が見えんようになる。汗が体中に吹き出す。わしらガス切断機でパイプを切ったり溶接したりするが、マスクが曇れば仕事にならん。いくら会社でマスクをはずすな言っても、悪いとは知りながらはずしての作業になる」と一気に語り、「敦賀原発のほうは入った途端に100ミリレム(1ミリシーベルト)にセットしたアラームメーターが、ビービー鳴る始末でした。工期に仕事を仕上げねばならん。わしらが安全管理を無視して仕事するから定検もなんとか形がつくが、そうでなければ原発など動かん。1人ひとりが持たねばならん被曝計器をまとめて老人に持たせても黙認されました」と振り返り、「放射能があんなに怖いもんだとは知らんかった」とため息をもらす。
他の多くの原発労働者からも、私は繰り返し同様の言葉を聞いてきた。「十分な教育をしている」と電力会社は口をそろえるが、放射線のほんとうの恐ろしさを教えない。ほんとうのことを言えばだれも原発で働かないからだとも言った。
彼の証言には真実味とリアリティが込められていて、暗黒労働の本質が伝わってくる。私も敦賀原発内定検中の撮影に入ってその実感を強く抱いたものだ。
敦賀原発の工事を終了した梅田さんはホールボディカウンター検査を受けると2247ミリレム(22.47ミリシーベルト)という高い数値が検出された。「本来なら2〜3日様子を見てからでないと原発を出てはいかんことになっていた。連れて行った仲間に給料も払わなならん。無理して帰してもらった」という。その直後、働けない身体となって今日に至ったのである。
私は30年間にわたって、被曝労働者の問題に焦点を当て追及してきた。労働者たちを使い捨てる原発社会に未来のないのは必然的である。一刻も早く梅田隆亮さんの労災を認定し、被曝に苦しむすべての労働者の救済に道を拓くよう切に願う。
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■樋口健二さんの著書
『フォトドキュメント原発 樋口健二写真集』(オリジン出版センター、1979年)、『原発被 曝列島』(三一書房、1987年)『アジアの原発と被曝労働者』(八月書館、1991年)、『これが原発だ―カメラがとらえ た被爆者』(岩波ジュニア新書、1991年)、『原発1973年〜1995年 樋口健二写真集』(三一書房、1996年)など。