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http://www32.ocn.ne.jp/~everydayimpress/Video/Silkwood.htm
シルクウッド事件とは
1972年、カレン・シルクウッド(Karen Silkwood)は、化学技師としてオクラホマ州にあるKerr-MaGee社のプルトニウム燃料工場に入社した。その直後、シルクウッドは、石油・化学・原子力労組(Oil, Chemical, and Atomic Workers' Union)に加入。1974年には、同社で初めての女性の労使交渉委員(barganing committee)に選出されることになった。
そしてシルクウッドは、Kerr-MaGee社で、労働者の多数がプルトニウム被爆に晒されていることに心を痛め、その証拠収集に乗り出すことになる。しかし証拠を集めはじめるとすぐ、シルクウッドは数々のいやがらせ(電話の盗聴など)を受けるようになる。そして、死の直前1週間には、まったく説明のつかない強度のプルトニウム被爆を2回も経験することになる(このことは映画で詳しく描かれている)。
そして1974年11月13日、シルクウッドは不可解な死を遂げることになる。その日、シルクウッドは、アメリカを代表する新聞ニューヨーク・タイムズの記者と会い、集めた証拠を渡す手はずになっていた。しかしシルクウッドは、その日、組合集会を終え、記者のいる場所へ向かう途中、自動車事故を起こして死亡した。死後の解剖では、体内から、通常使用される量の2倍の催眠薬が検出され、警察はこれを居眠り運転として処理した。
しかしシルクウッドの死については、記者に会いに行く前にどうしてそんなに大量の睡眠薬を飲む必要があったのか、記者に渡すとされた資料がまったく見つかっていない、など数多くの疑問が生じている。
その後シルクウッドの親族は、Kerr-MaGee社に対し、不適切な管理でプルトニウム被爆が生じたとする民事訴訟を提起。1審(1979年)は、Kerr-MaGee社の責任を認め、同社に懲罰的な損害賠償をあわせ、1,050万ドル(当時のレートで約25億円)の支払いを命じた。2審は、Kerr-MaGee社が逆転「勝訴」。しかし最高裁(1986年)は、再審理を開始し、そこでKerr-MaGee社は親族に130万ドル(当時のレートで2.3億円)を支払うことで和解が成立した。
なおオクラホマ州にあるKerr-MaGee社の工場は、1975年に閉鎖された。