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http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090811/202300/
先週頂いた夏休みの間、私は、考えていた。 どうして自分は、こんなにものりピーに注目しているのだろう、と。 どうでもいいと、心の片側ではそう思いつつ、もう一つ深い部分で、どうしても無視できない。 だから、選挙報道や、各党のマニフェストの情報を脇に除けて、台風情報もイチローの連続安打記録報道も、本田△のゴールのお知らせもすべてを押しのけて、私は、結局、のりピーの続報を待ち続けた。 不可解ななりゆきだ。 だって、しょせんは旬を過ぎたアイドルの、ありがちな不祥事に過ぎなかったわけで、ポロポロと漏れ出してくる周辺情報を含めてみても、報道された内容のほとんどは、当方が当初抱いていた予断とそんなに違わなかったのだから。それなのに、私は、彼女を黙殺することができなかった。 20年間テレビに出続けている人間への関心は、それほどわれわれの心の奥深くに根を張っているものなのだろうか。 おかげで、彼女が富坂署管内の警察施設に出頭した旨を伝えるニュース速報が流れた直後に始まった情報番組(「情報7days ニュースキャスター」TBS系)は、30.4%という驚愕の高視聴率を獲得した。ちなみにこの数字は、NHKを含めた全放送局の、あらゆる時間帯の放送の中で、今年度記録された最高視聴率だという。 のりピー現象は翌日も続いた。 逮捕の翌日の日曜日、「真相報道バンキシャ!」(日テレ)が、21.4%、サキヨミLIVE(フジ)が、18.8%を記録している。いずれも番組の新記録。びっくりだ。 のりピーは間違いなくカムバックするだろう。 今回は、のりピー騒動の謎について考えてみたい。 8月のアタマに押尾学容疑者と酒井法子容疑者が立て続けに逮捕されて以来、しばらくの間、テレビはクスリの話題だらけだった。 「絶対にいけません」 キャスターは、いまさらながらに薬物のおそろしさを強調している。 「こわいですね」 ……白々しいと思ったのは私だけだろうか。 でなくても、「薬物は危険です」というお話は、カタにはまっている。それゆえ、決まり文句を聞かされているこっちはどうしたってうんざりする。若い連中は特に強くそう思うはずだ。 「わかってるよ、うっせえな」 と。 「わかってるよ」の手前で言われていることについては、よほどの間抜けでない限り、既に了解済みだ。クスリのリスクや、クスリのヤバさや、シャブの危なさについては、彼らだって十分に承知している。さんざん聞かされてきてもいる。 それでもなお、「うっせえな」と彼らは思う。 当然だ。 「うっせえな、危ないのはわかってるよ。危ないから面白いんじゃないのか?」 と、彼らは、そういうふうに考える。 ブルース・スプリングスティーンは、"Blinded by the light"という歌のシメのフレーズで以下のように歌っている。 "Mama always told me not to look into the sights of the sun 「太陽を直視するな、とおふくろはいつもいっていた。 青春の暴走てやつだ。オレたちみたいな半端者は、ベイビー、突っ走るために生まれてきたのさ、とかなんとか、特にロックンロールジェネレーションじゃなくても同じことだ。若いヤツは無茶をしたがる。旧石器時代以来の伝統だ。 大人が「いけない」と禁じることには、何か良いことが隠れているはずだと、7歳児の本能はそう考える。 子どもが見てはいけないことになっている真夜中のテレビ番組に、どんな秘密の宝物が隠れているのか、それを知るまでの間、少年は未知の画面に憧れ続ける。無論、知ってしまえば、たいしたものではない。子どもにとって有害なものは、大人にとって有害でさえない。それだけの話だ。 ビールやタバコがミドルティーンにとって魅力的に見えるのは、禁じられているからだ。もし仮にビールが給食のメニューの一品として供されたら、それはただの苦い水として評価されるはずだ。ゲロマズ。あれを旨いと感じるまでには、長い道のりを経なければならない。心根がすっかり曲がり切るまでの。 では、ビールなり麻薬なりを推奨すれば事態が改善するのかというと、そんな簡単なことではない。 私が申し上げているのは、禁止薬物を若者から遠ざけるための方法論に問題があるということだ。キャンペーンを打つつもりなら、事前にその手法と効果について十分に考察しないといけない。 「やめろよ。危ないぞ」 と、打ち上げ花火を手に持って遊んでいる中学二年生に道理を説いたところで、効果は期待できない。危ないことは彼もわかっている。むしろ危ないからこそ彼はそれをやっている。度胸と男気を見せるために。 とすれば、大人であるわれわれは、彼に「この男は危険なことをやっている」という傍証を与えるべきではない。 「なーんだ、口にくわえてるかと思ったら、手持ちかよ」 ぐらい。でなければ、すっぱりと無視する。 「コワい」というメッセージはさらにひどい逆効果を生む。 「コワくなんかないよ」 という反骨が芽生えている。あるいは、哀れな自尊心ないしは虚栄心、でなければ、コワさを乗り越えないと大人になれないという強迫観念が。やっかいな逆説だ。反発しない子どもは大人になれない。赤信号を渡らない子どもは道の向こう側にたどり着けない。 誰もが、公園の滑り台から砂場に飛び降りるとか、ジャングルジムのてっぺんに立つとか、歩道橋の手すりの上を歩いてみせるとか、そういった類の、愚かな挑戦をスルーできない一時期を通過して大人になる。いや、誰もが、とは言わないでおこう。でも、男の子のうちの半分ぐらいは、無意味な冒険の記憶を持っているものなのだ。無事に大人になる年齢まで生きながらえたことを、われわれは、感謝しなければならない。十分に賢かったわけではないのに、われわれは生き延びることができた。わたくしどもは運が良かった。ありがとう。 こういう話をしていると思い出す名前がある。 「これ飲める?」 と、A藤が突然話しかけてきた。体育の授業中、教師が何かの用事(忘れ物だったと思う)で、教室に戻っていた間の出来事だ。 「……無理だよ」 と私は答えた。A藤の手の上には、どこから拾ってきたのか、正露丸の粒ほどの大きさの石が乗っていた。 「ぼくは飲めるよ」 と、言ってA藤はそれを飲んだ。 「これはどう?」 プライドというのはおそろしい精神作用だ。 「よし、一緒に飲もう」 われわれは、その石をズボンにごしごしとこすりつけて消毒(できるはずはなかったのだが)して、口に含み、そして、いちにのさんで飲んだ……はずなのだが、私は飲み込むことができなかった。恐怖を感じているからなのか、緊張していたからなのか、喉が強く締め付けられる感じがして、どうしても飲み下せなかったのである。 「どう?」 A藤が顔をのぞきこんだ。彼は既に飲み終えている。私は飲めない。しかも、涙ぐんでいる。っていうか、吐きそうだ。 勝負は、私の負けだった。 完敗。どうしてこいつはこんなにも大きい石を飲むことができるんだ? アタマがどうかしてるのか? 以来、私はいろいろな局面で、A藤に勝てなくなった。ドブ川の中のイトミミズを手づかみにする勝負や、団地裏の斜面を両手を広げて駆け下りる勝負や、動物園の七面鳥のアタマに触る勝負において、私は連敗した。いや、人生の早い段階で敗北の効用を学んだことは、結果として、そんなに悪いことではなかった。だが、それでも、小学校時代を通じて、私は、あの男にだけはアタマがあがらなかったのである 何の話をしているのだろう? ギャングエイジの少年は、「勝負」が行われていると感じた時、負けることを絶対的に忌避する。それが、どんなにくだらない勝負であってもだ。いや、むしろ、くだらない勝負であればあるほど、勝つことの重要性は増す。なんとなれば、「オレはこんなにも無謀なことに命をかけることができる」ということが、すなわち男であることの証明であるからだ。 どこかのやくざの親分さんが、言っている(「アサヒ芸能」で読んだ)。 つまり、アレだ。小学校4年生というのは、やくざと一緒なのだな。あるいは、やくざが永遠の小学生だということなのかもしれないが。 話を元に戻す。 彼女は転落したのではない。 メディアは、コントラストの強い物語を好む。 まあ、実際、われわれは、まんまと釣られたわけだが。 彼らの伝えるのりピーの物語は、異様な悲劇性を帯びているがゆえに、結果として、彼女の身辺に逆説的なオーラをまとわせるに至っている。 メディアがクスリでつかまった人間を異端視することは、時に、彼(または彼女)を「特別な人間」に昇格させる。 というのも、反抗期の文法で解釈すると、異端者は英雄と同義だからだ。その意味で、世俗権力による迫害は、犯罪者を革命家に格上げする。 「あいつは、半端じゃねえよ」 という評価は、方向を問わない。 だから、麻薬で死んだ人間は、その場で殉教者に祭り上げられる。 「妥協しないからね」 とか。 この春、太宰治生誕百周年にあわせて展開されていたイベントやキャンペーンを、私は、複雑な思いで眺めていた。 「違うだろ」 私は、そう思っていた。 「太宰先生は、いつからジェームス・ディーンになったんだ?」 無論、太宰治は才能のある文筆家だった。このことを否定しようとは思わない。 私の試算では、200人はくだらない。 なのに、太宰治はいつまでたっても特別視されている。 なぜだろう。 死んだからだ。 バカな話だ。 が、紹介されるのは、一番写りの良いあの写真と決まっている。カウンターの椅子に腰掛けて、視線を中空に漂わせているあのわざとらしい写真。 つまり、そういう対象だったってことだ。 スタイリッシュで、儚くて、頽(くずお)れそうだとかみたいに表現される、少女趣味の権化。 うん。これ以上は、言わない。既に言い過ぎっぽいし。 尾崎豊も太宰と似て、いつまでたっても過大評価されている組の芸術家だ。 実際、尾崎豊は、一通りの歌唱力を持った歌手だった。ソングライターとしても優れた作品を残している。 戦後の男性歌手を並べてみただけでも、尾崎豊と肩を並べる人間は何十人もいる。 いや、死んだ者を悼むのはかまわないのだ。 ただ、太宰や尾崎豊(ほかに、ジミ・ヘンドリックスやカート・コバーンやジャニス・ジョップリンやブライアン・ジョーンズの名前を挙げてもよろしい)の場合、生前の弱点や罪までもが闇雲に美化されている。その点が、うさんくさいと私は言いたいのである。 たとえば、太宰治の場合も、尾崎豊の場合も、その薬物依存が、才能の証であるみたいな扱いで伝説の一部になっている。 バルビツールだとか、メタンフェタミンであるとかいった言葉が、まるで、遠い宇宙の星座の名前みたいなロマンチックな名詞として連呼される。 選ばれし者のなんたら、とか。 「人一倍繊細だったから」 どこまで甘やかせば気が済むんだ? まあ、死んだ者に甘いのは、仕方が無いのだとして、だ。 なにゆえの転落とか、どこにストレスがとか、そんな詮索は無用だし、シャブ中がシャブをやる理由について、メディアの人間がいちいち精神の暗黒を忖度してさしあげる必要は無いのである。 無論、クスリでパクられた押尾先生や、シャブでアゲられたのりピーについての報道において、彼らの麻薬使用を美化するような表現が用いられているというわけではない。 むしろ、彼らの所行は、「とんでもないこと」だという、言い方で、極力、異端視されている。 当然と言えば当然だ。 でも、叱責や非難も、程度問題で、あんまりしつこいと逆に責められている側に同情が集まってしまう。 たとえば、メグミ某が 「とんでもないことですよ」 と、口を極めて非難すればするほど、のりピーの罪は脱俗化する。私にはそう思える。 メグミ某のような職業的なおべっか使いが非難することで、のりピーの罪は、むしろ純化され、ミソギを受け、物語化される。というのも、のりピーが犯した罪の恐ろしさよりも、のりピーを非難している面々の、正義をカサに着た物言いの安易さの方が、画面のこっち側から見ている視聴者には、印象深く映るからだ。 「こいつ、何様なんだ?」 と、同じようなコメントを何十回も聞かされているうちに、聞いているこっちはうんざりしてくる。コメント自体が、至極まっとうであっても、だ。 「何をイキがってたんでしょうかね。いいトシぶっころがした下り坂の半端アイドルが」 押尾先生についても、非難したり説教したり、反省を促したり更生を期待するみたいな決まり文句を並べるべきではない。ここは一番、ぜひコケにすべきだ。 「いいザマだよ。さんざんに吹きまくったあげくの案の定のゲロなわけだから」 思えば、AC(公共広告機構)がやっていた「覚醒剤は、あなたの人生を粉々にします」というキャンペーンも、完全な逆効果だった。 なぜなら、麻薬に興味を抱いている青少年の多くは、「人生を粉々にする」ことを願っている人々でもあるからだ。 このキャッチコピーを考えた人は、若い者は、自暴自棄になりがちだという事実を見逃している。あるいは、不安定な年頃の人間が、「人生を粉々にしたい」と考える瞬間の心理を理解していない。 というよりも、このコピーを作った人は、自分の人生を粉々にしたいと考える人間がいるという可能性について、まるで考慮したことさえない種類の人間であるのかもしれない。どこまでも健全で、すばらしくポジティブで、嫉妬や自己嫌悪みたいな非能率な情動をまったく経験したことさえない、国家上級試験一発合格の心根の持ち主。嫌な野郎だね。単に。 もちろん、若い人たちのすべてが「自分の人生を粉々にしたい」と願っているわけではない。あくまでも少数派だ。が、無視できない数ではある。「一瞬でもそう考えたことがある人間」ということになれば、もしかしたら多数派かもしれない。そういう頻度で、若者は、たやすく、自暴自棄になる。少なくとも私はそうだった。 「粉々になる」ということが、具体的にどういうことなのかは、人それぞれのイマジネーションに依存している。 が、クソ甘ったれた心を持っている半端で自意識過剰な若い人間は、自分の人生が「粉々になる」映像を、一種の甘い夢として夢想する習慣を持っていたりする。さよう。困った傾向だ。が、実際問題、破滅願望ほど不滅な願望はほかに無いのだ。皮肉なことに。これを克服するのは、容易なことではない。 まともな人間でも、人生の中で、半月かあるいは半年ぐらいはデカダンス趣味にカブれた一時期を持っていたりする。 私自身のことについていうなら、ええそうですとも、カブれてましたよ。たっぷり5年ぐらい。理由はわかりませんが。どっぷりと。 デカダンス趣味にカブれている若者は、退廃に憧れ、滅びることに憧れ、死に憧れている。少なくとも本人はそのつもりでいる。 が、それでも、苦境の中にある若い愚かな甘ったれた人間は、自分の煩悶に出口が無いと思っている。そして、そう考えている彼らは、やはり「人生を粉々にしたい」と、少なくとも比喩的にはそう考えている。そういうものなのだ。で、粉々になった自分と、自分の居ない世界と、自分を失って悲しむかもしれない誰かの顔を思い浮かべて、感傷的になったりなどしつつ、その安っぽい感傷がもたらすごくちっぽけな慰安を糧に、やっとのことで生きているのである。なんという無益な人生。 ぜひ、「人生を粉々に」などという、手垢のついた破滅趣味は排除せねばならない。 覚醒剤の害は、もっと、具体的な次元で、より生理的な事実として、描写されるべきだ。 ・シャブ中の肌って安い材木みたいになるよね 「覚醒剤やめますか。人間やめますか」 という問いかけも、失敗だと思う。 セリフとしてはうまくできている。でも、「人間をやめたい」と思っている若いヤツ(ヤケっぱちとか、悪魔主義かぶれとか、超人願望とか、自死志向とか)には、むしろ燃料になる。そこが弱点だ。 第一、人間でない何かになれるクスリがあるのだとしたら、私だって試してみたいかもしれない。今はもうそういう気持ちを持てそうにないが、19歳の時だったら迷いなくやってみたはずだ。 人間は人間をやめられない。そんなことは不可能だ。 たとえば、 「覚醒剤やめますか。公園で寝ますか」 ……やはりインパクトに欠けるだろうか。 「覚醒剤マンモスやばピー」 ぐらいでどうだ? リアルだと思うぞ。 |
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