31. 2012年10月14日 17:33:28
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東ティモールにおける日本軍性奴隷制 四半世紀にわたるインドネシア支配の陰で、封印されてきたもうひとつのの占領の記憶がある。それは1942年2月から1945年8月までの日本軍占領期の歴史、特に「慰安婦」という名の性奴隷にされた東ティモール人女性の体験である。 ■証言
1942年から1945年の間に慰安所はポルトガル領ティモール全土に設置された。関係者の証言や東ティモールに駐留した部隊の記録によって現在までに確認された慰安所の所在地は、ボボナロのメモ村、ウアタ村、マロボ村、オアト村、バウカウのティリロロ村、アイレウ、サメのキラス、クレディリ、アラス、オッス、バギア、アビス、ラウテンそしてディリである。 日本軍は、リウライと呼ばれる伝統社会の王や村長に命じて少女や女性を集めさせた。彼らは反抗すれば殺されると脅された。また多くの住民が日本軍の治安管理を助ける「ポムベラ」として使われた。 ◇エスメラルダ・ボエさんの話
ある日、私が兄と畑でタピオカを収穫していると、日本軍の兵士が5人やってきて、何か言いあいながら私の腕を取り、首を締め、彼らの家に引きずっていった。そこからシモムラ(Shimomura)という司令官の家に連れていかれ、そこで私はシモムラに強姦された。私はその後解放されて家に戻り、両親に自分の身に何が起きたか告げた。両親は村長に相談した。村長は両親を「逆らうと殺される」と諭した。当時私は12、3歳ぐらいで初潮もむかえてなかった。 それから夕方になるとシモムラがやって来て、私を家に連れていき強姦した。こうして約2年間私はシモムラの相手をさせられた。シモムラが去るとシモムラと同じ家にいたカワノ(Khawano)の相手をさせられた。カワノの次はハルカ(Haruka)だった。兵舎にいる一般の兵士のために女性たちが連れて来られているのも見たが、別の村の女性たちなので誰が誰かわからなかった。 性の相手をさせられる以外に農作業もさせられた。働きが悪かったり疲れて休んだりすると、その場で殴られたり、厳しい罰が待ち受けていた。私は日本の歌を憶えさせられて日本軍の娯楽のためによく歌わされた。私は3人の司令官の名前と何度も歌わされた日本の歌を決して忘れない。 東ティモールに侵攻した日本軍はすべてを破壊した。私たちの牛や豚や鶏を奪い、男や女を殺害した。多くの女性が慰安婦にされた。ティモール人はみな重労働を強いられた。農作業も木材伐採も道路や橋の建設も全部ティモール人の仕事だ。 午後、外の仕事が終わると男は家へ帰されるが、女性は慰安所で働かされた。女を求めて兵士が村へやってくることもあった。少女が家から引きずり出され、慰安所に連行され、強姦された。そうした少女の中には死んだ者も重い病気になった者もいる。強姦された後殺されて山の中に捨てられた者もいる。私とマルタがこうして生きていられるのは幸運だ。生きてこうして話ができるのはありがたいことだ 。 私の兄のひとりは日本軍に殺された。兄は逆さ吊りにされて喉を切られた。死体は埋葬されなかった。埋葬されるどころか吊るされたまま火がつけられた。なぜ兄がこんな目にあったかというと、彼は私の姉と妹を助けようとしたからだ。この姉と妹は10人以上の兵士に強姦されて殺された。彼女たちの遺体は山の中に放置された。 兵士たちは既婚女性の家にも踏み込むことがあった。そこに夫がいても気にせず、その妻を連行し犯した。夫が家にいない時間をみはからって踏み込み、その場で妻を強姦するという場合もあった。日本人は本当にひどい国民だ。既婚の女性に何の敬意も払わないのだから。残虐だよ。あるティモール人の男は日本の憲兵に協力して働いていたのに、日本軍の酒宴に妻を出すことを強要された。 私たちには着る服も与えられなかった。しかたないので米の袋を切って服をつくった。それでもその時着ていた服よりははるかにましだった。私たちの身なりがあまりにみすぼらしい時は、酒席に呼ばれても行く気がしなかった。しかしそんな時でも「お前たちは慰安婦だ。俺達を楽しませるのが仕事だろ」といわれ引きずり出された。 日本軍は私たちから何でも奪った。あらゆる食べ物を奪った。キャッサバ(いも)さえだ。日本は豊かな国だと聞いたが信じられないね。何でも私たちから奪ったんだから。キャッサバさえも。 兵士は私たちの家にやって来て、何か欲しいものを見つけると、金はあるからそれをくれといった。でも金など払ったためしはない。ひと度機嫌を損ねると厳しい罰が待っている。例えば片手に岩を持たせ片足で立たせるとか。疲れて手や足を下ろすと竹の棒で肘や膝をしたたか殴られた。 心の傷が残っているかだって?今でも誰かのおしゃべりが聞こえると「エスメラルダは日本軍の慰安婦だ」って嘲笑されている気がする。思いだす度つらくてこれまで人に話したこともない。でもしゃべってよかったよ。すっきりしたよ。シモムラたちが生きて目の前に現れたら?そうだね、思いきり殴ってやるさ。(2000年12月11日談) ◇マルタ・アボ・ベレさんの話 エスメラルダも言ったが、当時、私たちは日本軍からさまざまな労働を強制された。私たちは、橋や道路や家屋の建設のための労役に従事させられたし、家屋をつくるために必要な竹などの資材を遠くから調達し運搬しなければならなかった。 私はオアト村から温泉のあるマロボに連れて行かれた。マロボには慰安所があり、そこで働かされた。その慰安所で私は毎日10人もの兵士に強姦された。 昼は昼で畑仕事やその他の労働をさせられた。そして夜になると慰安所に戻される。マロボの慰安所で毎日10人もの男性に強姦されて、私は自分が家畜になった気がした。実際私たちは家畜のように働かされた。まるで日本軍に所有された馬だ。昼は戸外で働かされ、夜は兵士に対する性的サービスをさせられた。 あれは動物としての扱いだった。その慰安所にはいくつかの部屋があり、小さめの部屋に5人ほど、中くらいの部屋に7人ほどが入れられた。寝床と寝床の間にはカーテンなどの仕切は一切なく、他の少女たちが犯されるのを見ながらまた自分も犯された。 私たちの性器は彼らのためのものだった。まるで動物の、牛の性器のようだ。ひとり以上の男、十人以上の男に毎日使われて。十人以上の男に強姦された後はもう普通に歩けない。ちゃんと立てなくてこんなふうにしか動けない。でも昼は昼で外で働かされるんだ。私たちはいつも牛の角で作ったメガフォンで呼び集められた。「さあ出てこい。男も女も。仕事だ、仕事だ」って。 あんたたちは本当に酷いことを私にしたよ。あんたたちは強姦したんだ私を。あの時私たちの性器はすごく痛いんだ。十人以上の男にされたらもう何もできないんだよ。 もし嫌だといったら、仕事を拒もうものなら、逆さ吊りにされて喉をしめられた。怖いよ。すごく怖くて、だから行くしかないんだ。 私たち女性は神様が造られたものだ。でも日本の男たちは女性が神の創造物と考えない。自分たちだって女性から生まれたのに。母親が産んでくれたのに。どうしてこんなふうに女性を扱えるんだろう。私たちだって彼らの母親と同じなのに。 あの男たちだって、疲れれば家に帰り休息を取るだろう。私たち女だって人間なんだから疲れるんだ。男と同じ仕事を昼間して、夜は一晩中セックスの相手をしなければいけない。私たちだって疲れるんだ、人間なんだ。 仕事が終わっても家(宿舎か?)に戻って何か食べてくることも許されない。お腹がすいて死にそうだった。あまりにひもじい時、私は日本軍のために働かされているティモール人の村長に食べ物を取りに家に帰らせてくれと頼んだ。何も食べる物がないと働らけないんだ。(2000年12月11日談) 【補足/マルタ・アボ・ベレさんが慰安婦にされた経緯】
ある日、日本軍の兵士と東ティモール人のガイドが家にきて 「いっしょに行こう。キャッサバを食べに行くのだから怖がらないでよい」 と言った。日本軍のために道路や兵舎をつくる仕事をしろということらしいが、怖かった。しかし、叔母に自分が行かないと両親や叔母が日本兵に殺されるといわれ、しかたなく従った。マロボに連れていかれると、集められた他の少女たちとともに草刈りや道路づくり等をさせられた。しばらくしてそういった仕事が一段落すると、アツァベ出身のドミンゴスという男が適当な少女を選んで慰安所に連れていった。マルタも連行され約3カ月間慰安婦として働かされた。三カ月後病気になり、両親の懇願によりもとの村に帰ることを許された。) ボボナロに駐留した部隊は、1944年3月まで駐留した歩兵第47連隊の第7中隊、 1944年3月に同部隊と交代した台湾歩兵第1連隊の第6中隊、軍用道路の建設に携わった台湾工兵第48連隊などである。 ◇エルメネジルド・ベロさんの話 日本軍がバウカウに来た時、ほとんどの者が山へ逃げた。オーストラリアに避難した者もいる。私の親族にもオーストラリアに逃げた者がいる。しかし私と妻は東ティモールに残り、一旦山へ逃げた。町に戻ってくると自分の家は日本軍に奪われていた。 日本軍が駐留するようになると、彼らは「慰安婦」にする若い女性を求めた。私も日本軍に差し出すための美しい若い女性を捜さなければならなかった。命令に従わなければ殺すと脅された。若い女性を捜すだけでなく、私の家も明け渡せと命じられた。家は大きく慰安所にするのにうってつけだったからだ。家は改造され「ティリロロ慰安所」となった。 ティリロロの慰安所にいるほとんどの女性は17才から20才くらいだった。全員がバウカウ出身というわけではなく、オッスなど他の場所から連れてこられた女性もいた。また、インドネシアのジャワ島のような東ティモール以外から送られてきた女性もいた。ティリロロの慰安所には中国(台湾?)出身の女性もいた。ほとんどが独身の女性だったが、結婚しているのに無理やり夫から引き離された女性もた。ジャワや中国から来た女性たちはずっとその慰安所にいたわけではなく、2、3日あるいは2、3週間で別の場所に移された。 慰安所の女性たちは苦しんでいた。昼間は農場で働かされ、日本兵のために洗濯をし、料理をつくり、夜は性的欲求を満たすことを要求された。もし日本兵に対する性的奉仕を拒否すれば、彼女たちは拷問を受けたり、ひど暴力を受けるのが常だった。あまりの野蛮さに耐えられず逃げ出した女性もいた。 中にはうまく逃げおおせた女性もいた。しかし、例えば、ススディオという女性が逃げた時の話だが、私は罰としてひどい目にあった。ススディオは17才くらいで、褐色の肌をしたとても美しい女性だった。彼女はカイシドゥ・ポボサンというティリロロ村の出身で私が差出した女性だった。日本軍は私がススディオを逃がしたと疑った。日本軍はススディオを見つけることができなかったので、逆上し、私を尋問し暴行を加えた。血だらけになった私は馬の背に括りつけられて家へ返された。 私のいとこのアナシタシアは慰安婦にされる前、カルロス・レモスという男性と暮らしていた。彼女も日本軍の慰安婦にさせられた。自由の身になった後、二人は別れた。その後アナスタシアは今日まで結婚せずひとりで生きてきた。彼女が二度と結婚しなかったのはこの時経験した心の痛み故だ。 ブランカという女性はポルトガル人ピレス中尉の妾のひとりだった。ピレス中尉はかつてバウカウの警備隊長だった。彼は日本軍侵攻時に一旦オーストラリアへ避難したが、その後東ティモールに潜入し、しかし結局日本軍に捕らえられてディリに護送された。ピレス中尉が逮捕されるとブランカは日本軍に連行され慰安婦にされた。 日本軍のある軍曹の「妻」にされたエルダ・サルダーニャは既に亡くなっているが、その軍曹との間に娘がいる。その軍曹の「妻」にされる前、彼女は結婚していた。彼女の夫は日本軍に殺害されていた。(2001年1月2日談) 【補足/エルメネジルドさんの記憶にある慰安所設置の責任者の名前及び階級は、捜索第48連隊所属のある将校の名前及び階級と一致した。さらにエルメネジルドさんは多数の将校写真の中からその人物を特定した。】 ◇クレメンティーナ・カルドゾさんの話 私はスアイのティリマールのワラ村の出身だ。ある時、日本軍の命令を受けたジョン・オリベイラというリウライ(村長?)の指示で、村の者は男性も女性もズマライに行かされ、軍用道路建設の人夫をさせられることになった。ズマライでは、村の男性と女性は分けられ、別々の住まい(小屋)をあてがわれた。日本軍の兵士は女性たちの住まいから気に入った女性を次々とバラック(兵舎)に連行し、性の相手をさせた。これらの女性たちは昼間はその他の村人とともに肉体労働に従事させられた。 当時、私は17、8歳で結婚していた。私も軍のバラックに連れていかれ、慰安婦をさせられた。そのバラックにはたくさん、そう60名ぐらいの少女たちがいた。私は一度女性たちの小屋に戻された。二度と連れていかれたくなかったので、夜中に密かに男性小屋へ行き、夫に事情を打ち明け、助けを求めた。夫はその時まで私の身の上に起きていたことを知らなかったので、非常に怒った。 その後夫は女性小屋までやってきて、日本軍の兵士が私を連れていこうとするのにはむかった。兵士が夫に向かって武器を振り上げたのを見て、私は夫をかばおうとして抱きついた。兵士は抱きついた私ごと夫を殴った。夫は死んだ。 私はこの時に右手首を骨折した。大怪我だったので、その時は兵舎に連れていかれなかった。傷は薬草で癒したが、私の右手首は折れたまま二度と動くことはなかった。その後も日本兵は私を慰安婦にしようと連れにやってきたが、 「夫が死んだのだから命は惜しくない。連れていくなら死んでやる」 と叫び、抵抗し続けた。夫の死後、私が慰安婦として働かされることはなかった。私の知るかぎり、自分の意思で慰安婦になった女性などいないし、また女性たちに報酬など一切支払われていない。 (2001年3月26日談) ◇リム・ファ・ニエさんの話 私はアイリウの出身だ。アイリウには日本軍の中枢があった。ある日、中国人のポンベラが家にやってきて日本軍のために働けといった。14歳か15歳の頃だった。 母親が死んでから父親は病気がちだった。それから二年間は飯炊きとして働かされた。この時未婚の少女が3人とティモール人の男性3名がいっしょに働いていた。ポンベラが来た時自分はまだ幼かったが、ポンベラたちは 「しばらくすれば使いものになるだろう」 と言った。二年たつと、慰安所(小さなホテル)に移された。その慰安所には中国人の少女だけが集められていた。アイナロやボボナロ出身の女性もいた。アイナロ出身のある女性は、日本軍によって夫を殺された後、連行されたと言っていた。 慰安所で私はハナコと呼ばれた。アイリウは軍事拠点でアイリウの兵営にはヘリコプター、タンクその他様々な兵器・機器が置かれており、兵士は夜間それらの警備を行なうため、私たちが慰安所で兵士の相手をさせられたのは朝から夜までだった。相手をさせられた兵士の数は1日20人ぐらいだったと思う。仕事が終わると立って歩くこともできなかった。兵士はコンドームを着用していた。性病検査はなかった。 賃金は一切支払われなかった。すごくつらかったが逃げようとは思わなかった。そんなことをしたら親が殺されると思った。ある中国人(英国人との混血)は娘を差出すのを拒んだため殺されたという話を聞いていた。私が解放されたのは日本軍が撤退する時だった。 その後結婚したが、ある時夫は娘と自分をおいて逃げた。夫には自分が慰安婦にされたことを話していないが、夫はそのことを誰からか聞いて知っていたのかもしれない。夫が逃げたのは自分が慰安婦だったことを知ったためだと思う。 何か、あんたの祖父(だったかもしれない男たち)が戦争中ここでひどいことをして、その孫がその話を聞きに来ているっている感じだね。(2001年3月27日談) ◇ガブリエル・ラランジェラさんの話 私はサメ県バブル村のある慰安所で警備長だった。バブル村には慰安所がみっつあった。慰安所には毎日担当の軍人がやって来て「女たちを清潔にしろ」と私に命令した。私は部下に命じて女性たちを水浴びさせ、よごれがないかチェックさせた。その軍人はこういう時にも現れ、慰安婦たちの身体を検査し、例えば足の指に泥がついたままだったりすると私たちを叱りつけた。 一日の終わりには女性たちの部屋の床は使用済みのコンドームでいっぱいだった。私たちは毎日その掃除をした。寝台の間に仕切はなかった。慰安婦たちは穴のあいたボロボロの服を着ていた。いくらさがしても布らしきものは穀物袋だけ。女性たちはそれらを利用して服を縫った。女性たちへの報酬はなかった。もし彼女らが金をもらってたら、あんなボロを身にまとったりしないだろう。 日本軍の将校は村の女性を気に入ると、その女性が既婚者でもかまわずに、性欲を満たそうとする。ある女性が所望された時、その夫婦は困ってリウライに相談した。リウライはその女性を自分の娘だと偽って、その将校とかけあったが、無駄だった。言うことを聞かなければ妻も夫も殺すと脅された。結局、その将校はその女性を思いのままに扱い、事が済むと家へ返した。 慰安婦たちに食事は支給されなかった。だから親が食料を運んだり、女性たちが食料をもらいに家に戻ることもあった。だからといってそれが逃亡の機会にはならない。女性たちは自分たちが逃げたら身内にどんな害が及ぶか理解していた。逃げ切れないことも知っていた。あの状況で日本軍の意向に逆らえる者などいなかった。(2001年3月30日談) http://www.asahi-net.or.jp/~ak4a-mtn/news/quarterly/number3/sexslavery3.html
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