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南京事件隔たり埋まらず 日中歴史共同研究:報告書を公表
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/377.html
投稿者 Samurai 日時 2010 年 1 月 31 日 22:13:37: DXbkN3qim0kGc
 


日中両国の有識者による「日中歴史共同研究委員会」は31日、報告書を公表した。

1937年の南京虐殺事件について、日中双方は虐殺行為に及んだ日本側に責任があるとの認識では一致したが、犠牲者数を巡って中国側が「三十余万人」、日本側が「20万人が上限」と主張するなど、近代を中心に歴史認識の違いが改めて浮き彫りになった。

報告書は「古代・中近世史」「近現代史」の各章で、日中双方の委員論文を掲載。

ただし、「天安門事件」(89年)などを含めた第二次世界大戦後の現代史部分は、国内世論への影響を懸念する中国側の要請で非公表とされた。

報告書で中国側は、南京虐殺事件について「(第二次大戦で日本が)敗戦後、極東国際軍事裁判で、日本国民は初めて日本軍による暴行の真相を知った」と批判。

同裁判と南京国防部軍事裁判所の判決などを基に「被害者数は延べ三十余万人」との従来の見解を示した。

これに対し、日本側は「20万人を上限に4万人、2万人などさまざまな推計がなされている」と反論して、溝が埋まらず、両論併記された。また日本側は、犠牲が拡大した「副次的要因」として「中国軍の南京防衛作戦の誤り」などを指摘し、引き続き検証作業が必要との認識を示した。

1937年の盧溝橋事件では、中国側が「偶発性があるかもしれない」と、一部歩み寄る姿勢も示したが、「歴史の推移からみれば、必然性も帯びている」と、日本の侵略計画が一貫していると批判。

日本側は、両国が1941年の太平洋戦争開戦まで宣戦布告を避けたことを挙げ、紛争解決に努力したものの関東軍などに押し切られたとの認識を示した。

◇ことば・日中歴史共同研究

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝で日中関係が悪化したことから、06年10月、安倍晋三首相と胡錦濤国家主席が首脳会談で合意、同年12月に始まった。

日中各10人の有識者で研究委員会を構成。報告書は、近現代史の戦後部分を除いた549ページが公表された。外務省ホームページでも閲覧できる。
 
◇戦後史部分が非公表に……中国側が強く要請

31日に公表された初の日中歴史共同研究報告書は、中国側の強い要請で戦後史部分が非公表となり、両国の歴史認識の溝を埋めるために始めた事業の限界と複雑さを露呈する結果となった。

一方で、中国側の論文には、中国共産党の役割を軸とする革命史観から脱却して実証主義的に記述する試みもみられ、宣伝色の強かった歴史研究の変化の兆しもみられた。

研究成果は当初、日中平和友好条約締結30周年に当たる08年中の発表を目指したが、1年以上遅れた。

ある日本側研究者は「現代史部分の認識の差が原因。

天安門事件の評価など、共産党指導部の正当性を揺るがす問題に触れることを中国側が恐れた」と指摘する。

論文執筆過程の討議要旨の公表も見送られた。

再三の合意不履行は、歴史研究を「愛国教育」の重要な柱と位置づける中国政府が委員に圧力をかけているとの見方も出ている。

両国は第2次共同研究として継続することで一致したが、両国の国内世論が今回の報告内容をどう受け取るかは未知数だ。日中外交当局者は「継続には双方の国民感情の安定が不可欠」と指摘する。

中国国内の対日世論は、共同研究のきっかけとなった反日デモ(05年)当時よりは好転している。だが、国内に遺族が生存する南京虐殺事件で日本に譲歩したと受け取られかねない記述は不可能だ。

南京虐殺については、犠牲者数の根拠だけでなく、虐殺や強姦(ごうかん)、略奪の実態を詳細に描いた。

細菌戦を展開した731部隊について簡単に触れた程度なのとは対照的で、日本国内に虐殺自体を否定する意見が存在することを念頭に置いたものとみられる。

中国側の革命史観にとらわれない記述で注目されるのは、抗日戦争での共産党と国民党との関係性だ。

「国共両党の間にいろいろ摩擦が起きているが、両党が協力して日本に抗戦する大局は一貫して変わらなかった」と記述した。

中国では中台関係改善の流れを受け、抗日戦争での国民党の役割を見直す動きが進んでいる。

報告書は、国民党が中国を代表して行った列強との交渉や当時の国際情勢にも多くの紙幅を割き、日中戦争をより広い視野からとらえている。

日本の敗戦についても「歴史の転換点」と指摘し、「平和発展の道を歩み出した」と評価した。これは日本の「軍国主義化」を警戒する中国の若者を中心とした「愛国世論」とは異なっている。

だが、こうした歴史研究は国内で論議を呼ぶ可能性もあり、革命史観に基づく歴史教科書や大衆向けドラマに反映されるには、相当な時間がかかりそうだ。
 

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コメント
 
01. 2010年1月31日 23:54:48

虐殺は昭和天皇の財宝略奪をカモフラージュする為だったみたいだね.
問題は被害者の人数ではないんだ:


南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。

南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。

そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。 そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。

あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm


昭和天皇の財産として戦後発表された分だけでも、莫大な額である。貧乏だった孝明天皇の子(?)の明治天皇が即位してから、三代、80年足らずでどのようにしてこれだけの財をなすことができたのか、ずっと疑問であった。その一つの解答がここにあるのかも知れない。

赤間剛の「昭和天皇の秘密」―地獄でさまよえ天皇裕仁―という本から引用する。

天皇家の財産が国民の前に明らかにされた時、その莫大さに国民は驚いていた。

土地 135万町歩余 3億6000万円余
木材 5億6000万石余 5億9000万円余
建物 15万坪 2億9000万円余
現金 2400万円余
有価証券 3億1000万円

合計 15億9000万円余

評価額は戦争直後の標準によったが、その後の評価では660億円以上とされている。昭和36年の物価は最初の評価の500倍以上にあたるから総計は8000億円以上に達すると思われる。現在の価格では数兆円を軽く超えるものと言えよう。最初の評価の基礎は、土地一反が26円余という当時でも時価の十分の一、木材は一石一円で百分の一という不当に安い評価である。この評価は政府や宮内省が行ってGHQや世界の注目をまぬがれようとした小細工である。
 
土地の135万町歩は日本の面積の3%以上に当たる。5億6000万石の木材は日本全林野の8%に当たる。有価証券では配当金だけで年800万円もあった。天皇家は日本最大の地主であった。日本最大の大ブルジョワであった。

西洋白人と同じように、植民地から搾取強奪することにより巨万の富を蓄えたのだろうか。また、あの戦争で死んだ日本人310万、アジアの人々2000万人に対して、昭和天皇は責任がないのだろうか。
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/785.html


マスコミ報道等では、第二次世界大戦は日本の軍部が独走し、天皇は仕方なくそれに引きづられた・・という事になっている。そのため戦争中首相であった東条英機は戦争犯罪者として処刑され、天皇は「罪を問われなかった」という事に「なっている」。1944年7月20日、天皇の東条英機あての勅語。「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下に十分職務を果たした。」・・()内部、筆者の注。ここで天皇自身「が」主体となって戦争を行っている事、つまり軍部に引きづられて戦争が行われて...


天皇が命令し.作った731生物兵器部隊
第2次世界大戦中、コレラ、ペスト等の生物兵器を中国人に対し注射し、その死亡までを観察する残虐な人体実験を繰り返していた日本陸軍731部隊の隊長、石井四郎は1941年、天皇と会いその「功績」をほめる「お言葉を頂いた」と証言している。日本軍が生物兵器を開発し、残虐な人体実験を行っていた事は天皇の命令であり、天皇は「自分の命令を実行する石井を賞賛」していた。中国人に対する残虐な人体実験は天皇自身が行ったものである。

郡司陽子「証言 731石井部隊」徳間書店
http://alternativereport1.seesaa.net/pages/user/search/?keyword=%93V%8Dc


日本の昭和天皇ヒロヒトは、敵国であった米国の兵器を日本に輸入し日本軍部に売り付け、その利益を私的に「着服」し、スイス銀行に隠し蓄財していた。そのスイス銀行の口座はヒトラーと天皇ヒロヒトの「共同名義」の口座であった。

 ヒトラーと昭和天皇ヒロヒトは、戦争を起こし兵器を密売し、共に「私腹を太らせていた」。

ディロン社の代理人として、米国製兵器の密売を行っていたのが昭和天皇ヒロヒトである。ドイツにおけるヒトラー、日本における昭和天皇ヒロヒトの役割は同一であり、従って兵器密売のスイス銀行の「決済口座」がヒトラーと昭和天皇ヒロヒトの「共同名義」になっていた。

 第二次世界大戦末期、ヒトラーは自分の資産と部下を続々とアルゼンチンに逃し始める。天皇ヒロヒトも戦争末期、長年の武器密売の利益を金塊の形で、アルゼンチンの銀行に大量に密かに輸送し隠し預け始める。

 戦争末期、中国に残された日本人の多くは、日本に帰る船が無く中国、朝鮮で殺害され、女性は強姦され殺害され続けていた。天皇はその日本人を全員「見殺し」にし、船舶を「独占」し、武器密売の利益を金塊の形でアルゼンチンへ大量輸送し続けた。
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1945年.日本の敗戦が決定的になると.天皇一族は.この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ.海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて.スイスに850万ポンド.ラテンアメリカに1004万ポンド等.広島.長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中.天皇は自分の蓄財を海外に次々と.逃がす事に専念する。

この問題を調査したマーク・ゲインは.海外に天皇が逃した蓄財は.累計で5〜10億ドルに上る.としている(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。

広島.長崎に原爆が落とされ.膨大な死傷者が出.戦後.日本を.どのように再出発させるか.を考えなくてはならない時期に.天皇は.ひたすら自分の蓄財を守るため.数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは.莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され.アルゼンチンの銀行.そしてスイス銀行まで遠路.運搬されていた。中国では.日本に逃げ戻るための船舶が無く.逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数.強姦殺人され.子供が殺害されている最中.天皇は貴重な船舶を独占し.自分の金塊を遠路.アルゼンチン.スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く.日本人の事など.何も考えていない事は.明白である(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」 マルジュ社)。

 なお.天皇が.第2次大戦中.「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の.天皇の共同経営者が.CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは.何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

 天皇は戦後.このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り.CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に.港区の不動産を次々に買収し.またハイテク産業に投資し.莫大な蓄財を.さらに莫大に膨れ上げさせて行く。

天皇は神でも「象徴」でもなく.単なる金儲け主義の.金融ビジネスマンである。

そして.ここでも.「何故か」.CIAと天皇は「共同経営者」である。

 天皇は.1940年代初頭から.スイス銀行に少しづつ蓄財を「移し」始めるが.ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが.虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し.ナチス・ヒトラーの口座の中に.「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい.そこに天皇一族の蓄財を隠していた。天皇と.ヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する.略奪ビジネスのパートナーであり.ナチスと天皇は一体であった(アダム・レボー「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ・・また.濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。

 1924年.米国は「排日移民法」という法律を成立させる。日米関係は.まだ険悪ではなく.日本から.余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し.それを禁止した法律であった。

 天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の.「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に.1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については日本を憤慨させるに十分なものであった。」

 この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性を.だまし.売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した.それに憤慨.激怒し.米国と戦争を始めた.と天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は.神でも.「象徴」でも無く.人間のクズの集団である。
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1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。

いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。

 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。

 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。

 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。

 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】

 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4)

 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5)


 1941年にフィリップ・ペタン内閣は日本がインドシナ半島北部を占領することを認めた。近衛文麿は『交渉による平和』を望んだが裕仁の説得に失敗し、辞意を表明した。宣戦布告の決意をし、天皇は東条将軍を首相に指名した。彼は満州で組織的な略奪を行った岸の一党【原文ではclanつまり悪党集団:訳者】の手下であった。

 パールハーヴァーの『だまし討ち』(6)は、東南アジアにおける日本の好戦性を解き放つシグナルであった。日本はタイ、スマトラ、ビルマに侵攻し、グアムとホンコンをその手にした。さらにマッカーサー将軍をフィリピンの領地から追い出した。新たに付け加えられた領地は憲兵隊によって組織的に略奪された。秩父宮はシンガポールに黄金の百合の総合本部を置いた。専門家たちが目録をつくるためにそこにすべての分捕り品が集められた。

 フィリピンでは欧米の銀行が黄金の百合のエキスパートたちの第一目標であったが、彼らはフィリピンの財宝を奪い取って、筆頭株主が裕仁その人である横浜正金銀行【原文は英語Yokohama Specie Bank:訳者】、台湾銀行、そして他の国有銀行の財産にしたのである。その黄金の一部は戦争の経費に充てられた。スイス、ポルトガル、アルゼンチン、そしてチリの銀行が洗浄に使われた。

 憲兵隊と黄金の百合の実行者たちが奪った富はシンガポールの集中させられ、最終目的地である日本に輸送されるためにマニラに運ばれた。

[黄金の百合からブラックホールの資金へ]

ミッドウエイの戦いの後、東南アジアにおける軍事的な力関係は米国に有利に傾いた。日本は海上輸送の支配権を失った。裕仁と帝国の第一人者たちは帝国の敗北を予想し始めた。

 それ以来、公式には富士山麓で結核療養中であることになっていた秩父宮に率いられてきた黄金の百合作戦は、マニラで足止めを食らっている戦争の分捕り品を救うことに必死になった。秩父宮はまず病院船を使って金を輸送し、その後その金を日本の山地に作られた地下壕に溜め込んだ。

1943年には、米国が効果的な海上封鎖体制を確立したため、そのような方法は取れなくなった。財宝はマニラの波止場で山のようになりだした。秩父宮はそこで地下壕建設のための特殊な技師の集団を作り、分捕り品を地下に隠す作業を始めた。マニラではかつてスペインの町であったイントラムロスの地下が使用され、巨大な収容能力を持つ場所を提供できた。

 品物を慎重に移送できる一つの通路が波止場とイントラムロスの間を直接に結びつけた。秩父宮は歴史的な場所や教会、大学など、爆撃がほとんど無いあらゆる場所をつなぐように選んでいった。

 マニラの北で竹田宮が洞窟を使って地下壕の網の建設を監督した。専門家たちが恐ろしいほど効果的な大量のワナの兵器を仕掛けた。爆発物、毒ガスのカプセル、水や砂を使ったワナ。南京虐殺の実行者の息子であるもう一人の皇族の朝香宮孚彦【原文ではTakahitoとなっているが「たかひこ」の誤り:訳者】親王と、シンガポールのヒーローであり差し迫った米軍の攻撃に立ち向かうためにフィリピンに派遣された山下将軍が、この地下での作戦に加わった。技師たちと奴隷たちは組織的に生きながら地下に埋められた。

 マッカーサーがフィリピンを再征服し始めたとき、皇族たちは急いで未だ地下に入れることができなかった財宝を隠そうとした。黄金を積んだ船が船員を乗せたまま沈没させられた。日本の敗戦はマニラ市民の虐殺と占領を終わらせたが、その後に皇族たちは潜水艦で逃亡した。

 1945年から米国の諜報機関が黄金の百合の存在に気付いた。諜報員であるジョン・バリンジャー(John Ballinger)は、漁民に変装して黄金をいっぱいに入れた箱が病院船に積み込まれるのを観察することができた。マッカーサーは彼のライバルである山下を逮捕し、彼の腹心をこの日本の将軍のお抱え運転手である小島老人に対する尋問官とした。


そのセベリノ・ガルシア・サンタ・ロマナは山下の行動に関する膨大な情報を手に入れ、隠匿場所の正確な数をつきとめることができた。『サンティ』【サンタ・ロマナの別称と思われる:訳者】はこうして『山下の財宝』の守り手となった。彼は、OSSの元局員であり最近までウイロウビィ(Willoughby)将軍(8)の特務機関G−2と協力していた謎の男エドワード・ランドセイル(Edward Landsale)(7)が作戦の指揮をとるまでは、ずっとマッカーサーの命令の下にとどまった。

 トルーマン大統領にこの件が任されて以来、掘り出された分捕り品はブラック・ホールと呼ばれる対共産主義の戦いの資金として使用されることになった。あるロウズベルトの顧問に認知されたこの計画は、ドイツ、イタリア、日本によって盗まれた黄金を親米政権の財源として使い、次に、『危険なアカ』の脅威にさらされる多くの『民主国家』の深奥でこの資金により選挙を操作することから成り立っていた。

 ロバート・アンダーソンの助けを受けてあるスペシャリストが資金を洗浄した。サンティが探し出した黄金は42カ国の170の口座に納められた。CIAの銀行口座ネットは、東南アジアから盗まれた富を隠し、金の値段を米国の経済的利益にとって都合の良いあるレベルで維持することを可能にした。(9)

財産は日本に戻ってくる

 米国当局によって押収された分捕り品は当初3つの異なった財源を潤した。四谷資金は、マッカーサーの秘密の右腕であるG-2の長官チャールズ・ウイロウビィの活動を支えた。彼はフランコ将軍とファシスト警察の手法の賛美者である。第2の資金は、日本におけるニュルンベルグ裁判に匹敵する東京裁判の判事ジョセフ・ケーナンの名前が付けられたのだが、非常に明確な機能を持っていた。共産主義に対するマッカーサーの戦いの同盟者へと変身した帝国のメンバーを免責するために証人たちを買収することだった。


東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。

 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。最も戦略的な資金は、疑いも無くM資金である。それは日本で共産主義者や社会主義者が権力を握ることを妨げる戦いのために運用された。戦後、つかの間の社会主義政権は、M資金投下のおかげで米国好みの吉田茂によって、失墜させられたようである。この資金は敗戦日本の公式な歴史に出資するためにも利用された。

 児玉誉士夫が「私は敗北した」という文章を出版したのはこれである。この本は、CIAを通してM資金をつぎ込まれたものであるが、笹川良一や岸信介などの将来の日本の大物、つまりマッカーサーによって称揚された国粋主義者たちを免責するのに役立った。

 1951年に講和条約が締結された。その第14条で、日本はその犠牲者に対して補償するための必要な手段を整える必要のないことが規定された。ブラックホールへと転換された黄金の百合は秘密のままにしておかねばならなかった。

 1952年以来、CIAと日本の特務機関に率いられた一つの組織がM資金を担当した。この資金は、満州での略奪の責任者であり東条の戦争内閣の閣僚であった岸信介の首相選出を許した。アイゼンハワー政府はこの極端な反共主義者である戦犯を好んだ。

 M資金は、田中角栄、竹下登、中曽根康弘、宮沢喜一などの多くの首相に財源を提供した。田中は、ニクソンがM資金の引出権を彼に約束したのだが、これを選挙資金と汚い工作のために頻繁に運用した。
 黄金の百合の一部は日本でこのように投資され、自由民主党の母胎から誰が将来の首相になるのかを決める者たちによって浪費させられた。

http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html


02. 2010年1月31日 23:58:45

昭和天皇が日中戦争を起こした目的

【満州帝国と阿片】日の丸はアヘンのトレードマーク

北朝鮮による覚せい剤密輸事件が新聞を賑わしているが、そんなの大日本帝国が侵略地中国において行ってきた阿片ビジネスと比べれば、カワイイもんだ。

以下、久保井規夫著『戦争と差別と日本民衆の歴史』(明石書店)より。

ケシ類未熟果実に傷をつけて滲出する乳液を乾燥乾固したものが阿片だ。阿片に含まれているモルヒネは、鎮痛・鎮静・催眠・快楽をもたらす薬剤となる。末期癌患者に使用されることが多い。しかし、連用すると中毒となり、常用しないと禁断症状に苦しむこととなる。モルヒネにアセチルを化合したのがヘロインで、薬効・中毒作用は、更に強くなる。中毒に陥ると、増量して使用しないと禁断症状を起こして死亡するし、常用すれば衰弱して早死にする恐ろしい麻薬だ。この阿片の中毒作用を利用して儲けようとする悪いやつは後を絶たない。国家自体が関わって中国へ密輸したのが、オランダとイギリス、そして我が日本なのだ。

1840年、イギリスは、中国(清王朝)への阿片密輸を禁止された事に貿易の自由を妨害したなどと恥ずべき口実で阿片戦争を仕掛けた。中国は敗北し、イギリスの阿片の毒牙はますます中国民衆を蝕んでいった。中国の弱体をみて、欧米列強は不平等条約を強要し、清王朝は阿片亡国・植民地化の危機に陥ることとなる。
麻薬中毒の恐ろしさに、1912年にハーグ阿片条約、1925年国際連盟によるジュネーブ阿片条約が結ばれたが、欧米の帝国主義者たちは自国への阿片の弊害を防いでも、中国への阿片密輸は続け、それに日本も加わっていった。中国の阿片中毒者(隠者)は増加し、消費される阿片は900万貫(当時5億円)に上った。輸入額を減らそうと中国国内のケシ栽培を認めたが、かえって阿片中毒者を増やすこととなった。1912年、辛亥革命後の中華民国による阿片禁止も、軍閥との抗争や内乱で進まず、そこへ日本の侵略が始まってしまった。

日本は、阿片戦争に驚き、当初は、ケシの栽培や阿片の輸入を厳禁した。しかし、すぐに、医薬品としての鎮痛・麻酔剤としてモルヒネ・ヘロインが必要となり、日本は、阿片の製造・売買や輸出入を政府の許可・専売制とした。
やがて、中国侵略に伴い、中国の阿片問題に介入していくのである。日清戦争後に台湾を領有したことで、日本は阿片中毒者対策で阿片を必要とし、ケシ栽培と阿片輸入は本格化することとなった。

大阪府三島郡福井村の二反長音蔵(にたんおさおとぞう)は、台湾で必要な阿片の殆どを輸入に頼っている貿易赤字を改善するため、内務省の後藤新平の支持で、ケシ栽培に取り組んだ。モルヒネ純度の高いケシの品種改良に成功して、大阪府・和歌山県・京都府・岡山県・福岡県の医薬品原料の商品作物として、農村の収益を高めた。

さらに、遼東半島・山東半島・満州そして上海租界地では、日本陸海軍の特務部が、治外法権の特権を利用して阿片の密売を公然と進めた。医薬品や中毒是正の目的とは無関係となり、中国人相手の阿片・麻薬販売の利益を得ることと、中国民衆の阿片中毒による弱体化が主目的となったのである。このとき陸海軍の手先として活躍したのが笹川良一、児玉誉士夫たちだ。戦後右派の黒幕となり日本を動かしていく曲者たちは阿片で莫大な財産を手中にする。自民湯なんぞ阿片の金で動いていた麻薬党なのである。

拡大した市場は、もはやイギリスの阿片密売の比ではなく、大規模なものとなっていった。植民地朝鮮半島でも、中国への阿片輸出のため、3万〜8万人が従事して、毎年、約8千haのケシを栽培し、毎年、約4万キロもの阿片を製造することとなった。

阿片・麻薬の需要は増大し、三井物産と三菱商事が、ドイツ・イラン・トルコ・シンガポールの阿片・麻薬を一手に輸入していた。英仏によって、中国華僑の活躍した東南アジアにも阿片の弊害は及んでいったのだ。実に欧米に成り代わった日本は大東亜阿片圏と言うべき阿片の毒牙をむき、三井・三菱の阿片船がアジアを往来した。

三井物産は上海へ、1938年4月に約3万トン、1939年1月に約7万トンもの阿片を運び込み、南京維新政府の財政を助けた。三菱商事は三井の3.5倍もの量を1939年2月に満州の大連へ運び込んでいる。

南満州進出、21カ条要求、満州事変と中国への日本の侵略は拡大、さらに日中戦争へと突入する。日本は、中国の占領地に満州帝国を始めとする傀儡政権を次々とデッチあげていく。

これらの傀儡政権や親日の軍閥は、日本軍の擁護の下に、阿片を政府・地域の許可・専売制として、阿片・麻薬の利潤を日本軍と分け合った。傀儡政権の満州・内蒙古では堂々とケシが大量栽培されていた。

満州帝国では、約3000万人が20万貫の阿片を吸引し、毎年4万貫の阿片が輸入され、約7万町歩のケシ栽培が行われていたと言われている。
阿片王と呼ばれた二反長音蔵は、満州の長白・臨江・安図へ3回、また満州の熱河省へと指導に赴いている。長白市だけでもケシ栽培は216万坪にもなっていた。中国軍閥の張宗昌(阿片将軍)は日本軍と組んで。吉林・黒竜江省で50〜60万貫のケシ栽培を扱ったという。

内蒙古の山西・チャハルの傀儡政権「蒙古連合自治政府」でも阿片が製造され、張家口には阪田組のヘロイン製造工場があった。阿片・塩・鉱山物が政府の重要な財源となっていたのだ。

日本の占領地経済をまとめていた興亜院が阿片・モルヒネを製造・輸入・販売を管理する組織となり、中国民衆を阿片漬けとしていったのだ。
日本軍の占領地で、日の丸を掲げて商人が阿片も販売したため、中国人が、日の丸を阿片販売の商標だと思っていたという笑えない話も残っている。

さすがに、日本政府による阿片販売は国際問題とされ、国際連盟の議題となっている。

『天津の日本人居留地は、今や世界のヘロイン製造、及び阿片喫煙の神経中枢として知られている。洋行あるいは外国商会名で経営される阿片あるいはヘロイン魔窟の数はまさしく千を超えている。

しかのみならず、白色麻薬を公然販売するホテル店舗、その他の建物が数百ある。……中国人・ロシア人及び外国人が汚れた板の上に横たわっており……魔窟の第1室には朝鮮人の女が。ヘロインと不純物とを混合する仕事に忙しい。……注射は汚い注射器で、時には自製の物でなされる。針は決して洗ったり、消毒したり、取り替えることはない。

梅毒が自由に針を介して一人の阿片常用者から他の者へ蔓延する。私は、胸一面が腐って壊疽のような肉塊をなしており、拳全部を差し込むことができるような穴が体にある阿片常用者を幾人も見たことがある。こんな腐敗しつつある辛うじて生命を保っている死体に、麻酔剤の注射器を次から次へと差し込むのである。(国際連盟阿片諮問委員会議事録よりエジプト代表ラッセル・パッシャの陳述)』

なんとも酷い、日本による阿片汚染の実態である。これが大東亜共栄圏の実態である。

シンゾーの祖父岸信介は1936年10月に満州国国務院実業部総務司長(満州国における行政機関。同国は議会を持たなかったため、国政の最高機関であった)に就任。満州時代に関東軍参謀長の東条英機や日産コンツェルンの総帥鮎川義介ら軍部や財界要人と関係を結んでいった。阿片による莫大な金が岸に動いたことは容易に想像できる。
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/347.html


03. 2010年2月01日 00:31:36
>01
>02

お決まりの、反天皇・南京事件用プロパガンダ拡散記事のペーストご苦労様でしたぁ。

因みにご紹介頂いた著者は、極左工作員という事は国民周知の事実ですのでお気の毒さまです。

もう二つ、三つ貼り付け来るかなぁ?

ちなみに、貴方は日本国民ではないので、「我が日本」という記述はご遠慮ください。

それでは、またの貼り付けお待ちしております。

自国民を1000万も2000万も殺戮して涼しい顔をしている時代遅れ悪魔覇権主義国家、大中国王国には、経済でも、盗みでも、法螺でも、殺しでも我小日本は叶いませんね。

参りましたぁ!


04. 2010年2月01日 00:53:36
噂なんだけど〜そろそろロス茶と中共で、中国大陸分割統治するんだってぇ!

インテリ残して、貧困層だけを日本に送り込むんだってネ。

民主や自民の、石屋とロス茶の攻防が日本で繰り広げられてるから、もう少し待ててネ。

ロス茶が勝つように中国も応援しないと!

アメリカこけたフリさせて、そこからもお金を吸い取るんだってね!

日本人の一部で、アメリカは危ないから今のうちに攻めろなんて思ってる間違った人もいるみたいだから、まんまとハマってアメリカと仲たがいするから、さらにやりやすくなるネ!

もっと日本のマスコミ使って工作しないとぉ、駄目じゃない。

日本国民をもっと分断しなきゃ。

ちなみに、中国の友人が移り住んできたら、みんな洗脳して対中共義勇軍なんか作っちゃおうと思うんでごめんネ!

意外と日本人には人たらしが多いから気を付けてねっ。

あと、もっと自衛隊にも工作しなきゃ。石屋の勢力がまだ強いよ!

あっ、どうせ大御所同士体よい所で手を打つから心配いらないんだね。

ごめんごめん。

やっぱりロス茶と石屋とタッグ組んだ中国にはかなわないゃ!


05. 2010年2月01日 01:46:03
>3
追加で軍事力もだ!

06. 2010年2月01日 02:01:28
>01・02は
英国ネット工作機関オルタナティブ通信、信者でしょう。
このてあいが多くて困る。

07. 2010年2月01日 02:28:51
1947年の南京軍事法廷で起訴され、死刑の判決を受けたのは、谷寿夫中将、田中軍吉大尉、向井敏明少尉、野田毅少尉で、中島今朝吾中将は裁かれてないのではありませんか。

中島中将の経歴を調べましたが、1939年に予備役に編入された後の事が分かりません。1945年10月に亡くなっていますので、南京軍事裁判で起訴されてないと思います。

南京軍事法廷にて東京で逮捕され南京で処刑された,谷中将のほかに、中島,末松中将も処刑されたと何かの文献にありましたが、貴殿が言われる如く、中島中将は1945年に病死しているのなら、1947の法廷で裁かれる訳がありません。

他に処刑された方は、一般戦争犯罪のBC級で裁かれたものと思います。

アジア各地47箇所で軍事法廷が開かれ、1000名の日本人(軍人、一般人)が処刑されています。

以上の事から、中島今朝吾中将は処刑を免れるため、南京虐殺日記を捏造させられたと言われている。


08. 2010年2月01日 10:33:49
07. 2010年2月01日 02:28:51
あなたは認めていないようだが、南京事件そのものを存在を日本も認めているのでは。そして「日中双方は虐殺行為に及んだ日本側に責任があるとの認識では一致した」ことの方が2〜20万人という大変な虐殺数より、歴史認識として重要だ。
 
 「中島中将が処刑を免れるため、南京虐殺日記を捏造させられたと言われているそうだ」が何を根拠に言っているのか。故人の名誉のためにもぜひ聞きたいところだ。

09. 2010年2月01日 11:34:11
阿修羅は、朝鮮の巣窟になってもうたな

今回の騒動で、朝鮮人の危険性が日本人に新党してきたよって

お前ら朝鮮人の追放運動に火がつくで!


10. 2010年2月01日 11:51:02
南京軍事法廷では、当時、第6師団長だった谷寿夫(当時、陸軍中将)が起訴され死刑となった。

谷は申弁書の中で虐殺は中島部隊(第16師団)で起きたものであり、自分の第6師団は無関係と申し立てを行っている。

これは上記の捕虜虐殺が裁かれた法廷だったのだ。無関係の谷中将を刑死させた中島は刑を免れ、正義の欠片も持たぬ悪党である。

谷寿夫中将の無念いかばりであろうか。

第三者たる南京市内欧米人の目撃談には、租界の民間人を守った日本兵はいても、民間人を殺した日本兵など皆無であった。

そこには意図的な風聞、捏造報道しか存在しない。

成り済まし日本兵の、それと殺された中国人の「皆殺しにされた」証言、所詮そんな類のものにすぎない。

「国際法違反の便衣兵」殺害、「事故死の民間人」は存在したようだが、「民間人虐殺など中華民国軍によるものしか確認されていない」のだ。

中華民国軍による民間人虐殺の「南京屠殺事件」でなく、日本軍が起こしたという「南京事件とは南京捕虜虐殺事件のこと」である。


11. 2010年2月01日 13:51:36
投稿氏の冷静かつ要を得たレジュメに加え、01,02コメント氏の考えさせられるコメント、高橋五郎氏の近著『天皇の金塊』シリーズと重複する内容であり、参考になる。
 情けないのは03〜07のぶら下がりコメント諸氏である。いったい「南京虐殺」があったと認めるのは、日本人じゃないのか?それとも工作員なのか?
 俺は代々土着の列島原住民―実態は水飲み百姓―の出であるが、戦前の旧戸籍には、父母両方とも士族籍にあることを示す「士族」という角印が押されていたと聞いている。
 こんな氏素性の俺だが、「南京虐殺」はあったと思っているよ。もちろん実体験ではないから、「南京虐殺」はあったと確信していると書くべきか。
 虐殺人数がどうこうじゃないんだよ。「中共」の実態がこうだからとか、話をそらすんじゃない。他所もやっているから云々・・・ いいかげん直視しなさい。 
 「我々日本人」が糾弾すべきなのは、政府・陸軍中央の制止を無視し暴走、結果組織的蛮行を惹き起こした、上海(支那)派遣軍指導部の罪であろうが。
 その明確な軍規違反の責を問われ、断固軍法で処断されるべきであった朝香宮鳩彦中将(当時)達が、(南京攻略時病気療養中で現場不在であった)松井岩根大将一人の首を差し出し、自らは指弾されることなく、戦後ものうのうと生きおおせたことに思いを致すべきであろう。責任をとらない官僚の悪弊は、昨日今日始まったことではない。
(防人三代目)   

12. 2010年2月01日 15:42:45
>11. 2010年2月01日 13:51:36

その場にいたわけではないが、「南京における捕虜及び民間人虐殺」はあったと認識している。

しかし、高橋五郎氏の『天皇の金塊』などを引き合いに出すのは片腹痛い。

この天皇の金塊説が全くの嘘かどうか、日本人として是非とも読んでみるべきだろうと思うが、この事により、1・2のような「天皇陛下在日」、「天皇一族は神でも象徴でも無く人間のクズの集団である」などと断言する輩を正当化しようとしてしまう貴殿の脆弱性も問題に思う。

『天皇の金塊』をはじめ、同じ類の陰謀説を数多く見聞きしたが、どれを以て真実とすべきかは、昭和天皇亡きあと確認のしようがないし、大凡、全世界繋がるタブーである事は間違いないが、戦前、戦後同様、あらゆる勢力が今も工作を弄している事も間違いない。

「責任をとらない官僚の悪弊は、昨日今日始まったことではない」という貴殿の論に間違いはないが、同じ日本人をそこまで堕落させるに充分な、ある作用が働いている事から目を逸らしてもならないと考える。

その事から、高橋五郎氏に対しても具体的な情報便宜をはかる組織があったと考えるのが自然であり、取捨選択は良識ある賢明な日本人に委ねられる。

その事には、多くの意見に耳を傾ける事が必須であり、あながち04・07をぶら下がりとは断言出来ないであろう。

08に論拠を出せとのコメントがあるが、出せたとしても、何れかの資料の写しであり、08のコメントを以って、我々の探究にも限界がある事を自覚せねばなるまい。

ちなみに、岩屋梓梁の話を出せば、日本の歴史が根底から覆されるので研究の価値がある。

これについても、もはや様々なフィルターがかけられている為注意が必要である。

こと日本や、皇室というキーワードについては、いずれ、我々の思考の速度を遥かに超えた大きな力が作用している事は間違いない。


13. 2010年2月01日 21:25:31
南京大虐殺を捏造だと思ってるアホがまだ居たんだ.無数の報告が有るのにね:


「徹底した史料の読解によって、南京事件の真実を明らかにします」
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ 
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm


南京で暴虐の限りを尽くした田所耕造。
http://anarchist.seesaa.net/article/78079481.html


陸軍第114師団重機関銃部隊所属 田所耕造。

『週刊アサヒ芸能』(71年)の取材に答えた当時、彼は53歳。
彼が語った残虐の限り。しかもこれが「命令」なんだから驚くしかない。

女が一番の被害者だったな。年寄りからなにから、全部やっちまった。
下関から木炭トラックを部落に乗りつけて、女どもを略奪して兵隊に分ける。

女1人に兵隊15人から20人くらい受け持たせてね。倉庫のまわりなど、
日当たりのいいところを選んで、木っ葉などをぶらさげて場所をつくる。
赤ケンといって、中隊長のはんこがある紙を持った兵隊たちが、ふんどしを
はずして順番を待つんだ。

いつか女の略奪班長をやったことがあるけど、ゆくと、女たちはどんどん
逃げる。殺すわけにはいかないから、追いかけるのに苦労したもんだよ。
支那の女は技術はうまいね。殺されたくないから、必死なんだろうけど、
なかなかいい。なにしろ上陸以来女の身体にさわったこともないんだから
、いじくりまわしたり、なめまわしたりする。私らは、よくなめ殺すといったもんです。


その凶暴兵は、柳川平助兵団(第10軍)第114師団所属。南京作戦での「働きぶり」によって上等兵に昇進。

そして、血に飢えた「ならずもの部隊」は徐州(シュイチョウ)へ進撃したのだった……。


南京に2ヶ月ぐらいいて、徐州に向かったんだけど、このときだったな、
股裂きをやったのは。ある部落で、みせしめのために女を柳の木に縛りつけ、
両足首にまきつけたロープを2頭の馬の鞍に結び、左右からムチをくれると
股から乳房のあたりまで肉がさける。骨があとに残るんだ。それを部隊
みんなでみている。中隊長もみてみぬふりだった。将校だろうと下士官
だろうと、文句をつけても『ウシロダマ(後ろ弾)だぞ』とおどしちゃう

田所耕造はこの気分が悪くなるような話を得意げに話している。上官を
無視しても、「戦闘」では頼りになった兵士による略奪・強姦・虐殺は
セットで日本軍は容認していたということだ。


川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、
陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山(クンシャン)まで道端に延々と
そういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられて
いて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコが
丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。『チンポコ3万本』と俺たちはいっていたが、3000人以上はいたろうな。遠くからロングに引いてみると、残虐というより壮観だった。

読売のカメラマンで発狂したのもいたな。やったってしようがないのだが、
飛び出してやめさせようとするものもいた。普通の百姓だからといってね。
しかし兵隊はそんなのにかまわずぶっ殺していった。俺か? 俺は残虐な
写真ばかり撮っていたので病膏肓に入っていた。そういう残虐な写真を
撮るのも喜ぶものもいたし、やめとけというのもいた。参謀本部では証拠に
ちゃんと写真を撮っていたな。

以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。

当然のことながら、柳川平助兵団による強姦・虐殺は南京攻略以降の
徐州・漢口作戦でも繰り返されることとなる。

徐州作戦では捕獲したチェコの機関銃がよく使われた。10人、20人と固まって
死んでるのが3キロも4キロもつづく。殺し方もいろんな方法をとった。
3人ぐらいいっしょに木にぶら下げられていたり、首をはねたり。子どもの
首をはねるのだけど、うまいもんだね、皮一枚ちゃんと残るように斬るんだよ。
その瞬間の写真を撮ったけど……

自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている


その凶暴兵は、柳川平助兵団(第10軍)第114師団所属。南京作戦での「働きぶり」によって上等兵に昇進。

そして、血に飢えた「ならずもの部隊」は徐州(シュイチョウ)へ進撃したのだった……。


南京に2ヶ月ぐらいいて、徐州に向かったんだけど、このときだったな、股裂きをやったのは。ある部落で、みせしめのために女を柳の木に縛りつけ、両足首にまきつけたロープを2頭の馬の鞍に結び、左右からムチをくれると股から乳房のあたりまで肉がさける。骨があとに残るんだ。それを部隊みんなでみている。中隊長もみてみぬふりだった。将校だろうと下士官だろうと、文句をつけても『ウシロダマ(後ろ弾)だぞ』とおどしちゃう

田所耕造はこの気分が悪くなるような話を得意げに話している。上官を無視しても、「戦闘」では頼りになった兵士による略奪・強姦・虐殺はセットで日本軍は容認していたということだ。
股裂きなんぞ、東映のモンド映画『徳川いれずみ師 責め地獄』にて鬼才石井監督が撮っていたけど、その遥か以前に日本軍では娯楽の殿堂として「日常風景」だったとは驚きだ。
日本軍って、頭の中が「石井輝男」と同じだったんだな。

「股裂き」の田所耕造が所属していた柳川平助兵団が如何に凄まじい「ならずもの部隊」であったか、従軍カメラマンとして共に行動した河野公輝さんが証言しているな。
これも酷すぎて卒倒するぜ。


川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山(クンシャン)まで道端に延々とそういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられていて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコが丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。『チンポコ3万本』と俺たちはいっていたが、3000人以上はいたろうな。遠くからロングに引いてみると、残虐というより壮観だった。

読売のカメラマンで発狂したのもいたな。やったってしようがないのだが、飛び出してやめさせようとするものもいた。普通の百姓だからといってね。しかし兵隊はそんなのにかまわずぶっ殺していった。俺か? 俺は残虐な写真ばかり撮っていたので病膏肓に入っていた。そういう残虐な写真を撮るのも喜ぶものもいたし、やめとけというのもいた。参謀本部では証拠にちゃんと写真を撮っていたな。
蘇州(スーチョウ)の略奪もすさまじかった。中国人の金持ちは日本とはケタがちがうからね。あのころでも何万円とするミンクのコートなどが倉の中にぎっしりつまっているのがあった。寒かったから、俺も一枚チョーダイしたよ。(中略)東京の部隊では赤羽工兵隊というのが一番悪かった。
蘇州の女というのがまたきれいでね。美人の産地だからね。兵隊は手当たりしだい強姦していた。犯ったあと必ず殺していたな。


以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。


当然のことながら、柳川平助兵団による強姦・虐殺は南京攻略以降の徐州・漢口作戦でも繰り返されることとなる。

徐州作戦では捕獲したチェコの機関銃がよく使われた。10人、20人と固まって死んでるのが3キロも4キロもつづく。殺し方もいろんな方法をとった。3人ぐらいいっしょに木にぶら下げられていたり、首をはねたり。子どもの首をはねるのだけど、うまいもんだね、皮一枚ちゃんと残るように斬るんだよ。その瞬間の写真を撮ったけど……


以上の証言は河出文庫『証言・南京事件と三光作戦』より引用した。

この本のAmazonでのレビューにこんなのがあったが……

洗脳、と言う言葉がある。
この言葉は元々は中国語だ。日本語ではない。
朝鮮戦争時の捕虜米兵に対して共産主義を信じることをせまった行為を
中国共産党が洗脳と呼んでいたのが語源だ。
この捕虜米兵と同じように洗脳された人たちがいる。
日中戦争時に捕虜となった日本兵捕虜である。
生きて日本に帰ることのできたこの日本兵捕虜は「中帰連」(中国帰還者連絡会)と呼ばれ、
帰国してから「証言」したものが、南京虐殺やら三光事件やらの
「旧日本軍が大陸でいかに悪いことをやったか」を描いた数多くのプロパガンダ本の基となった。
本多勝一の『天皇の軍隊』も彼らの「証言」を基にした著作だという。

さて本書であるが、
タイトルの、証言とはいっても上記の中帰連(笑)の生き残りの人たちがメインである。
この時点でこの本の客観性や実証性はゼロといっていいプロパガンダ本といっていい。
「南京大虐殺」「三光作戦」がウソ、でっちあげの産物であると言うことは
ネットや書籍を通じてようやく近年常識として広まりつつある。
これも一つの戦後レジームからの脱却と言っていいだろう。


『週刊アサヒ芸能』のインタビューに答えた人間が中共の捕虜だと決め付け、事実を歪曲しているところなんぞ、まさに中共と同じやり口だな。藁

自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている。インタビューを受けた当時でも、自分が行ったことは間違っていないと自慢していた神社の神主であった。三島が自決した日に息子に「お父ちゃんもあんなふうに死ぬのか」と聞かれた彼は、「お父ちゃんが死ぬときは共産党と社会党のやつらを皆殺しにしてからだ」と答えている。
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/182.html


中国山西省に出征した旧軍人のKさんは3年兵の時、トーチカ(砲台)の
一室で、4〜5人の4年兵が現地女性を連れ込み輪姦している場面に
出会った。4年兵の兵隊が終ると、「今度は3年兵の番だ」と言われ、
Kさんは、強姦は犯罪だという認識がなく、単に古兵の命令に従わなければ
ならないと思いそれに加わった。Kさんはこういう“戦争犯罪に対する無感覚”は戦時中だけではなくて、戦後も変わらなかったと指摘する。戦友会の席上では、このような犯罪が懐かしい話、面白い話として語られるという。

その中には「股裂き事件」という話もあった。ある旧軍人が1944年の
河南戦争前後で見たことだ。中国人女性の片足を木に縛りつけ、もう片足を
馬の鞍に括りつける。そして突然馬のお尻を叩き、驚いた馬が走り出すと、
女性の体が二つに裂けてしまうというものだ。Kさんが駐在していた山西省
旧遼県でも、1941年4月に日本軍隊長が中国語で「勒馬分身」(股裂き)
という方法で殺人を行ったという。そのことは中国側の資料にも記述されている。
http://www.magazine9.jp/kaigai/dai027/index.html



14. 2010年2月01日 21:39:56

南京にいた日本兵たちの人間墜落と性的異常行為は限界がありませんでした。ちょうど退屈凌ぎに殺人コンテストが考案された様に、兵士たちはセックスの十分な供給に飽きると様々な気晴らしの強姦ゲームを創造しました。

おそらく日本兵が気晴らしにした最も残忍な作法の中に、女性の膣の突き刺し刑があります。南京の通りには足を広げ、開口部に木の棒や小枝や雑草を突き刺されて倒れている女性の死体がありました。南京女性の拷問に使用され、耐え難い苦痛を与えたこの方法は考えただけでも精神が麻痺してしまうぐらい痛ましいものがあります。若い女性を強姦した日本兵は彼女にビールボトルを突き刺して射殺し、別の所ではゴルフクラブを突き刺された強姦犠牲者が発見されました。また12月22日にTongjmenの門近郊で強姦された理髪店の妻は膣にかんしゃく玉を突っ込まれて、爆破して殺害されました。

そして犠牲者は女性だけに限られた訳ではありませんでした。中国人男性はよく男色の相手にされたり、笑う日本兵たちの前で恥ずかしい性芝居を演じるように強制されました。ある男性は雪上に転がる女性死体との性行為を強いられ、それに拒絶して殺害されました。また日本兵は禁欲主義を誓っていた男性に性交際を強制して喜ぶこともしました。男性に変装して南京の門を通過しようとした中国人女性が股の間を掴みながら一人一人チェックしている日本近衛兵に真実の性を暴かれてしまい、集団暴行を受けている時に、たまたま現場近くにいた仏教僧は危険を冒して止めに入り、不幸にさらされました。日本兵たちは彼に強姦したばかりのその女性との性交際を強制し、それを拒んだ僧侶はその場で去勢されて出血多量のために死に陥れられました。

さらに最も卑劣な性的拷問手段の中には家族に対する退廃があります。日本兵は中国人男性に対して、父親は娘を、兄弟は姉妹を、息子は母親を強姦させる近親相姦を強制して、加虐的な喜びを味わいました。中国軍大隊の司令官だったGuo Qiは、街が陥落して息詰まっていた3カ月の間に、少なくとも4、5回は日本兵が母親を犯すように息子へ強制して、拒んだ者はその場で殺されているのを見たり、聞いたりしました。この報告書は、ある中国人男性が母親を強姦することを拒んでサーベルで突き殺され、直後にその母親も自殺したことについて報告したドイツ人外交官の証言で実証されています。

家族の中には、この様な行為を強いられるぐらいなら率直に死に応じる者もいました。ある一家は揚子江を横断しようとしたところで二人の日本兵に止められ、点検を求められました。ボード上で若い女性や少女たちを見つけた日本兵たちは両親や夫の目の前で女性の強姦を始め、これでも十分にひどい行為にかかわらず、兵士たちが次に要求したことは一家をさらに困惑させました。彼らはこの一家の年老いた男性にも同様に女性たちを強姦させようとしました。一家は従うよりも川へ身を投げて溺れ死ぬことを決意しました。


日本兵に捕らえられた女性たちは強姦された直後に殺され、生きる望みはほとんどありませんでした。
しかし簡単に捕まらない女性たちも数多くいました。その大半は燃料庫の中や、積み重ねられた草や麦わらの下や、豚の檻の中や、ボートや無人家の中で何カ月間も日本兵に見つからないように隠れていました。地方の女性たちは日本兵が踏みつけて見つけようとした地面の下にある隠れ穴の中に隠れました。ある仏教尼僧と小さな少女は死体で満たされた溝の中に横たわり、5日間、死んだふりをして強姦や殺人から逃れました。


女性たちは様々な方法を用いて強姦から逃れようとしました。中には、すすを顔に擦り付けて老いて見せたり、病気にかかっているように見せたり、頭髪を剃って男性を偽ったりして変装する女性たちもいました。(ある利口な若い女性は金陵大学の安全地帯までの道のりを老婆に変装し、杖を持って足をひきずりながら、背中に借りた6才の子供を負ぶって歩いてきました。)また4日前に死んだ子供を生んだと日本兵に告げて病気を装ったり、中国人捕虜の助言を受けて指を喉に突っ込んで何回か嘔吐して見せた女性もいました。(彼女を捕らえた日本兵は慌てて建物から追い出しました。)中には人混みの中を屈んで進み、壁を敏捷によじ登って日本兵からの追撃を逃れた女性や、三階の日本兵を妨害して、庭の中国人男性が支える竹棒を滑り落ちて、辛うじて暴行から逃れた少女もいました。

しかし、あがいた女性は一度、捕らえられると、日本兵に抵抗しようとした見せしめのために拷問にかけられました。日本兵に挑んだ者たちは、よく目玉をえぐり抜かれていたり、鼻や耳や胸を削がれている状態で後に発見されました。


金子安次
「昼間のうちにいい女に目をつけておいて、夜襲いに行く兵士もいた。頑強に拒んだ女性には膣に棒を押し込み、子宮を切り裂き、油をつけた綿を押し込み燃やしたこともしばしばあった。」

 金子さんの話によると、民間人に対する殺戮と性的虐待は日常的に行われていて、これに加担しなかった日本兵は、少なくとも金子さんの知る限り、ほとんどいないという。

子供は、慣例のごとく両親の目の前で殺された。


子供の前で母親を犯す。赤ん坊を火にくべる。または子供の前で親を焼き殺す。生きたまま生体実験を行う。 慰安と称して女性の膣にガソリンを含んだ布を押し込み、火をつける。


日本兵が南京の居住民に与えた数々の拷問は人間の理解できる範囲を越えています。下記の例はそのほんの一部分です。

(生き埋め殺人)日本兵は機能的に埋葬活動を実施することで大量虐殺の効率化を図りました。中国人捕虜たちはそれぞれグループに分けられ、まず第一グループが自分自身の墓穴を掘らせられ、第二グループが第一グループを埋め、続いて第三グループが第二グループを埋めて行くという具合に強いられました。犠牲者たちの中には胸や首から下部分を埋められて、刀で徐々に切り刻まれたり、馬や戦車で下敷きにされたりして、さらに大きな苦しみを受けた者たちもいました。

(切断)日本兵は犠牲者たちのはらわたを抜き出したり、斬首したり、手足を切断しただけでなく、さらにひどい種類の残酷な拷問を行ないました。街の至る所で捕虜たちが板に釘付けにされて戦車にひき殺されたり、木や電柱にくくりつけられて肉体を切り刻まれたり、銃剣の練習台にされて虐殺される光景があり、明らかな事実の中には、100人以上の男性が銃殺される前に目玉をえぐり出されたり、耳や鼻を削ぎ落とされたということがありました。また200名を越える中国兵や市民の集団が裸で柱や学校の戸に縛られ、zhuiziという特別の針で口や喉や目を含む何百カ所という肉体部分を突き刺されることもありました。

(火による殺害)日本兵は犠牲者たちを集めて一気に焼き殺しました。江口の日本兵は中国人捕虜を10人単位でまとめて縛り、ガソリンをかけて火が点けられている窪地へ落とし込みました。太平路でも大量な数に上る店員が火刑を宣告され、ロープでまとめて縛られて炎の中へ投げ込まれました。さらに中国人暴徒たちを建物の最上階や屋根上に集めて、階段を破壊し、炎を下に灯すという余興の火刑ゲームも考案されました。多数の者が窓や屋根上から飛び降りて自殺を図りました。


また犠牲者たちを燃料でずぶぬれにして射撃し、炎上するのを観望するという娯楽も実施されました。ひどい事件の中には日本兵が何百人に上る男性や女性や子供たちをガソリンでびしょ塗れな広場の中に入れ、マシンガンで火を点火することもありました。

(氷による殺害)南京大虐殺中、 何千人に上る人々が故意に凍死させられました。何百人に上る中国人捕虜たちが凍結している池の辺まで行かされ、裸になって氷を壊し、水の中へ魚を捕まえに飛び込む様に命令され、水の中に入ると彼らの肉体は日本兵の銃弾に穴を空けられる浮いた的と化しました。また避難民集団を縛って浅瀬の池へ投げ入れ、そして手榴弾で爆破して「血と肉体の爆発雨」を引き起こすこともありました。

(狂犬による殺害)残虐非道な拷問方法の中には、犠牲者たちの腰部分まで土の中に埋めてジャーマンシェパード犬にかみ殺されるところを観望するというものもあります。日本兵が犠牲者を裸にして、肉体の敏感な部分をジャーマンシェパード犬に噛みつかせる指図をしているところを見物人が見ていました。犬たちは腹を噛み開き、腸を離れた場所へ引きずり出していたそうです。

これらの出来事は日本兵が犠牲者たちの拷問に用いたほんの一部です。日本兵は犠牲者をACID(麻薬)浸けにしたり、赤ん坊を銃剣で突き殺したり、人々の舌をフックに掛けて吊るすといった残虐な行為を公然と行ないました。後に南京大虐殺を調査した日本人記者は日本兵の中に中国人犠牲者の心臓をもぎ取り、肝臓を引き出し、それを食べた者がいるという事実を知りました。また性器までも食べ尽くしていたという話もあります。日本の拘留から脱走した中国兵は通りでペニスを切り落とされている数体の死体を見た後に、ペニスはそれを食べると活力が増幅すると信じている日本人客へ売られていると言われたそうです。

日本軍はまったく人間性を喪失してしまい、少しもはぱかることなく女性を強姦・輪姦した。幼女からろうぱまで、はなはだしきにいたっては妊婦さえも免れることはできなかった。

数多くの女性は暴行されたのちまたむざんにも殺害された。日本軍が南京を占領して1か月の間に、2万回以上もの強姦事件が発生した。その時、南京にいた外国の人たちが日本軍のことを「きん獣の群れ」といったのである。

”輪姦の後、殺害された女性”とキャプションのあるこの写真では腹を割かれ、内臓がとび出している。少し開き加減の足。左足の先のほうにはズボンと覚しきものがからまりついている。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/magaz306.html


人前で中国人の首を斬殺さしたり、妊婦を銃剣でお腹を裂き見世物にしたとか、娘らを強姦したら殺す!(死人にくちなし、と言う事だそうです)乳飲み子を母親から取り上げ谷へ投げ捨てた。子供に”みの”をかぶせ火の中に投げ入れ、熱い熱いとみのがゆれるさまを喜んで”みの踊り”と言ったそうです

日本兵は「幼い娘は熟していない」といって、下腹部を切り開き輪姦を始めるのであった。妊婦でさえも容赦はなかった。

妊娠9ヶ月の17歳の少女を2人の日本兵が強姦する。この結果流産してしまい、彼女は発狂してしまった。HongWu門外では日本兵が農家の妊婦を強姦し、女性の腹部を切り開き、胎児を取り出した。また別のところでは、日本兵が妊婦を強姦しようとしたがお母さんが立ちふさがる。

そこで日本兵の超残虐な行為が始まる。日本兵は老婦を蹴飛ばし、妊婦の腹部をナイフで切った。数ヶ月たったばかりの胎児が中から飛び出した。このようにして2人の尊い命が一瞬のうちに消えてしまった。多くの女性が強姦の後殺害されている。ある日本の上官は部下にこう言った。「後で厄介になるから、用を済ました後は分からぬように殺しておくようにしろ」多くの女性はこの時の経験を話せない。

しかしそのような地獄から生還した女性もいる。彼女はJianYin通り6丁目に住んでいた。彼女は他の女性といっしょに日本軍に連れ去られた。日中は洗濯をさせられ、夜になると輪姦の道具となる。年増の女は一晩で10回から20回。若くてかわいい女はもっと多かった、と証言する。

正月元旦の日、二人の日本兵が彼女を連れ誰もいない学校にやってきた。そして彼女を10回銃剣で突き刺した。首の後ろに4回。腕に1回。顔に1回。背中に4回刺された。日本兵は彼女が死んだと思い、去っていった。あとで通行人に助けられ病院に担ぎ込まれ命を取り留めた。強姦の後幸運にも殺されなかったが性病に罹り、一生苦しんだ人たちもいることを忘れてはならない。

" 外国人の見た日本兵の蛮行 # という本の中に著者の TianBoLie 氏は南京の虐殺の事実を記録に残している。そのほとんどが強姦であった。それから少し例を拾ってみるだけでも日本軍の罪の重さがわかる。12月14日正午、日本兵は JianYing 通りの民家を襲った。4人の少女を誘拐し2時間かけて強姦した。12月14日夜、日本兵が民家を襲って女性を強姦し、連れ去った。12月15日夜、大勢の日本兵が Jinling 大学の講堂に押し入った。そこで30人の女性を強姦した。ある者は6人の日本兵から次々と輪姦された。 12月15日夜、大勢の日本兵が ShanTiao通りの民家に押し入り、多くの女性を強姦した。12月16日、日本兵は保育大学から7名の少女を誘拐した。年齢は16歳から21歳までの娘であった。そのうち5名が後に釈放された。18日におこなわれた事情聴取によると彼女らは一日に6回強姦されたといっている。

12月18日の夕暮れ時、4,5百人の女性がわれわれの事務所に保護を求めてやってきた。 この多くは日本兵に強姦されていた。 ここに記載した事件は南京陥落後のほんの数日間に起こった氷山の一角に過ぎない。 実際、 " 強姦は南京陥落後6週間に渡って大規模に行われた」のである。これらの犯罪は下級兵士の行動にとどまらず、指導者層にまで及んでいる。

南京虐殺の主犯格である日本軍第六師団長谷寿夫の証言によると、彼は ZhongHua 橋の近くで Din Lan という女性と他に二人を強姦している。また、SaiHongQiaoで Liu YuQingさんと他三名を強姦した。他のところで10名以上の強姦も認めている。日本軍の侵略者たちは強姦で動物本能を満たすだけでは終わらなかった。

彼らは集団で輪姦し、その後、殺して死体を切断するのであった。多くの女性は10人くらいの日本兵に輪姦された。そして女性は死んでいく。この種の経験をした女性の死体は数限りなくあった。虐殺の期間中、強姦の犠牲者には教授婦人、尼僧、労働者、教師、学生などがいた。

2月の終わりごろ、14人の難民の家族が日本軍により惨殺された。一番下の娘はほんの14歳。彼女は二つの正方形のテーブルの上に乗せられて死んでいた。上半身は服を着たままであるが、下半身はすべて剥ぎ取られテーブルは血の海であった。そして彼女の下腹部には銃剣で刺した後が二つあった。

お姉さんは妹と同様の格好でベッドの上に倒れていた。母親はテーブルのところで1歳の赤ん坊
を抱きかかえ倒れていた。赤ん坊は腹部をナイフで切られ、内臓が飛び出していた。正視できない地獄絵巻である。国際委員会の委員は調査に乗り出した。
写真を撮り、それをアメリカの市民のもとに送った。日本大使館にも送った。

日本軍の地獄の苦しみを味わったのは主に女性であった。彼女らは強姦されてそれで終わりではなかった。日本軍から胸を切り落とされ骨が見えている女性。
下腹部を銃剣で刺され苦痛で泣き叫ぶ女性。また、下腹部に木材、竹、人参などを差し込まれ、かき回されて死んでいく女性。

これを端で見ている日本兵は拍手を送り高らかに笑っていた。日本軍に囚われコックとして働かされた中国人が脱走後次の話をしてくれた。12月16日、通りに出てみるとまだ火も残って煙が立ち込めていた。我が同胞の死体の山、山、山。特に女性の死体が目立つ。それらの中で10体のうち8体は腹部を切断され中から内臓が出ている。

血まみれの胎児を手にした母親の死体もある。女性の乳房は切り取られるか銃剣で刺され、血と肉の固まりと化している。南京市内外の虐殺の期間中、多くの女性の死体はこのような様子であった。XinZhong門の城壁近くの家で60歳代のおばあさんの死体が見つかった。おばあさんの下腹部は大きく膨らんでいた。

YangPi通りの北に少女の死体が見つかった。おなかは切り開かれ内臓は引き出され、2つの目は大きく見開き、口からは血が流れていた。 GuYiDian通りでは12歳の少女が死んでいる。下着は破られ、目は閉じたまま口は開いていた。この死体を見てわかることは、これらの女性が単に日本兵の刃に倒れただけでなく、辱めを受けているということだ。

日本兵の犯した強姦の罪は重い。その残虐さは彼らの殺戮に劣らなかった。日本軍の上官はこれらの残虐行為の手をゆるめることはなかった。むしろ兵士の動物本能を満足させるためにこれを奨励した。その結果、日本兵はどこに行っても強姦をやった。上海、SuZhu,WuXi, HangZhou でも日本兵は同じことをやった。

南京の女性の運命は特に悲惨なものであった。南京陥落後、日本兵は女性を求めて南京のいたるところを探し回った。そして見つけると集団暴行を行う。
http://www.geocities.com/Pipeline/Halfpipe/3791/katari2-2.html

仏典の地獄を偏執的狂人の妄想から生まれた怪奇残酷趣味のフィクションにすぎないと考えるのなら、これはどう思われるか。…

「村民を銃剣で追い立てて並ばせ、機銃掃射で薙ぎ倒す。

泣き叫ぶ乳幼児や子供たちを銃剣で突き殺し、

妊婦の腹を切り裂いて胎児を放り出す。

死体の山に石油をかけて焼き尽くす。

木に縛り付けて鞭打っては冷水をかけ、凍死させる。殴り殺す。蹴り殺す。死体を野犬に食わせる。

背中に石を結わえて水中に投げ込む。

輪姦し、その女の赤ん坊を銃剣に刺して肩に担ぎ、軍歌を歌って歩き回る。

赤ん坊を投げ殺す。踏み殺す。巨大な石を担がせて圧死させる。

鞭で殴って焼けた棒を押しつけ、冷水をかけて極寒の場に捨てて凍死させる。

婦女子を狩り集めて輪姦し、腹を裂いて内蔵をえぐりだす。

生き埋めにする。眼をえぐる。耳を切る。鼻を削ぐ。首を切り、その数を競う。生きながら解剖する。銃剣で突き刺し、崖から落とす。等々」

 これはフィクションではない。「正義」を掲げた日本軍が中国でやったことである。といっても、ここでは戦争の是非を論じようというわけではない。地獄は決してフィクションなどではなく、スーパーリアリズムの世界だと言いたかったのである。我々の心の内側にある畑が荒れ果てたとき、地獄はどこにでも出現する。地獄の発生は倫理や道徳では抑えられない。かつて倫理や道徳が声高に叫ばれていた時期に、戦争が絶えたことはなかった。いや、むしろ、戦争は倫理や道徳の意図的操作によって遂行されたと言ってもよい。これは歴史の教えるところである。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa7.html

日本兵の婦女暴行・強姦の実態

1.妊娠している婦人を全裸にして刀で刃傷、木の間に女の両手両足をゆわえて子宮に手オ留弾をさして爆発。興味本位で、得意気に。(元軍曹T)

2.死体処理の少年の証言、女性の死体は特にひどい。ある女性は両手両足をひろげてベッドに縛られ、局部にサイダーの壜を深く刺されて被殺。

3.多くの少女はベッドに縛りつけられ誰でもがすぐに犯せるようにしている。少女があまり泣きじゃくったり、性病に罹ったりしたら、すぐに殺されてしまう。路地や公園には女性の死体でいっぱいだ。 彼女らは死んだ後でも切断されたり、局部に物を差し込まれたりして辱めを受けている。

4.一月一日、呉昌生が光華門外の自宅に帰った時、七人の日本兵がひとりの中国人のおばあさんを連れてやってきた。彼らにおばあさんを犯せと命じた。日本兵はこの光景を見て笑っていた。

5.二月五日、三牌楼に住む六十歳を超える陳さんのところに三人の日本兵がやってきた。 一人が見張りで、他の二人は交代で強姦した。日本兵の一人はおばあさんにペニスをなめてきれいにしろと言った。

6.1944年の春頃、鈴木氏が分隊長として、討伐作戦に参加した際のある村の話であった。 彼の分隊が休憩していたある農家に、一人の憲兵が現れ、惨劇が始まった。村の女性に食事を作ることを強い、お湯を沸かせていた時のことだった。突然、その憲兵は梅毒にまみれた自らの陰茎をとりだし、食事の準備中の、一人の女性に、これを舐めろと要求した。ところが毅然と拒絶したその女性に、憲兵は激怒し、服をちぎって沸騰したお湯を浴びせ、遂に殺害した。


7. 12月15日、またもや押し入ってきた日本軍の兵士が、数え年8歳の蔡さんを強姦した。蔡さんはその様子を次のように語る。「日本兵は、私の陰部に手をねじ込み、その時まだ幼かったので、非常に硬かったのを無理やり押し込んでこじ開けた。

8.「冬には、至るところで暖をとります。兵隊は、赤ん坊をひっ捉まえ、火の中に投げ込んだものです。」と、古参兵の一人が報告する。別の帝国陸軍の兵隊が語る。

彼の部隊は打ち棄てられた村で女をみつけ、裸にし、「膣に布切れを押し込み、ガソリンを染み込ませて、火をつけました。皆それを見ていました。隊長もです。 部隊の慰安の一種だったんです。」


「暗い部屋に産褥の婦人ありて傍らにいとけなく眠る嬰児。銃剣で布団を跳ねのける。女は両手を合わせて拝んでいる。(略)彼女は衣服乱れて乳房一突き息絶えていた。」「先に高粱で隠された長持の中の娘もどうやら、輪姦の上刺殺した模様であった」(一一○頁)。

「掃討にあって残虐は付きもので、女をあさる。輪姦、強姦と、又素裸にして乳房を刺突或は陰部にローソクを垂らし悶えるを見て悦び、恥毛に煙草の火をのせて焦げゆく興味。タマゴを局部に挿入二個、三個と、更にトウモロコシを挿入或はピストン運動、トウガラシを詰め込み歓声を上げる。銃剣の先で膣をつつく。こうして時間をもて遊んでいる。呻き苦しみ悶絶、出血滴る女と、掃討の修羅である」(一一二頁)。

「捕らえた女を丸裸にして寝かせて、両足を一ぱいに広げ杭に結びつけ尻したに枕して腰を浮かせて膣に、ナンパ大根と挿入できるようなもの等、刺激物のトーガラシとかをもって、いろいろなことをして、悶える表情に歓声を挙げていた。更にローソクの垂汁をポトポトと膣に落し上手、下手を争って楽しんでいた。

乳房、腹上、局部にムカゼ・サソリ等を捕らえて這わせての興味を持っての蛮行が、いずこの部隊でも隠された所で行われることが、討伐作戦の楽しみであった。」

「捕虜の男と女を牢から出して来て裸体にして女に男の性器をくわえ吸わせ舐めさせ、性器が勃起するの見物と、性交させることの成り行きと、女の膣ネブリ、乳房と、ああしろ、こうしろと、注文をつけて、その表情を楽しんでいた。」(一一七頁)

 強い攻撃性は、攻撃の対象により強く大きな苦痛と恥辱を与えることで、自らの勝利感、征服感を満足させた。その対象が女性であるときは、性器への攻撃となって現われた(二六)。
http://park17.wakwak.com/~ueba/sankousakusen.4.html

まず、釣り針が連続して付いている釣り糸と竿を用意します。

そして、女の股をひらかせます。

女の膣に釣り糸を挿入。

釣り針も全て挿入し、挿入が終わったらウィンチで思い切り引っ張る。


これは第二次世界大戦時、日本軍が中国で行ったお遊びです。

男性に対しては行われず、女性のみを対象とした完全な性器刑。
失血死した人もいたそうです。


860 :名無しさん :02/07/04 01:33 ID:03UDq1eg

死んだ人の事を悪く言いたくなかったけど言わせてもらう。
漏れの近所の銭湯で番台やってた爺さん(もう亡くなった)。

漏れが小さい頃よく戦争当時の話を銭湯の番台で自慢げに語ってたバカ。

『チャンコロ(中国人)の妊婦を木に縄で縛って銃剣で刺したら「ボムッ」って鈍い音出して破裂してよー。

ホント面白かったぞー。だから毎日チャンコロの妊婦探して見つけては、それやって遊んでたんだ。あの頃がなつかしいなあ(ニヤニヤ』

上の話が嘘だと思うなら,まずこれを否定してね:


小平義雄連続殺人事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/kodaira.htm

小平義雄は戦地より帰って以来、性的に突如放縦になった。

放縦なだけでは留まらず海軍被服廠の軍属であった戦争最後の年に、同じ職場の女子工員を強姦した上殺害している。
以後、終戦直後の混乱の中で女性を食料をエサに誘いだし、次々と6人も、犯しては殺していった。

小平が女性を犯して殺す、その味を覚えたのは、中国の前線だった。

予審調書の中で小平は言っている。

「大怙では強姦のちょつとすごいのをやりました。…父親を縛り上げて戸棚の中入れ…
クーニャン(娘)を出せと言って出させました。
…強盗強姦は日本軍隊には付き物ですよ。
銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で突き刺して子供を出したりしました。 私も5,6人はやっています」


取り調べと裁判の段階で明らかになったことがあるんですね。それは、彼の戦争体験のことだったんです。

「済南事件」:南京大虐殺の先駆けですね。住民の殺戮です。その時にもの凄く多くの中国人の女性が日本兵によって強姦されて殺された。この小平という人物は、その時の兵隊だったんです。

「連続強姦殺人魔」と言われた人の犯罪を重ねる下地が「戦時強姦」で培われていた、っていうことです。そのことが日本が戦争で負けた後に一気に吹き出してきた事件なんですね。


15. 2010年2月01日 23:09:05

南京大虐殺に一番近いのはこれかな。
どちらも黒幕が居て,黒幕のエラーイ人に命令されて最初はいやいや やってる内にどんどんエスカレートしていったんだよね:


1989年、女の子が41日間渡って監禁され、計100人ぐらい(少しでも関った人を含めて)に強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。(深く関ったのは5,6人)ヤクザ顔負けのリンチで、天井に血が飛び散っていた。

お尻の穴に花火を入れ爆発させ、膣やに直系3センチの鉄の棒を何度も強引に突っこみ、性器や尻の穴を完全に破壊(途中、膣をタバコの灰皿代わりにされる。重い鉄アレイを身体(裸体)を数十回にわたって殴られ、まぶたに熱いろうそくをたらされ、

(追加●陰毛を剃り、女性器に異物を挿入 
●ライターのオイルで皮膚を焼いた 
●肛門に瓶を挿入し思いきり蹴った) 
手足を縛り、膣にマッチ棒(ライター)を入れられ、点火し、燃やされ、
膣の中や裸体をライターで火あぶり、

苦しさのあまり何度も気絶する。その恐怖や苦しみや痛みは想像を絶する!(この時ストレスと恐怖のあまり髪が全部抜け落ちていく)しかし、犯人どもは哀れみの情など一切見せず、引き続き、陵辱、暴行を行う

大勢の男にかなり大量の精液を飲まされ(フェラチオで)、500ccの尿を
飲まされた。(生きてるか死んでるかわからないが)ゴキブリも食わされた
そうである。また女の子の悲鳴や激しいリンチの音は監禁されている
部屋の中で音楽をボリュームいっぱいで流しているため、外に届かない。

恐ろしいころに、監禁されていることを知ってた人は計100以上いるが、
誰も通報しない。(死体が発見されるまで)
そして最後はひどく殴られ失禁して)死んだ。

(殺された)死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。

死体には髪がなくなっていた。死体の陰部にはオロナミンC2本、入っていた。 なお、死体は手足を縛られた状態であった。

◆陰毛を剃り、陰部にマッチの軸木を挿入して火をつける。

◆ゴキブリを食べさせる。

◆性器や肛門に鉄棒、ビンなどを挿入。

◆性器や肛門に入れたビンに釘を打ち肛門内、性器内で割った。

◆両鼓膜が激しく傷ついており、最後のほうはほとんど音が聞こえていなかった。

◆小指の生爪を剥がす

◆左乳首はペンチのようなもので潰す。

◆顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両眼瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てる。

◆衰弱して自力で階下の便所へ行くこともできず飲料パックにした尿をストローで飲ませる。

◆鼻口部から出血し、崩れた火傷の傷から血膿が出、室内に飛び散るなど凄惨な状況となった。

◆素手では、血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、腹部、肩などを力まかせに数十回強打。

◆1.74kgのキックボクシング練習器で、ゴルフスイングの要領で力まかせに多数回殴打。

◆ダンベルを1メートル以上の高さから腹部に向けて落とす。

◆揮発性の高いジッポオイルなどを太腿部等に注ぎ、ライターで火を点ける。

◆あまりの恐怖に脳が縮小していた。

◆最初は手で火を消そうとするしぐさをしたものの、 やがて、ほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横臥したままになった。

◆遺体の乳房には数本の裁縫針が入っていた。

◆歯茎にまともに付いている歯は一本もなかった。

◆あまりのストレスに生前頭髪が抜け落ちていた。


16. 2010年2月01日 23:20:15
黒幕のエラーイ人とは

南京大虐殺では昭和天皇(?)と朝香の宮

コンクリは:


あのコンクリ事件では「被害者が監禁されている事を知り、あるいはその現場で犯行にも参加」していた不良仲間が100人もいた、という話だ。スマイリーキクチというお笑いタレントもネットで関与を噂されて騒ぎになったりしている.

警官になるときの教官がこの事件の取り調べをなさった方で、被害者が監禁されていた部屋を見てただの青少年の犯罪とは思えなかったとおっしゃったそうです。
床・壁はもちろん天井にまで犠牲者の血が飛び散っていたのです。私がそこを聞き流す様子を見て、「でもね、いっとくけどね。人を殴って天井に血はつかないよ。もう、だらだら血を流している人間の顎を更に殴り上げるようなことをなんべんもくり返したんだよ」と。

「さらってきた女の子相手に、いわゆるやくざや過激派のリンチ顔負けだよ」。聞くところによると、ドラム缶の中から出てきた遺体には頭髪が残っていなかったそうです。なぶられ続けたストレスで、生きている間に全部抜けてしまっていたんですね。

 「あの事件は本当に悪いヤツが実はつかまっていない。つかまったのはグループのメンバーで、一番悪どいその頭はつかまっていないんだよ」。
http://www.asyura.com/0610/news4/msg/465.html


362 :朝まで名無しさん:2008/12/27(土) 00:09:52 ID:0jccYLtr
当時の記録見ると、コンクリ事件の一部始終は全然明らかにはなっていないよね。
主犯格の4人以外に少年院送りになってる他数名の供述はまるで一致してないし。

拉致して部屋に連れてくるなり暴行した、って言ってる主犯連中と
始めのうちは、被害者はチヤホヤされた客人扱いだったと言ってる連中がいる。
後者の供述が真相で、黒幕と言われる人物は確かにいたように思える。
被害者が脅されながらも犯人達の言う事聞いてたのも、監禁場所のバカ親にしても息子が女を引っ張り込んでる程度の認識しか持っていなかったのも。

被害者に以前から目をつけてた黒幕が拉致を指示して最初に被害者に接触、最初のうち4人はただの拉致監禁役だった。
そのうち黒幕がどうでもよくなり、あとは好きにしろみたいな展開になってから殺人に至る暴行にまで発展した。
上の指示から始まってるから拉致に関しては計画性がある。その後、途端に無計画な暴行にエスカレートした感じあるね。

組織関係の命令で動いてるという感覚と、そのご褒美にもらったおもちゃという感覚が、あそこまで無茶苦茶な凶行の土台になってる気がした。
犯人達が気を大きくして言葉悪いが異常な狂宴状態になった背景として、黒幕の存在があったからでしょ。
犯人はそれまでも何回かひったくりやレイプしたりしてたみたいだが、どれも短絡的で突発的なもの。
この件だけ集団行動してるし、最初から監禁する理由が黒幕の存在以外に見えない。

「あの事件は本当に悪いヤツが実はつかまっていない。つかまったのはグループのメンバーで、一番悪どいその頭はつかまっていないんだよ」。

「そしてほんとは誰もつかまるはずじゃなかった。ほとんど完全犯罪だったんだよ」。

 犯行グループの一人がオートバイの暴走行為でつかまり、他にもいろいろやっていたので少年院に送られたそうです。彼がそこである晩以来、毎晩毎晩、壁をひっかきだすのです。同房の人間がやめさせようとしても、その手を振り払って、がりがりがりがりと爪がはがれるほどひっかきつづけ、やがてそれは所内の職員のお偉いさんの耳にまで入ることになりました。どうしてそんなことをするのか尋ねられ、彼はぽつりぽつりと話し始めたそうです。実は、人を殺したことがあって、その娘が壁の中から出してくれ出してくれって言うものだから、と。

 はじめは精神鑑定を受けさせよう(受けさせたのかな?)ということになったらしいのですが、どうも気が触れたにしてもうそをついている様子ではない。供述された場所に行くと、本当に空き地があって、ドラム缶があって、中から遺体が出てきたという事です。

 話を聞き終わって、その友人がぼそり、「俺はお化けや幽霊がいるかどうかは知らない。だけど人には、自分の心を欺けない時っていうのがあるんだな」と言いました。


49 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/22(火) 14:10:40
黒幕は加藤

加藤の同棲相手が松枝 知らないはずはないだろうて


52 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/22(火) 19:50:34
言われている石川あかねの様に、被害者を妬んでいた女は居るそうだからね。
俺が思うに、被害者の方のあの笑顔や眼は間違いなく人目を惹きつけていたと思う。
彼氏ともプラトニック恋愛だった点も考えると、清潔な方だったんだろうな。

ヤン女に憎まれるのも大方解る。

…それで、結局大久保松恵って…?


53 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/22(火) 21:47:51
松枝が「あの女を殺って」と依頼したんだな。
偶然じゃなくて、知っていて拉致。
だから殺さないと、ばれるので殺った。

松枝も関与してんだな。

56 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/23(水) 02:42:38
松枝と被害者は面識があったってことだな。

拉致は「ヤクザが追っているからかくまってあげる」と言ったとか。
ヤクザからストーカーされてたかもね。
それが加藤。
加藤の指示で、拉致、監禁、暴行。
そして加藤の気が済んだので、下に払い下げた。
松枝は嫉妬から、暴行に加わり、更に・・・・

58 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/23(水) 03:54:08
>>48宮野・神作・湊コイツらの逮捕は
未成年者の特権である少年法を利用した黒幕の策略に過ぎなかった。真の黒幕は捕まってないんだ。組織には迷惑どころか反対に貢献したんだからそういう事も許されるんだよ。


59 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/23(水) 04:03:01
>>53松枝が被害者の女子高生が美人だったことに対して嫉妬していたと聞いた。暴行のあとが一番
酷かったのが顔だったというから最初は案外松枝の嫉妬からの拉致監禁だったのかも知れない。 それがこんな結末を迎えるとは予想外
だっただろうがな。


77 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/05/24(木) 13:43:04
加藤が美人女子高生を気に入ったのが
発端で被害者に嫉妬したxxが宮野らに暴行強姦を命令したと聞いた。xxは
当時は整形前なので超〜不細工だったと考えられる。

134 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/06/02(土) 02:24:58
事件関与は間違いない。ソースもあるし。
事件の発端は加藤が被害者の子を気に入って拉致したことに松枝が嫉妬してブチギレて宮野に被害者を強姦するように
命令した。この事件の黒幕は加藤と xx なんだよ。一億円は宮野への謝礼金だ。


171 :名無し戦隊ナノレンジャー!:2007/06/11(月) 02:00:32
同棲相手の加藤が彼女に惚れて
湊の家に拉致監禁した。それがバレて
彼女を宮野達に押し付けて逃げ出した。飯島は加藤の浮気と彼女への容姿のコンプレックスに逆上して彼女をトコトン

いたぶるように命令した。xxも暴行に加わってた可能性もあるね。AV女優になったのは全身整形で美しく生まれ変わった自分を見て欲しいという願望とか
自己陶酔。よほど芸能界を目指していた彼女が羨ましくて妬みや嫉妬が酷くてかなり自分の容姿にコンプレックスを抱いていたんだと思う顔が変形するほどに殴るとか女性器を
破壊するなんて…

全部 xx の妬みや嫉妬から始まった事件だろう。黒幕なら
一億円払うくらいは当たり前だし
もう逃げられないよ一生加藤と宮野に
付きまとわれて金ズルにされるんだろうな。写部中の噂もあるし xx は鬼畜野郎の仲間入りしたんだ。


355 :事情通 :2007/03/01(木) 14:43:06 ID:aY56fsh8hs0

俺、20年前に埼玉県の三郷の高校に通ってた。
隣が八潮市でその隣が足立区だったからあのへんの連中と付き合いがあったよ。
コンクリ事件の最中、ある知り合いから「2万でヤリ放題の女を紹介してやる」
って誘いを受けたけど断った。

ダチが何人かついてったら、コンクリ殺人の監禁場所の家だった。
そこにはヤンキーが数人たまってて、女のヤンキーも何人かいた。
ある女が被害者女性の身体に刺青をほったり、根性焼きをしたりやりたい放題。
それをみたダチが怖くなって逃げてきた。
その後でコンクリ事件が発覚。

あの時いたヤンキー女どもは、円光や風俗店でバイトとかAVに出演して
ヤンキー男らに貢いでいたとかって聞いたことがあるけど、まさか
某人気AV嬢がその中に入っていたなんて誰も知らないと思うよ。


南京大虐殺の黒幕の悪事の方も早く暴いて欲しいですね.


17. 2010年2月01日 23:33:26

因みに南京大虐殺の犠牲者数については大昔から定説が有ったんだよね:


30万人殺害は長江デルタ 南京大虐殺で英記者電報

 【ロンドン21日共同】1937年12月中旬に始まった旧日本軍による南京大虐殺から65年。当時、「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」と上海から打電しようとし、日本人検閲官に差し止められた英紙記者の電報記事コピーを21日までに共同通信が入手した。  

犠牲者数について、中国側の公式見解は南京だけで30万人とするが、日本では数千人−20万人など諸説ある。

電報では、犠牲者「30万人以上」は、南京だけではなく、上海なども含む長江デルタ地域全体の数字として記されていることが確認された。  

電報は38年1月16日付。書いたのは英マンチェスター・ガーディアン(現ガーディアン)紙の中国特派員ハロルド・ティンパリー記者(54年死去)。  電報のコピーは、英中部マンチェスター大学のジョン・ライランズ図書館書庫に保管されていた。

2002/12/21 09:31 【共同通信】


18. 2010年2月02日 05:45:01
管理人さん、>>13から>>17はひどい。
これじゃここは妄想変態の遊び場じゃないですか。

19. 2010年2月02日 14:28:00

これが、南京虐殺肯定派の実態か?

この様なコメントや、投稿は、まともな日本人には出来る事ではない。

●卑怯な貼り付けコメントをやめろ

●I never forgive the unfair act

●비겁한 행위는, 결코 허락하지 않는다

●不绝对饶恕卑劣的行为


20. 2010年2月02日 14:36:51

ダイナモ!・・・いい加減しろ!!

21. 2010年2月02日 21:22:47

まあ,黒幕(昭和天皇(?)と朝香の宮)に指示された組織的な虐殺だったことは間違いないですね:


鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。

沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
 南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。命令が出てなかったらこっちはしませんよ。北支の戦争では「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。だから北支は戦争しにくかったです。
 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。それももちろん命令があったからです。皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。

依田修(1916年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊

 大連から南下して上海から揚子江を上にいった白茆口という所に着きました。そこでは敵前上陸で、そこからどんどん追撃して南京まで行ったんです。その時、私は上からの命令文を見ました。「支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と書いてありました。その命令は白茆口を上陸する前日に出たんです。
 当時、大連で船に乗った時はもう内地に帰れるかなぁと思っていました。でも、なかなか日本に着かないなぁと思っていると上陸の命令が来たんです。「今から上陸するところは米が穫れる、水牛がおる、支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と言う命令でした。
 (略)
 上陸してから常熟で一晩泊り、翌日の出発前に家を全部焼き払いました。民家の中のタンスやらを積んで火を点けたら全部燃えましたな。結構広い部落が全部燃えました。そうしたら、後方部隊が来るようになったので「家を焼くな」という命令が再び出たんです。それは無錫の手前でした。その命令は小隊長から聞きました。


http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/


22. 2010年2月02日 22:31:15

金の亡者だった昭和天皇(?)の誤算は,中国の正規軍がいくら弱くても,ゲリラには勝てそうもないという事だった. 今のイラクやアフガニスタンと同じだね.

そのまま行ったらソ連が参戦してきて日本は占領されてしまう.
そして,昭和天皇(?)が中国での大虐殺の黒幕だったことが明らかにされ,戦犯として死刑になり,その汚名は世界中で何千年も語り継がれる事になる.

しかし,昭和天皇(?)は凡人には想像を絶する程あくどく ずる賢くかった.

昭和天皇(?)が考えた起死回生の名案とは:


アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。


国民は皆“お国のため”といって国に殺された。天皇はアメリカに日本を占領してくれとお願いしたんだ! それは共産主義が怖くてアメリカに自分を守ってもらうためだった。

米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。


アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/320mannninngakorosaretadainizisekaitaisenn.htm

対日戦争というのは、野蛮な日本の侵略をこらしめ、平和と民主主義のための参戦だったと欺瞞する。しかし、日露戦争後に、日本との戦争は必至と分析し、ハワイ攻撃を待って徹底的にたたきつぶし、無条件降伏させるという計画を持っていた。ライシャワーなどは、「戦争責任はすべて軍部にかぶせて、天皇を傀儡(かいらい)として利用する」といっていた。日本にかわって中国アジアを侵略するためであり、日本を占領支配するための戦争だった。そして、日本の人民が抵抗できないように、戦地では餓死、病死に追いこみ、内地では原爆投下、全国の都市空襲、沖縄戦でさんざんに殺しまくった。

あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。

アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。


マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

「戦後の方が食糧がなかった」というのが実態だが、占領軍が食糧を持ち去ってないような状況にして、「食糧援助」と称して恩義を売る。飢餓作戦をやっていた。

占領期の検閲問題なども暴露されていない。きれいにマインドコントロールされるようになっている。マッカーサーは45(昭和20)年9月15日、「プレスコード」(新聞紙法)を発したが、アメリカ占領軍の「検閲」の名による言論統制を四五年秋から非公然に開始した。検閲要員は1万人近くいた。その対象は、新聞・雑誌、放送・演劇脚本・映画、紙芝居・幻灯などのすべてにわたり、国民の手紙や葉書などの郵便物、電話の盗聴までやっていた。

そういうことについても、一切知らせてはならないと、徹底した検閲をやった。日本のメディアは、自分らで自主検閲するようにするし、朝日新聞なんかは自主検閲要領というのをプレスコードの線に沿ってつくっていた。それはいまでも続いているしもっとひどくなっている。一方で、GHQは新聞やラジオなどを直接にも利用して、宣伝していった。第2次大戦についてのアメリカ軍を美化する心理作戦でも、商業新聞に直接GHQが原稿を書いていたり、NHKの「真相はこうだ」という特集などもそうだ。


米軍について悪くいうことを徹底して封じた。だから原爆の実態や空襲実態についても徹底し隠した。沖縄戦なども典型的で、日本軍がみんな殺したようなイメージをつくり出す。マニラとか長沙などへのアメリカ軍の爆撃もみんな隠蔽していた。安岡の戦争体験者が長沙へのアメリカの空襲を近年朝日新聞に投稿したら、ボツにされたといっていた。

戦後のアメリカの検閲のやり方を見ても、報道内容をチェックするばかりではなく、郵便物や電話まで開封、盗聴する。しかも検閲してないような格好をしてやる。戦前の検閲は、伏せ字で検閲したことが分かる形だったが、アメリカの方はまだ陰険だ。内容は、原爆を公表してはならない、戦争の悲惨さを公表してはならない、反米的なものは許さないというものだった
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm


真珠湾攻撃をやるまえに海軍自身が「石油は2年しかもたない」といっていたが、天皇も軍部も最初から負けるとわかっていてアメリカとの戦争に突っ走った.

天皇が一番怖かったのは日本のなかでの革命だった。満州事変のまえの2・26事件にしても、日本は農村恐慌で農民一揆も2000件もあり、社会不安が起こる危険性が高かった. ソ連や中国に負けるわけにはいかなかった、どうしてもアメリカに負けなければならなかった

そうした背景があって青年将校が事件を起こした。事件そのものは鎮圧したが、天皇や上のものは、共産革命が日本でも起こることを念頭においていただろうし、それをもっとも恐れただろう。

太平洋戦争でアメリカに負けたというが、そのまえに中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にしたのだ。
 日本軍は中国人や朝鮮人を「チャイナ」とか「ヨボ」とかいってべっ視しきっていた。創氏改名をさせ、名前も宗教も認めない、日本に労働力として強制連行したり、兵隊にとっていた。中国に負けて撤退となると、「勝った、勝った」という大本営発表がうそだったということになり、国内で大混乱になる。それこそ革命が起こり、天皇の首が危なくなる。だから、「中国からの全面撤退」は絶対に認められなかった。それよりも天皇制を維持するために、負けるとわかりきったアメリカとの戦争に突入した。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/utunomiyamutuo.htm


負けると分かった戦争に突き進み、いくら負けてもやめることはせず、原爆投下になって無条件降伏をした。45年2月、吉田茂などが関わり近衛文麿の天皇への上奏文がある。それは、米英は国体を守ってくれること、もっとも恐るべきことは敗戦にともなって起こる人民の革命だというものであった。

天皇とその側近がもっとも心配していたのは、国体が護持されるかどうか、自分たちの地位が守れるかどうかだけであった。だまされて死ににいかされた兵隊たちが返ってきたら、反乱を起こし、自分たちの支配の地位が剥奪されるという不安であった。

日米戦争に突き進むとき、すでに中国で打ち負かされており、戦死者は20万人近くになっていた。ここで支配勢力が心配したことは、中国撤退となると、天皇の権威が崩壊することであり、反乱・革命が起きることであった。そして日米戦争に突き進んだ。

天皇を頭とする政治家、財閥などは、原爆投下を絶好のチャンスとして、アメリカに降伏し、命乞いをした。そして戦争に駆り立て犠牲を強いた人人には何の償いもせず、民族的な利益のすべてを売り飛ばすことでその支配の地位を守ってもらう道を選んだ。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/beikoukanngagenbakutoukaseitoukawohatugen%20nihonsukuuzihibukaikouito.htm


天皇の戦争責任
マスコミ報道等では、第二次世界大戦は日本の軍部が独走し、天皇は仕方なくそれに引きづられた・・という事になっている。そのため戦争中首相であった東条英機は戦争犯罪者として処刑され、天皇は「罪を問われなかった」という事に「なっている」。


1944年7月20日、天皇の東条英機あての勅語。

「あなたは(東条は)、朕(天皇)の行う戦争において、朕の指導の下に十分職務を果たした。」・・()内部、筆者の注。

ここで天皇自身「が」主体となって戦争を行っている事、つまり軍部に引きづられて戦争が行われているのでは無い事、東条が「天皇の指導の下」にその命令通りに戦争を行って来た事を、天皇自身が証言している。

天皇は、自分の行った戦争の責任を全て東条に押し付け、東条を処刑させ、自分だけ生き延びたのである。天皇は極めて悪質な卑怯者である。

戦争中、東条は1日に3回天皇を「御機嫌うかがい」のため訪問し、政界では「ゴマすり東条」と批判されていた。東条を始めとした政界軍部が「強引に戦争を行い」、天皇がそれに引きづられる等という事は、この東条と天皇の「力関係」から見て有り得ない。天皇は東条に全責任を押し付け、自分だけ生き延びたのである。


1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し、海軍大臣米内光政大将は、1945年8月12日、次のように語った。

「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」(『海軍大将米内光政覚書』:ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

原爆投下が、昭和天皇の終戦の聖断をもたらしたのではない。敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは、広島・長崎への原爆投下を、終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。

ソ連は、国体・天皇に敵対する共産主義者の集まりであり、ドイツを打倒した強大な軍事力が日本に向けば、日本は占領され,国体も変革されるであろう。このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして、米国への降伏、国体護持を請うたのが、終戦の聖断である。
http://suyap.exblog.jp/5842042


1945年、第二次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来る。

今後の日本をどうするか、米軍の指揮官ダグラス・マッカーサーとの交渉を担当したのが、当時の大蔵省事務次官池田勇人(後に首相)の部下、渡辺武であった。

渡辺の自伝である「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」(東洋経済新報社)によると、渡辺と米軍の最初の「大きな交渉テーマ」は、米国の銀行ディロン・リードに
対する日本と天皇一族の借金返済問題であった。

明治憲法第11条により、日本の陸海空軍全ての指揮権は天皇にあり、政治・軍事の全責任は天皇にあった。米軍が天皇の戦争責任を問題にせず、真っ先に銀行ディロンの代理人として借金の取り立てを行った事は、戦争の目的が金であった事、そして米軍が米国政府の代理人などでなく銀行ディロンという私的機関の「代理人」である事を良く示している。

しかも奇妙な事に、日本は戦争のための兵器購入資金を敵国の米国ディロンから「借り入れ」ていたのだ。さらに貸し付けた側の銀行ディロンの社長が、米国の戦争省長官ウィリアム・ドレーパーであった。米軍の陸海空軍全ての指揮権を持つ戦争省長官ドレーパー本人が、敵国・日本の陸海空軍全ての指揮権を持つ天皇に
戦争資金を貸し付けていた。

ディロンの親会社が、現在のブッシュ大統領一族の経営する軍事産業専門投資会社カーライルであり、そのブッシュの経営するハリマン銀行の取締役ロバート・ ラヴェットが、戦争省次官として自分の経営する兵器会社から米軍に武器を納入していた。米軍の兵器と日本軍の兵器購入資金は、同一のハリマン=カーライル=ディロンから出ていた。

日本軍と米軍が「殺し合えば殺し合う程」この銀行が儲かる「仕組み」になっていた。この銀行の私的利益のために日本と米国の軍人は「殺し合い」をした。

この金儲けシステムの米国側にドレーパーがおり、日本側に天皇が居た。

ドレーパーの銀行ディロンは、戦争で莫大な利益を得た。
天皇も日本軍の兵器購入資金の一部を私物化し、スイス銀行に莫大な財産を蓄積した。天皇が戦争責任を問われなかったのは当然である。
日本人と米国人に「殺し合い」を行わせ金儲けする、ディロン=ハリマン銀行の日本支店長が天皇であった。最初から天皇は「日本と日本人の命」を「敵国に売り渡して」いた。

なお天皇は、スイスに莫大な蓄財が出来た感謝の印に、「敵国の戦争指揮官」ドレーパーに勲一等瑞宝章を与え表彰している。
http://www.asyura2.com/07/senkyo38/msg/517.html


大本営は兵隊をわざと死なせるような作戦をやった

まともな戦争ではなかった――ほとんどが餓死か病死だった

武器も食糧も持たせず死ぬとわかった輸送船に乗せて送り出した

敗戦したとたんに、天皇も財界も官僚、政治家も平和主義者のような顔をした

そして日本はアメリカの属国になった


あれだけ鬼畜米英でやっていながら、その後の占領は、今から見てもスムーズすぎる。アメリカは日本を侵略・占領するための戦争をやっていたのだ。

日本の全土を焼き払って攻撃して、民間非戦斗員をぶち殺している。一般国民は自然の感情として、国を守らなければと思う。特攻兵士の心情などが端的だ。アメリカや天皇は、それが次にはアメリカの占領とそれに従っていく自分らに反対して向かっていくのが怖いわけだ。「本土決戦」を叫んでいるが、真実がばれたらその矛先が自分に向く関係だ。

だから、国民には竹槍を与えるが、鉄砲で武装させるということはなかった。「鬼畜米英」のインチキはそのへんにある。精神主義とかいっているが、その気じゃないのだ。マッカーサーが日本に上陸するのが8月15日から2週間後の30日だ。司令官がすぐ乗り込めるのだ。


丸ごと米単独占領 支配階級・日本を米国に売る

占領軍には1発も銃弾は飛ばなかった。

あれほどスムーズにやれたのは、天皇がやったことと、そのために本土空襲や飢餓作戦で地獄の状況を作り、国民をへとへとに疲れさせたことによる。それをアメリカが計画的に作り出したし、日本の支配階級も望んだ。国内は戦意喪失で、軍隊は独断で解散していく。集団でも離隊していく。占領軍への抵抗なども起こりようがない。かなりの男は外地に行ってしまっていない。武装解除をさせて、しかも権力の空白ができないように、そこは米軍が来て占領する。そのうえマッカーサーは民間の銃剣をすべてとりあげる徹底した「刀狩り」までやった。

マッカーサーが無条件降伏から二週間後に上陸できたのは、安心しきっていたのだ。ずっと以前から日本の対応がわかっていて、武装解除の進行具合を把握していた。占領された敗戦国でこれほど組織的な抵抗がなかったところは世界的にもまれだ。

ドイツの場合は行政機構は壊滅しており、官僚機構も軍隊も解体したが、日本は軍隊は解散させるが、官僚機構はすべてそのまま残した。日本は空襲でも官庁がやられていない。国会議事堂はそのままきれいに残った。大蔵省や日銀も戦前からの建物がそのままだ。

ドイツは戦争に協力したマスメディアなどはすべて廃刊になった。日本は違った。悪かったのは軍部だけで、天皇はじめ、官僚機構がそうだし、独占企業、マスコミ、全部が元元平和主義者のような顔をして生き残った。それが単独占領を保障したわけだ。みなアメリカに協力して民族的な利益を売り飛ばしていった。

アメリカは日本占領に50万人の兵力を用意していた。しかし20万人でよいといって削った経緯がある。戦前の体制がそっくりアメリカの配下になったからできたことだ。いかに日本の支配階級が売国的かがわかる。
 http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/aratanabaikokutosennsounosyuppatutenn.htm

第二次世界大戦中、昭和天皇ヒロヒトは、敵国の戦争省最高幹部であるドレイパーから兵器を大量に輸入し、日本軍に高額で売り付け、利益をスイス銀行に蓄財していた。
 天皇とドレイパーは、兵器密売の共同事業者として、兵器販売促進のため日米戦争を行っていた。

 戦後、来日したドレイパーが最初に行った事は、天皇への兵器密売の「売掛金=未払い代金の回収」であった(この点は、天皇の側近であった渡辺武の「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」東洋経済新報社を参照)。

 戦争末期、ドレイパーは、天皇が無条件降伏を申し出ると同時に、「戦争犯罪人として自分を処刑しないで欲しい」と命乞いをした事に対し、天皇の命の保証と戦後における天皇制度の維持を確約し、それと引き換えに、日本に原爆を投下し終えるまで無条件降伏を承認しない、という条件を出した。天皇は広島・長崎への原爆投下を事前に承認し、それと引き換えに、自分の命と地位の延命を手に入れた。天皇は、自分1人が助かり、それと引き換えに、広島、長崎の市民の皆殺しを喜んで承諾した。

 これが、「同業者、兵器密売企業の共同経営者」天皇とドレイパーの密約である。
http://alternativereport1.seesaa.net/


昭和天皇の原爆しょうがない発言

「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」


と昭和天皇はコメントし、いきなり話題を変えて、「テレビは観ておりますが、放送会社の競争が激しく・・・」という意味不明のコメントを発して、原爆コメントを吹っ飛ばしている。これは動画で観られるとおりである。この動画を観て、「なんだ、昭和天皇はこの程度だったのか」とガッカリした覚えがある。いわゆる「現代史家」が神格化している昭和天皇は偶像であると私自身が気が付いてしまったのだ。

鬼塚氏は、昭和天皇と同じカテゴリに、いわゆる「吉田反戦グループ」(ヨハンセン・グループ)や海軍大臣の米内光政を入れて、宮中グループとヨハンセン・グループとして理解する。

米内は、原爆投下を「天佑」だとはっきり述べている。「しょうがない」という思いは、昭和天皇が1975年に発する前に、そして、思想的に複雑骨折を経ている戦後の久間大臣が誤解される形で、宮中グループとは別の意味で「しょうがない」と発言したよりも遙か前、戦争終結直前に米内によって表明されていた。

米内と昭和天皇は、保守派の文春文化人にとってヒーローである。陸軍はたたくが、海軍は批判しないというプレスコードが未だに残っている。


このグループが、皇室の財産保全のために、日本赤十字や、スイス銀行を使った資金の移し替えを行っている傍ら、終戦工作に乗り出していた、と鬼塚氏は指摘する。
これを裏付ける、ポール・マニングという作家の記述や、共同通信が二〇〇一年と二〇〇二年八月一三日が載せた記事もある。だからあながち否定できない。

さらに、このヨハンセンはグルーやスティムソン陸軍長官から、何らかの形で広島に原爆を投下するという情報を察知していたとするのだ。この根拠として、広島には陸軍の元帥・畑俊六がおり、畑元帥は原爆投下時に「松本俊一(外務次官)父君の別荘」にいて、司令部には出勤していなかったために、難を逃れた不自然さを挙げている。

鬼塚氏の主張を私なりに咀嚼すると、広島に原爆を落としたのは、抗戦派の陸軍の第二総軍を壊滅状態に置くという狙いがあったという。また、同じく第一総軍は、本部を東京に持ち、この指揮官の中に第一二方面軍の田中静壱大将がいる。鬼塚氏は、田中大将の45年8月24日の「自決」の時刻が、「森大尉が斬られた同じ時刻」である「午後11時すぎ」という、蓮沼侍従武官長の死の直前の回想記を根拠に、半藤本が書く「森大尉殺害」の時刻は実際よりも2時間も遅れていた、つまり半藤は嘘をついていると書いたのである。

共同通信の報じた、皇室の隠し財産の記事、これは重要であるから、「佐賀新聞」のデータベースを使って調べて保存しておかなくては為らない。

結局、鬼塚氏もまた、中央銀行ネットワークであるBIS(国際決済銀行)に行き着いた。このBISは、戦時中も敵味方となく資金決済をしていた。だからこそ、アメリカのロックフェラー・スタンダードやロスチャイルドのシェルが、パナマ船籍という抜け道を使って、日本やナチスドイツに石油を輸出し続けた、という話になる。あるいは、赤十字の船という抜け道をつかったらしい。
http://www.asyura2.com/07/senkyo40/msg/744.html


第二次世界大戦は、まぁ知っている人は知っているのですが、
海軍の上層部、山本五十六、米内光正、井上成美さんがコロッと洗脳されてしまって、日本敗戦への先導役を務めたというのは、まぁ知ってる人は知ってることなのですた。
ぇええ?
山本五十六ってあの真珠湾攻撃の時の日本連合艦隊、山本司令長官?
日本連合艦隊司令長官が奴らの手先?

何を言っているのだ、このバカキチガイ狸はと思う人も多いとは思うのですが、山本さんは最初からシナリオ通りに動いていただけのですた。

3百万以上と言われるにも多くの日本国民が戦死した太平洋戦争。
多くの日本人が無念のうちに死んでいった先の大戦は奴らが最初からシナリオを作り、そのシナリオ通りに動いた日本人たちによって引き起こされた。
信じたくなくても事実なのだからしょうがありません。

必ず戦争にはシナリオがある。
お互いにシナリオを決めて、さてこの線で始めますかなどとやっているのです。
ハーバード大学でワンワールド思想の素晴らしさに陶酔してしまった山本さんは自国民を大量殺りくするということも何とも思わないほど洗脳されてしまったのです。
新しい世界を作りたい。すばらしい世界を作りたい。
それが日本のためでもあり、世界のためなんだ。
そういう自分たちが正義と思った瞬間こそ、人間が一番残酷になれる時なのですた。
本人は正義のつもりだったのです。大真面目だったのですた。
ご多分にもれず、山本五十六さんたちは、日本を敗戦に導くようにわざと戦略上の失敗を繰り返します。
ミッドウェー海戦大敗北に至るまでの、数々のわざとらしい失策、別に戦史に詳しくなくても一般の人でも不自然に思うことでしょう。
あの戦争は、結局のところわざと負けたのですた。

http://goldentamatama.blog84.fc2.com/blog-entry-275.html


日本帝国海軍に中枢は欧米派で色どられ、その内なる主要な人物はユダヤ・フリーメーソンですらあった。このため、日本海軍はあらゆる太平洋上の戦闘で不可思議な動きをする。それは、敵に手ごころを加え、まるで、負けることを目的としたかの如き戦いぶりであった。また、日本陸軍についても同様のことが言えた。大本営参謀本部の高級参謀たちはつねに無謀極まる作戦計画を立てては日本軍に多大な損害を与え、多くの将兵を失う結果を招来した。

国家としてあろうことか、日本はこのような売国的戦争指導者たちによって太平洋戦争を戦わなければならなかったのである。欧州では昭和14年第二次世界大戦が勃発していたが、欧州で苦戦を続ける英仏を救済しアメリカを参戦させることはフランクリン・D・ルーズベルトの基本戦略であった。ルーズベルトはチャーチルと共謀し、日本を追い込み、先に攻撃を仕掛けさせてアメリカの世論を激高させ、対独伊戦、対日戦を正統化しようと目論んだ。

フリーメーソン山本五十六はルーズベルトとチャーチルに協力してハワイ真珠湾攻撃の構想をねった。真珠湾に集結していた戦艦はいずれも1910年〜1920年代に就役した旧式艦で攻撃しやすいように並べて停泊してあった。また真珠湾は海底が浅く、海底に沈座しても引き上げが容易で短期間で修理可能であった。真珠湾攻撃は一種の茶番劇であった。

宣戦布告の通知の遅れたのも仕組まれたものであった。大使館員全員無神経怠慢な動きをとっていることは、無能な集団でない限り確信犯である。戦後、その責任についてはこれもフリーメーソンの吉田茂にうやむやにされてしまったが、当時の大使館員達は「功労者」としてその後栄進している。

また、真珠湾の陸上軍事施設対する攻撃不徹底も、アメリカ空母が真珠湾にいなかった日を真珠湾攻撃の日としたことも山本長官の策謀である。ミッドウェーで山本長官がなぜ空母のみを突入させ、自らは戦艦とともに安全圏にいたかは謎であったが、山本長官はルーズベルトやチャーチルとの約束により、ミッドウェーで日本の空母を壊滅させ次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行い、自らはブーゲンビル上空で戦死の狂言を実行する。
http://watch-fr-br.iza.ne.jp/blog/entry/926847/


昭和天皇(?)に入れ知恵したジョセフ・グルーの正体

アメリカのジョセフ・グルーは1941年日米開戦までの駐日大使であったが、在任中10年間の間に牧野伸顕、吉田茂、樺山愛輔らと深く関わって、牧野らから御前会議の内容や日本政府の極秘事項をスパイさせていた。白洲次郎もその一味である。

 ジョセフ・グルーは、外交史ではよく平和主義者で、戦争末期には天皇制を認めて早期に終戦を図るべき努力したとなっているが、大ウソである。
 以下は、おおむね鬼塚英昭氏の『原爆の秘密(国外編)』(成甲書房)から教わったものだ。

 グルーはアメリカのモルガン財閥の血族の一人である。つまりモルガン財閥が対日工作のために送り込んだエージェントであった。戦争に反対した平和主義者とは、アメリカの走狗となり果てていた当時の(今も)マスゴミによって宣伝された顔なのである。鬼塚氏はグルーを、トルーマン大統領に代わってから実質的な国務長官として、原爆投下に向けてスティムソン陸軍長官と共同歩調をとったえげつない人物として描いている。
 
 鬼塚氏によれば、原爆は国際金融資本グループが第二次世界大戦後の世界で、核兵器で大儲けをする計画でなされた実験であったと述べている。それが長崎に投下されたプルトニウム爆弾であった。広島に投下されたウラン型の原子爆弾はとうに完成していたが、プルトニウムでの原爆は完成に時間がかかった。だからプルトニウム爆弾が完成するまで日本が降伏しないように指示をだしたのはグルーであり、それを日本側の吉田茂、牧野伸顕、樺山愛輔ら(おそらく海軍の米内光政も)に伝える役割を担ったのが白洲次郎であった。

 憲兵隊もそれを掴んでいて、吉田茂とその反戦グループの意味で彼らを「ヨハンセン・グループ」と呼んだ。ヨハンセン・グループは、アメリカのユダヤ国際金融勢力の意を受けたグルーの指示で日本の降伏を引き延ばしていた。
 鬼塚氏は、白洲次郎を「スティムソン陸軍長官(原爆の責任者)とヨハンセンに操られた“プリンシプルのない男”」と称している。

 白洲次郎の父・文平は綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築いた人物である。明治時代にハーヴァード大学を卒業しているから、このときすでにイルミナティあるいはユダヤ財閥と関係を持った(工作員となった)はずである。後にドイツのボンに学んだ折、白洲の妻となる正子の父・樺山愛輔と面識を得たということになっているが、次郎も正子も幼少のころから(イルミナティによって)結婚させられる手筈が整っていたと思われる。

 次郎はケンブリッジ大に留学する。学者を目指したとされるがウソだろう。神戸でチンピラやっていて、英国に行っても高級車を乗り回すしか能がない男が学問だなんて笑わせるんじゃない。イルミナティの工作員として教育されるためにケンブリッジ大学に呼ばれたと見るべきであろう。白洲次郎も本格的にイルミナティに取り込まれて、終世ドレイ的契約を交わしたのであろう。
 そのうち親元の「白洲商店」が昭和2年の金融恐慌で倒産して帰国せざるを得なくなる。一方で樺山愛輔も金融恐慌のあおりで理事をしていた十五銀行が閉鎖に追い込まれる。そのせいで米国に留学していた娘の正子も帰国させられ、そこで次郎と正子が出会ったことにされて、結婚に至るのだ。

 次郎はいきなり日本水産の取締に就任する。これも誰かの手が働いたのだろう。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く。ロンドンでは駐英大使・吉田茂と親交を深め、日本大使館の2階が定宿となる。いくら知り合いだからといっても、吉田が白洲を日本大使館に住まわせてやるとは…。ここにもイルミナティ関連の工作が効いているのだ。

 白洲次郎は日水時代に、近衞文麿の政策ブレーンも務め始める。ゾルゲ事件のあの尾崎秀実とともに、だ。いったい実業家とは名ばかりで、政治の勉強をしたわけでもなく、政治家を目指したわけでもない遊び人の男が、どうして近衛文麿首相の側近に食い込んでいけたというのか。白洲は情報を収集しては米英の工作機関に渡し、また指示を受けて近衛首相を操作したと思われる。日本を泥沼の支那事変に没入させ、勝算のない日米戦争に引き込まれたのは、直接的には白洲らの工作によるのである。

 ソ連の工作員だった朝日新聞の記者、尾崎秀実はゾルゲ事件に連座して死刑になったが、おそらく同じような工作を担当していた米英側の工作員・白洲次郎は生き延びて、さらに戦後GHQの手先まで務めたのである。アメリカ側が戦時中に白洲に手を出すなと日本の官憲に厳命した可能性はある。それは白洲も尾崎も同じイルミナティの手先であったが、戦後は冷戦構造を演出しなければならなかったから、イルミナティとしては日本をアメリカの統治下におくので、ソ連系の尾崎は邪魔になったのだろう。尾崎は日米戦を実現させた意味で、勲一等ではあったが、アメリカ系スパイの白洲と組んでいたことがわかれば、まずいからではなかったか。

 ちなみに朝日新聞は、尾崎秀実を「信念の記者」と今もって褒めている。朝日のコラムニスト早野透がそう言っている。尾崎がスパイとして日本を支那事変の泥沼に陥れる工作に加担し、やがては敗戦直前にソ連軍に侵入させて多くの満州・朝鮮にいた日本人を陵辱させた、その人でなし尾崎を朝日は絶賛する。
 
 鬼塚氏は『原爆の秘密(国外編)』で「白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう」と書いている。
 鬼塚氏はよく調べたと思うが、しょせん戦争はすべてユダヤ・イルミナティが仕組む八百長であることが十分わかっていない。八百長には演出家も俳優も必要なだけで、白洲はただの小間使いである。

 Wikipedia にはこうある。
 1950(昭和25)年、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。
 1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ英語から毛筆による日本語に書き直し、奄美諸島、琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還を内容に入れさせた。昭和27年(1952年)11月19日から昭和29年(1954年)12月9日まで外務省顧問を務めた。

 よく言うわ。講和交渉もサンフランシスコ条約も、本来、政治家でもない白洲ごときが口をだせるものではない。全部イルミナティの指示によって白州がお目付役となって随行したにすぎまい。まるで最近の小泉劇場を演出した秘書官みたいだ。

 鬼塚英昭氏は『原爆の秘密』で、日本の敗戦時のポツダム宣言受諾「黙殺」と原爆投下がセットになっていると述べている。これはポツダム宣言が出た直後に、ときの総理・鈴木寛太郎が「黙殺」という言葉を使い、そのため米英国民世論が激昂し、それを受けてトルーマンが原爆投下を決断したとされる一連の動きに関してである。
 鈴木首相が「黙殺」と言ったから、原爆投下の正義、口実が確保されたということになっている。これは、スティムソン陸軍長官からヨハンセン・グループに「黙殺」という言葉を使えと指示が行き、それを受けて鈴木首相が「黙殺」と言わされたのだ、という。
 その「黙殺」という言葉を当時の同盟通信社が「ignore」と訳して世界に発信した。つまりわざわざ人騒がせな刺激的な言葉を選んで、アメリカに原爆投下の口実を与えるよう工作したのである。
 
 その同盟通信社はヨハンセン・グループの樺山愛輔の父・資輔が設立したものであった。樺山愛輔が天皇の意向を受けて「ignore」と訳して返事としたと、鬼塚氏は説いている。そこに樺山の娘婿の白洲次郎が一枚かんでいるかもしれない、と。
 白洲次郎は日本に原爆を投下させる役割を担った悪魔というべきチンピラでしかない。
http://home-and-human-navi.blog.ocn.ne.jp/genki100/cat5132966/index.html

昭和天皇の原爆しょうがない発言
「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」


と昭和天皇はコメントし、いきなり話題を変えて、「テレビは観ておりますが、放送会社の競争が激しく・・・」という意味不明のコメントを発して、原爆コメントを吹っ飛ばしている。これは動画で観られるとおりである。この動画を観て、「なんだ、昭和天皇はこの程度だったのか」とガッカリした覚えがある。いわゆる「現代史家」が神格化している昭和天皇は偶像であると私自身が気が付いてしまったのだ。

鬼塚氏は、昭和天皇と同じカテゴリに、いわゆる「吉田反戦グループ」(ヨハンセン・グループ)や海軍大臣の米内光政を入れて、宮中グループとヨハンセン・グループとして理解する。


東京大空襲成功の影の功労者


東京大空襲 昭和20年3月10日 史上最大の虐殺

米軍は次のような計画をたて無差別虐殺を実行したのです。

@ ドイツの空爆で実績を上げたカーチス・ルメイ少将を東京空襲の責任者に任命。 

A 日本の家屋が木と紙でできていることに注目して、日本本土空襲専用の焼夷弾を開発。 

B テキサスの砂漠に日本の家屋を建ててその焼夷弾の効果を 確認。 

C 江戸時代の大火が春先の強風が吹く時期に集中しているというデータに基づき大空襲決行日を陸軍記念日の3月10日にした。 

D 最初に空爆目標地の外周隅田川や荒川の堤防沿いに焼夷弾を落として炎の壁を作り人々の退路を絶つ

E そして300機以上のB29で地上を嘗め尽くすように焼夷弾を落とす。(1平方メートルあたり3発、総重量2000トン)
 
F 焼夷弾の命中精度を上げるため低空飛行を行う(暗闇の攻撃だったため、まさかB29が低空飛行で来るとは気付かず日  本軍の高射砲はB29のはるか上で炸裂したのでした)

犠牲者

縁者が引き取った遺体  約20,000人
無縁仏・行方不明者    約88,000人 


10万人もの都民が米軍(中国でもソ連でもない)によって焼き殺されたあの晩。なぜか、空襲警報は、その日に限って「空爆開始後」に出された。

すでに被害が甚大となった午前0時15分にやっと警報が発令されたのだ。昭和20年3月10日の東部軍司令部で何が起きていたのか?

米国戦略爆撃調査団が戦後おこなった調査によれば、東京の消火体制は、第1弾投下後30分を経ずして壊滅していた……。さらに空襲は、その後も続き、最後のB29が立ち去ったのは、その1時間後の2時32分であった。

そのうち情報板の赤い豆ランプは、あちこちで点滅をしだし、次第に状況判断が不可能になりだした。私は参謀に「空襲警報を発令すべきだ」と進言したが、参謀は空襲警報を発令しなかった。参謀としては、状況がはっきりしないうちに、しかも深夜に空襲警報を発令すれば、天皇陛下は地下の防空壕に非難しなければならなくなるし、社会の機能はその間に麻痺することになるだろうとの、配慮があったのだと思う。

そのうち敵機が下町に焼夷弾を投下したとの情報が入ってきた。この時、始めて空襲警報が発令された。3月10日の空襲警報が、空襲が始まってから発令されたのはこのような経緯があったからである。


当時、東部軍司令部所属、陸軍中尉藤井恒男さんの証言だ。(78年3月9日放送「NHK特集 東京大空襲」より)

「屋上から肉眼監視が刻々と状況を伝えてきますけど、とにかく、火の海であると。それで、僕は上へ上がってみました。そしたら、それはとてつもない火でしたね。すぐ下へ降りてきて、一戸という参謀に参謀、屋上からいちどご覧になってください≠サうしたら参謀もそうか、藤井、そんなに酷いか≠ニ、それで屋上に上がって、燃え盛る火の海を見て戻ってくると、一戸参謀は、机の上に両手で頭を抱えてうつ伏して涙を流しておられましたね。そりゃ想像はつきます、現場に行かなくても。どういう惨状があそこで起きているかということを」


1945年3月11日「東京大空襲」のあの日、日本の大元帥もお休みになられていた……

10万人もの都民が米軍(中国でもソ連でもない)によって焼き殺されたあの晩。なぜか、空襲警報は、その日に限って「空爆開始後」に出された。

すでに被害が甚大となった午前0時15分にやっと警報が発令されたのだ。昭和20年3月10日の東部軍司令部で何が起きていたのか?

米国戦略爆撃調査団が戦後おこなった調査によれば、東京の消火体制は、第1弾投下後30分を経ずして壊滅していた……。さらに空襲は、その後も続き、最後のB29が立ち去ったのは、その1時間後の2時32分であった。

そのうち情報板の赤い豆ランプは、あちこちで点滅をしだし、次第に状況判断が不可能になりだした。私は参謀に「空襲警報を発令すべきだ」と進言したが、参謀は空襲警報を発令しなかった。

天皇が休まれておられるのを起こすのはできなかった……。そして、臣民に「空襲警報」は発令されず、被害は甚大となった。


カーチス・ルメイ将軍が、戦略爆撃という軍事思想を作った人物で、自ら、対ドイツ爆撃(ドレスデン爆撃その他)や、日本各都市の大空襲の戦略を組んで、実行した人だ。敵国を、民間人(非戦闘員)もろもとも焼き殺して火の海にして、焼け野が原にした。

このルメイの焦土化作戦は、東京大空襲をはじめ大成功をおさめた。日本側は都市の軍需工場、民間住宅問わず、全てまとめて徹底的に焼き払われ壊滅的な打撃を受ける。焦土化作戦は東京・大阪等の大都市を焼き払った後は、地方の中小都市までが対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」と渾名された。

カーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っていた。 広島、長崎の原爆投下もルメイ戦略である.

それに対して天皇は、「勲一等旭日章受勲」で報いた.

参議院議員で元航空幕僚長の源田実(ミッドウェイでアメリカを勝たせる為の戦略を立て,日本海軍を崩壊させるのに大きな貢献をしたそうだ)もルメイの東京大空襲の成功を高く評価し,勲章授与に尽力した.
http://anarchist.seesaa.net/article/35751184.html


23. 2010年2月03日 14:14:33
この長文の貼り付けは、すべて捏造品です。

嘘も百回言えば事実になるの実戦部隊ですので、気にしないでください。

この方は自称 狼 という名で工作ブログを立ち上げ、中共から金銭を与えられた戦争経験者のインタビューをもとに記事を掲載し、日中戦争の日本軍の悪行を久遠のものとする為に目下工作の最中です。

ブログを暴露しようと思いましたが、アクセスアップして勘違いされると困るので辞めました。

阿修羅でこの手の長文コメントを見かけたら、狼さんと呼んでやってください。

貴方の掲載する資料は中共の戦略的工作分でしかありません。

シナ事変辺りからの記事を投稿すると必ずヒットします!


24. 2010年2月03日 20:33:01

俺は真実を教えてやっただけさ.
中国人が何故反日になったかわからないアホばかりだったからね.


中国の真実についてもここのコメント欄に書いたから読んでね:

「外国人参政権」提案者だった
http://www.asyura2.com/10/senkyo79/msg/192.html

日本が中国より貧しくなる日【Rails で行こう!】
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/359.html


25. 2010年2月03日 21:08:35

僕も中国人は大嫌いだけど,せめてこれ位の事は言って欲しかった:


1971年、本多勝一が中国において日本軍の足跡の取材を行った際(「中国の旅」)、南京において、日本軍に虐殺された様子をさめざめと泣きながら語ってくれたそのご家族の方に対し、取材のお礼のあいさつを兼ねて語った感想の言葉です。


”「 南京大虐殺が行われていた当時、私はまだ幼児でした。おっしゃるように、たしかに”一般人民”としての幼児の私には、この罪悪に対して直接の責任はありません。

本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。ですから私は、同じ日本人の罪悪であっても、私自身が皆さんに謝罪しようとは思いません。

問題は過去より現在なのです。日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年を過ぎた今なお、中国で日本人が何をしたかという事実そのものを知らされていません。

日本がまた侵略戦争への道を歩んでゆく危険があるとき、それを私たちがもし何もしなしで傍観しているとしたら、こんどは私たちに直接責任があることになるでしょう。過去の軍国主義を ”おわび” したところで、何にもなりません。現在の軍国主義への危険を阻止することこそ、真の謝罪になるのです。

今度取材した日本軍のツメあとの報道は、このような意味で現在の軍国主義の進行を阻止するための、ひとつの闘いになるものと信じます。」 ”


朝日文庫 『殺す側の論理』 ”「反省なき民族」のために”より


26. 2010年2月04日 01:29:06
要するに
中国の南京大虐殺=日本のコンクリート殺人
で、各国の変態が夢想を働かせるネタなんですね。

27. 2010年2月04日 09:31:17
>>23
なるほど、そういう事だったのか。管理人へ報告するのボタンを押しても削除さ
れないから、阿修羅の運営サイドが関わっているのかと思っていたよ。

この気持ち悪い長文コメントは、bakaというHNの人と文癖が似ているんだよね。
レイプや犯す、殺すの文字列が多いので、本人は猟奇物のビデオやゲームが
好みなのだろうよ。在特会主催の秋葉原暴力デモに参加した某ネトウヨは、
エロゲーと陵辱系ゲームが大好きで愛国心を盛んに語る国士様だと、某掲示板
では話題となっていたからね。AAのモデルになりそうな典型的なネトウヨだったね。


28. 2010年2月04日 20:54:50

それで結局俺はネトウヨなの?

ブサヨ工作員なの?

どちらかに決まったら教えてね.


29. 2010年2月04日 21:06:08
決まるまでこれでも読んでてね:


日本人,今も昔も変わらないアルネ

中国の南部では少女買春が盛んです。
これは、「処女とセックスすると長生きできる」という迷信ゆえ、宗教思想によってもともとそうしたマーケットがあったようです。
それに拍車をかけたのが経済的発展を遂げた西欧諸国、そして日本からの買春ツアーのお歴々です。

1980年代末、児童売買シンジゲートは香港で暗躍し、一部の山岳民族などが
貧困のため、小学校入学前の子供を売りに出したのである。
その少女を買うために、世界から中国・タイなどに集まっています。
いまだに、少女売春が出来るのも発展途上国の少女達のおかけです。


香港でも、同じようなことをやっているよっ!
年齢からすると、まだ10歳にもならないだろう少女が親に手を引かれ外国人
(主にアメリカ人と日本人)相手に、「私の娘を買ってくれ。私の娘はこの辺では
一番安い。」などとまとわりついてくるよっ!

貧しい国は、風俗もすごい! 未成年はもちろん、まだハイハイしてるような
女の子(赤ちゃんだね)もいる。
香港での幼女の値段は確か5万円くらいのはずだ!

大卒のサラリーマンの月給が5000円程度だから、向こうではかなりの高額だと
いえるのかもしれない。
「金があればなんでも出来る。」と中国人が言っていたのは、嘘では無いようだ。

俺が勤めている会社の社長は、「もうやりたいことは全てやってしまった。
だから今度はもっとすごい事がやってみたい。」って言ってますよ!!
貧しい国ではなんでもあり。 幼女を買ったり売ったりなんて、日常茶飯事です。

僕は中国しか知らないので、両国とも日本円で2万あれば一日中OKですよ。
15位になるとこれよりも安くなりますよ。

僕は5〜10位の娘が目的なもので、5歳の娘に口内発射した時は最高でしたよ。
飲む姿よりゲボゲボする姿が最高に興奮するのです。

5歳の娘のフェラなら20〜30で楽しめますよ!
月に一度は、18時間かけて国境近くまで遊びに行ってます。
場所は、詳しく言えないけど此処はまだ5〜10位の娘と遊べます。


俺が買ったのは恐らく7歳(言葉通じないんだよ)で、
内容は日本円5万で2日間貸切!
その間は傷つけたり、殺さなければ何でもOKでした。

まぁ、俺の場合最初の24時間は舐めさせ続け
二日目は、挿入プレイ(もち、中出し・顔射もあり)
使いこまれてはいないが痛がる気配無し
ほのかに感じた顔が余計に性欲を掻き立てる
日本円で+5万出せば本物の幼女処女も手に入る

しかし、泣き喚いてウザイので俺は2回しか買った事がない
あ、あとオプションのドラッグ入れてのセックスやったけど
あれはダメだ! 日本に帰りたくなくなる


中国の小学生だったら充分できるよ。
さすがに初めは処女だっていうのもあって大変だったけど、濡れヅライ部分はローションでカバーしてる。
やっぱり中国の小5でも体格は、日本の2・3年ぐらい体格です。
中学にもなると体も少し発達してるし、年頃で色気づいてるからそういう所をくすぐれば結構簡単にできるかも。

俺が遊んでいる子は、小5だけど生理もないし、体格も3年生ぐらいです。恥じらいも無いので、人差指と中指でちょっと大きくなってるクリトリスを皮ごと挟んでしごくように愛撫した。

たまに中指を薬指に変えて、クリトリスの皮を剥いて自由になった中指でちょん、ちょん、と触ってやるだけで濡れます。
時々体がビクンってなって、乳首も堅くなります。
それからは中指でクリトリスを回すようにしてみたり、親指と人差指で摘むようにしてみたりして、クリトリスをコリコリしてやると驚く程肥大してくる。

いつもより一段と堅くてデカくなってるペニスをおまんこにあてがって
ゆっくり入れていこうとしてもかなり締まっててなかなか入っていかない。だからほんの少し入れてそこでユックリと出し入れをしてやってる。入ってく時はムリュって感じで押し入る感じが最高です。

そうしてると結構濡れてきて、亀頭くらいは入るようになるけど、それでもかなり窮屈。。。

ちょうど半分くらい入っていった時に、一度目の射精をしてやると体を震わせてしがみ付いてくる。
それからも少し時間をかけてゆっくり奥まで入れてやり、ヌルヌル度が増して入れ易くなってくるから、時間をかけて根元まで挿入してやる。

後は出し入れするのを速めたり遅くしたりして、充分キツキツの小学生のおまんこを味わっています。

「小学生の」「小学生の」って思うとすぐにイきそうになっちゃったから実はできるだけそう思わないようにしてたんだけどね。


小学生とやると理性崩壊して中に出してしまいますよ。
かなり興奮しているから絶え間なくドクドクと出てきて
自分でも驚くくらいの量の精子がでますね。

後は、しゃぶらせているけど、セックスのおぼえがいいみたいで
かなりうまくなってきています。
俺も小学生相手にやりすぎかもしれないけど最高のペットですね!

4歳にもなると、朝おむつを替えてやると恥ずかしそうにして可愛いですよ!
でも、オマンコにチンポを入れても痛がらずに腰を振りますからね。
遊ぶには最高です。 おむつっ子は8枚〜10枚ってとこが相場です!

俺が、いまハマッテるのが失神セックス。。。
首の頚動脈を軽く押さえて失神させるやつ! 絞め技と同じように少女をおとすのよ。

ただでさえ狭い少女の膣が、失神する前に断末魔の締りをするんだよ。
これが、数分続くから最高だね!
この辺の相場は、赤7枚ってとこだね。

アナルベイビーという言葉を知っているかな?

アナルベイビーとは男女問わずアナルを犯されるために取引されている赤ちゃんのことです
もちろん買う人や赤ちゃんの性別によってアナルだけではすまないことも多々ありますが…
男女に共通しておかされるアナルからとってアナルベイビーという名がついたようです
買う人間はたいていが香港大富豪の変態のようです
でも、2〜3万元と言うから買えない金額じゃないと思うけど、買っても育てるのが大変だから…
中国って売ってない物は無いって感じだね!!


ちっちゃいおんなの子のアナルって良いよね!
5歳位までのちっちゃい子のアナルに萌える人集いましょう!


いや〜っ! ラッキーでした。
1週間前に、行きつけの置屋の隣が手入れにあったそうです。
それで、店を閉めて移動したと言う事でした。
お気に入りの4も、健在でたっぷり可愛がってやりましたよ!

この辺は、移動が激しいから小まめに行かないと店が無くなるからね!
でも、google earthは便利だよ!

中山がよく解るし... 南山区の中山は炉の溜まり場だからね!
そのうち、店も教えてあげるよ!


蛇口で買った、少女の後ろから勃起したペニスを肛門に入れてアナルセックスを楽しみました。
アナルセックスは初めてらしく、最初は痛がって逃げようとしてましたよ!
グッボッォとチンポが入ると「ぎぃぃぁぁぁぁぁ…」と叫び声をあげて失神。
腰を少しづつ突き上げてゆっくりとチンポを入れてやった。

後ろから抱きしめながら少女を引き付け腰を沈めこんでやると気が付いたらしく。
チンポを出そうと力んで肛門が閉める。 これが最高に気持ちが良く
少女は泣きながら腰を突き出しくるから、腰を一旦引くと勢いをつけて押し出して
中に出してやった。

最高のアナルセックスが楽しめたよ!
これで、6枚なら安い買い物だと思うよ。


先月、買った女の子とアナルで遊びましたよ!
アナルを使って射精して! 射精して萎えないのでとっても嬉しい!

二発目が終わってチンポを抜くと不気味に膨れ上がったアナル。
次の瞬間、拡張されまくったアナルから、極太の一本糞。。。。。
俺のチンポの数倍の太さがあって凹みました。
あの齢で、あれだけの太さの一本糞をするのだから、フィストも出来そうですよ!
やっぱり、女の子のアナルは最高ですよ。


少女とアナルセックスをしている人って多いんですね!

年令によっては、アナルの方が入れやすいよ!
詳しくは、ヤバくて書けないが経験者ならわかる事です。
パカッと開かす事も可能です。
それに決してキツくは無いので入りますよ

南京で3歳と7歳のアナルに入れたことがあるよ!
結構きつかったけど気持ちよかった。
征服感が凄くて興奮したよ!


ハァハァ・・・た、たまらないよねぇ・・・
幼女の子宮にピュッピュッって射精
征服感と満足感が最高だねぇ・・・
いやがる幼女のアナルに無理矢理入れて犯すのがやめられないねぇ・・・
可愛いマンコがこれ以上無いくらいに汚くなる瞬間が最高だよ!!


深夜の1時から始めて終わったのが明け方6時を回っていたのよ!
これで5時間くらいやりっぱなしで、それで挿入したまま爆睡。。。
気づいた時は、夕方の4時を回っていたよ。
そのときは、2才児だったから挿入されたままオネショしていたね!
私は、起きて直ぐに幼女を連れてお風呂に連れて行きアナルにしてやったよ!
勿論、挿入したままは出来ないから、抜いてポッカリ開いたアナルにめがけてしやった。
結構感じたらしくオシッコを漏らしながら痙攣してイッタみたいだった。


アナルは、初めてでもすんなり入る子が多いからねっ。
今付き合ってる床屋の12才は初めてでもあまり痛がらなかった。
むしろマムコの方が入らない・・・
だから仕方なくアナルに挿入してる。。。

何度もアナルセックスを繰り返しているうちに挿入のコツを掴んだので
小柄だった小6の子を置屋で買った時、あっさりと挿入する事ができました。
本当に「すんなり」っていう感じでした。肛門の伸縮は凄いですよね。
もちろん4歳児だった3人目もあっさりと入れる事が出来ました。

先月の初めに、蛇口で買った8歳のアナルバージンは腰枕の体勢で正常位
(ブス顔を見ながら)と冒険しました。
でも、締まりは最高でしたね!


中国では一人っ子政策で女の子が生まれると捨てられます。
男の子と女の子なら当然男のこの方がたよりになるからです。
そして、そういう子はマフィアや拾い主によって売春になります、
だいたい8歳ごろからはじまります。
15歳ごろまでは女の子は顔が日本人とあまり変わらないので
多分それぐらいまでやらされることでしょう。
ぶっちゃけすごくかわいいですよ。まあ、ロリですけど・・


ヤミで売買される幼女1人の価格は『健康』な6歳以下の幼女ならば5万リンギ(約160万円)以上が相場。美少女中学生にはその半額から7倍程度が支払われていたと見られている。


7  (><)ゞ   2003/11/05(Wed) 18:10
これ知ってる、と言うか買わないかと言われた、この人たちからじゃないけど農村に行ったときに、断ったんだけどね


31  名無しさん   2006/04/02(Sun) 23:25

中国の赤ちゃん事情は、幼姦のための売買ですね!
1歳〜3歳の処女で、3000元〜5000元ですよっ!
中国の平均月収の2ヶ月分ですから、凄い高価な遊びです。

4歳〜6歳の処女で、2000元〜3000元で、
7歳〜の処女が1500元ぐらいです。


俺が、買った幼稚は3歳の処女! 2700元の掘り出し物でした。
1晩で、次の昼過ぎには自分でチンポにオマンコを擦り付けて来るほどの淫乱になっていました。 最高でしたよ!!


いろんなタイプの女と いろんな体位で とことんやりこんできた。
そして あらゆる経験をすることで ようやくわかってきた。
この世の究極の快楽はロリだということが。
全身 身震いするほどの絶頂感!
もう普通の女は臭くて抱けん。
ロリと一度も経験しないで死んでいくなんて
そんなつまらない人生を送っていいのだろうか。


中国人の幼女が最高の絶品名器でございまする。

中国幼女>カンボジア、ベトナム幼女>タイ、日本女児

ただし中国で幼女貫通がチクラレルと、麻薬系犯罪と同じように
死刑にもなりかねませんので、こころしてヤッテくださいネ。


6歳ならすんなり入るが、3歳女児はやっぱりすっごく大変。
てかうまくいってないんだけど。

32  戯言を嘆く翁に代わりて   2006/04/03(Mon) 19:37

女の扱いってものは超の付くほど難しい。ましてや少女のご機嫌を取るのって大変だよ。幼女が相手なら育児と同じ。幼女を風呂に入れたり小便させたり、遊んでやったり、そりゃもう大変だ。

この子達の相手は優しい子供好きのお兄さんでも難しい。まして、この板に集う鬼畜どもが異国の少女や幼女を万が一、買ったとしてもとても面倒なんか見れない。妄想や戯言を言う前に中国語でも勉強した方がいいよ。

でも9つの方言があって共に意思疎通は困難だそうだから北京語勉強しても、戸籍もないような地方の少女と会話することは常人には無理だろうね。


上記のコピペ元は

深セン夜遊び情報
http://www.p-shanghai.com/megabbs/shinsen/index.html

上海夜遊び情報
http://www.p-shanghai.com/megabbs/shang/index.html

 


30. 2010年2月04日 21:10:47

日本人は今も昔も全然変わらないだろ.

だから中国人は反日になったんだよ. 日清戦争の後は日本に何万人も留学生が来て対日感情は悪くなかったのにね.


日本国内でもこんなことばっかりやってるしね:


掘口裕子さん(仮名)児童養護施設での体験。「毎晩レイプですよ、職員はみんな見て見ぬフリでしたね」−週刊SPA


某地方都市の施設で地獄のような体験をした掘口裕子さん(仮名・20歳)はこう話す。

 「中2のときに、同い年の男の子に施設内の食堂でレイプされました。職員はみんな見て見ぬフリでしたね」

 小学6年の時に父親からレイプされ、中絶手術で入院中に民生委員に保護された。にもかかわらず、彼女は施設内で再びレイプされてしまったというのだ。

 「その男の子は体も大きく暴力的で、暴走族とつるむ不良でした。だから先生も怖がってて、まったく助けてくれなかったです」

 施設内でのレイプ放置というあり得ない事態は、それからも風呂場や物置でなんども繰り返された。

 「めったに顔を合わせない園長先生に訴えた事があるんですが、逆効果でした。「妊娠したら大変だから」と、ピルを飲まされ「あなたたちは夫婦みたいなもんだから」と、逆にその男の子と同じ部屋にされましたよ。そうなってからは毎晩レイプですよ。

 一度施設から逃げ出したら、その子がキレて園内で暴れ出し、押入れに隠れていた私を見つけた先生は「お前のせいだぞ!」って無理やり私をその男の子のところへ連れていったんです。そして、私が殴られながらレイプされているのに、置き去りにされたんです」
 
 かなり稀なケースかもしれないが、これも劣悪な施設の実態の一つであるのは確か。さらに、裕子さんは憎しみを込め、施設での悲惨な生活について話してくれた。

「服も学用品もお下がりばっかり。中学の時のジャージなんて、あちこち破れてボロボロだったし、前に使っていた子の名前が2つも書いてありました。ご飯はお代わりが禁止だったので、自分が配膳当番の時に多めによそったら怒られ、結局食事抜きに。生理中はお風呂に入れてもらえなかったので、学校で「ヘンな臭いがする」って、よくイジメられました」

 クラスで集金袋の盗難騒ぎがあれば、真っ先に疑われ、一人だけ保健室で裸にされて、身体検査を受けた事もあるという。

 「学校での差別や偏見が辛いと施設の職員に訴えても、『本当のことだから仕方がない』って逆に諭される。もう大人の人は、みんな冷たかったですね」

  中学を卒業すると同時に、施設を飛び出したという彼女。この時受けた深い傷は、4年経った今も癒える事はない。 

http://sky.cside6.com/hooray-fosterfamily/archives/taiken01.html

他にも「児童養護施設」には大量の信じられないような問題が放置されている。
http://www.asyura2.com/07/social5/msg/413.html


今も昔も,日本人はアメリカの様な強い相手にはペコペコして,弱い人間には苛め+アレ だからなあ.


31. 2010年2月04日 21:30:43

取り締まるべき政治家自体がこの有り様だから日本は永遠に救われないのさ:


米国の新聞が、台湾に中国の工作員が現役軍人と情を通じて情報を収集する「ハニー・トラップ」を仕掛けるなどの情報活動をしていると報じました。
その工作員たるや5000人以上に上る女性たち!

ハニートラップで思い起こすのは、わが日本国の橋本龍太郎元総理大臣はが10年間にわたって、中国の女性スパイ(工作員)の工作を受け続け、ODA26億円を中国に拠出したことです。

しかも、この間、中国人女性工作員との間で肉体関係があったと中国側から証言されているのです。結果的に中国人女性工作員の工作に陥ち、日本の国益を損なった人物がよりによって総理大臣とは何とも嘆かわしい事件でした。

問題の中国女性スパイは明確な目的を持って日本の厚生族の「新御三家」の一人である政治家・橋本龍太郎氏に接近した工作員だったのです。橋本氏は単なる「通訳」と思い込んでいたとは!

昨年、産経新聞は 「日中関係筋によると、中国の対日政策責任者が『七人のサムライ』と呼んで頼りにしている現役の自民党議員がいる」と報じました。七人とは河野洋平、福田康夫、 野田毅、二階俊博、加藤紘一、山崎拓、 高村正彦とされ、順位は「親中」の度合いと期待度なのだそうです。さらに、ポスト小泉をめぐって総裁選にも出馬し、週刊誌の報道にもあった谷垣禎一が加わったことも忘れてはいけない。

イージス艦の情報漏洩事件も、男性を誘惑して情報を入手するハニートラップの可能性があるといわれています。なんだか心配な日本の危機管理体制。情けない。嘆かわしい。久間防衛大臣で大丈夫でしょうか?


谷垣禎一が総裁選に出るという。かつては加藤紘一の子飼いであったが、加藤の乱の後に加藤から離反し、自前の谷垣派を作ったが、古賀派に吸収されたように根性がない。官僚出身ではないが赤門、世襲議員。そして以前、中国の工作機関のハニートラップにはめられたと週刊文春にスクープされたことがある。

そもそもこの人、旧長銀に8兆円以上の公的資金を注入しながら、米国ファンド(旧リップルウッド)に、たった10億円で売ってしまった。しかも瑕疵担保責任付きだから、損失が出た場合、日本政府が損失を補填するという特約付きだったことがバレて、大問題になった。その時の政府の責任者であった金融再生委員長がこの人。

「谷垣禎一財務大臣、 中国人女性『買春』疑惑」

と題した、2005年12月1日発売の週刊文春記事によると、

宿泊ホテルの「西苑飯店」 のディスコで、声をかけられた中国人の美人女性を自分の部屋に連れ込んだ。1時間後に女性が部屋を出た後、中国公安部が谷垣のドアをノックした。公安は谷垣を別室へ連れて行き、部屋で何をしたかという取り調べをしたという。自由恋愛ではなく、娼婦を部屋に連れ込んで関係を持つことは売春法違反で犯罪になる。

事件が起きたのは1988年4月、谷垣禎一が北京で開かれた「第4回、日中民間人会議」に出席した時のことであった。谷垣は男盛りの43歳。 文春の取材は、日本側の参加者30余名を含め、中国でも取材をしたという。 それに対して谷垣は全面的に買春を否定した。ある時、文春記者が谷垣に取材すると「断固、否定する」と叫んだという。文春側は、日本の警察庁が作成した中国当局の買春リストに、谷垣禎一の名前があった事を入手していた。それに対して谷垣は、週刊文春の記事は名誉毀損だとして裁判を起こした。その訴訟内容は、親会社の文藝春秋に2200万円の賠償を求めた裁判だったが、結果的に裁判所は文春に330万円の支払いを命じた。判決は 「買春リストの入手経緯が明らかでなく、警察庁が作成したとは認められない」と述べ 「中国の公安当局による事情聴取の事実は存在しなかった」と判断した。文春はこの判決に対して「ニュースソースの秘匿という報道機関の責任を逆手に取る判決で、司法の現状に暗たんたる気持ちだ」 と論評した。

中国の外国要人に対するハニートラップ、つまり美人女性をVIPに接近させ、セックス買春行為の証拠をネタに恫喝し、中国の言う事に従わせることは、中国の常套手段だ。この種の罠は欧米人を含めて世界のVIPに中国は仕掛けているとされる。

言ってみれば古典的な外交スパイであるが、ある意味、それが非常な武器になるという。 中国の狡猾性と前近代的な社会構造を垣間見させる。
http://takejj.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-71f6.html


中国工作員 台湾潜伏5000人以上、米紙報道
2007.4.28 産経デジタルのニュース・ブログポータルサイト「イザ!」


米軍事専門紙ディフェンス・ニュース(電子版)は、台湾に潜伏中の中国工作員が「5000人以上に上る」とする林中斌・台湾元国防次官の話の分析を伝えた。このうち女性工作員の一部は、台湾の軍事拠点周辺の風俗店を足場に、現役軍人と情を通じて情報を収集する「ハニー・トラップ」を仕掛けるなど、中国の情報活動は台湾社会に深く浸透しているという。

 安全保障専門家の林氏は、こうした工作員がタクシー運転手として活動しているケースを直接確認したと指摘。スパイ摘発にあたる調査局に通報したところ、同局でもこの男をマークしていたと語った。「5000人以上」とする工作員数について、林氏は「最も控えめな見方だ」と述べた。

 さらに、調査局関係者の話として、同紙は最大の海軍基地のある台湾南部の左営など軍事拠点周辺のカラオケクラブで、ホステスとして軍人相手の売春行為に応じながら軍事情報を獲得する女性工作員がいると伝えた。
 タクシー運転手やホステスなどに身分偽装した工作員に対し、調査局や国家安全局など台湾の捜査・情報機関は動静を内偵するものの、中国当局への刺激を避けて身柄は拘束していないという。

 これまで中国の軍・情報機関は、1949年の中台分断から台湾側への工作員派遣を継続してきた。さらに同紙は、活発化する中台の経済交流を通じて、台湾の企業関係者や留学生が中国当局の協力者に仕立て上げられている可能性も指摘した。

http://tomisia.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_188f.html


「佐藤優によれば、福田は、ロシアルートではハニートラップに引っかかっていないということなので、中国・朝鮮ルートでしょう。福田も、谷垣と同じで中国のハニートラップに引っかかりまくっているのでしょうか。あ、ちなみに町村はどこでもハニートラップに引っかかっています。うそだと思うなら佐藤優に聞いてください。奴が下の世話してたんですから」(二階堂ドットコム)


 情報ソースが、「新聞の社説」といわれている町村官房長官。町村さんはどこでもハニートラップに引っかかるそうです。そういば、その手の話はよく聞きます。

「えり好みせずに、すべてのハニートラップにひっかかってみる。そうするとトラップの意味がなくなるのでないか?」と、妙な形で町村官房長官を庇うのがうちのボスです。


「実は、オレも中国や台湾、ソビエト(当時)で、ハニートラップにひっかかっていたかもしれない。しかし、これは誓ってもいいが、北朝鮮ではひっかからなかった」(当方のどうしょうもないボスの告白)

 というわけだ。こと中国に関して言うと、懐かしいけれど故・橋本龍太郎元総理大臣が最初に「ハニートラップ」にひっかかって、やや政局に影響をあたえた。しかし、その後、与野党を問わずにかなり多数の人が「ハニートラップ」にひっかかっているであろうとされる情報が、実はたくさんうちにきている。

 2009-12-12 22:50:37

民主新人議員は中国で全身マッサージを堪能したようです。

麻生はくだらねぇ事で叩いてたくせに
マスコミはこれ叩かないのか?


新人議員は夜も元気にみんなで全身マッサージwww
わざわざ中国まで行ってマッサージ受ける感覚がわからん


つーかこれだけの国会議員が日本にいなくても問題ないなら、事業仕分けの対象にしたほうがいいんじゃないかと思う

汚沢と共に中国に朝貢に行って全身マッサージを受ける、そして夜中の12時まで過ごしていたのか・・・スレにもあったようにマッサージがまるで隠語の役割を果たしていないのが何とも。すごくハニートラップのにおいがするなぁ・・・。


もう二度と帰ってくるな。

もうだめだ: 【ハニートラップ】民主党小沢中国朝貢団、夜はマッサージ店でお楽しみ♪

このインタビューに全身マッサージをやったと答えている横粂議員は東大卒のデキル人みたいだけど強かさとかは無さそうだな。議員として行っているのにその中でマッサージを受けるとか何考えてるんだか、こんなことを口にするなんて本当に東大卒なのか?程度が知れる発言だわ。

また本当に純粋なマッサージだったとしてもこれをインタビューで言ってしまう辺り考えが浅い、全身マッサージで夜中までって、性的なものと取られても文句は言えない。中国のハニートラップの話を噂ですら知らないわけではあるまいにあまりにも浅はか過ぎる。


その上中国訪問が自分への投資って、27、8にもなる良い大人が勘弁してくれ、いつまで学生気分、あいのり気分なんだよ・・・若々しいことと学生気分はまるで違うこととも分かってる?


横粂議員はきっとすごく正直な人、でも考えの足りない人。そして国会議員だという自覚が皆無な人だと思う。はっきり言ってあのタイゾーの再来じゃなくてそれを超える酷さなんじゃないか。

13日に帰国するらいしけどネット上で結構言われている状況に気が付いたらどうするんだろうねぇ?
http://kokohendarou.seesaa.net/article/135441906.html

中国の女スパイは、すごいベッドテクを仕込まれるらしい

アジアの特定の国(複数)に、たいした用もないのに政治家や官僚が
行きたがるは理由がある。 これが売国方程式だ。

視察訪問→接待→女スパイや公的売春婦と・・→闇献金→腐敗売国奴


日本の政治家の殆ど全員が、男女2人のエロチックショーを録画保存されているそうです。 中国に行った政治家は、見事に洗練されたスパイのエロチシズムに降参してしまうのです。

最上級ホテルの食堂の女性は、だいたい、売春婦同然です。
国内でも、これはと思う政治家は、このような女性を使ってのエロ工作にはまり、スパイに録画されるのです。
日本の政治家はホントにもてないので、ちょっとした工作員やその指揮する女性に身を任してしまうのです。

官でも、野本とかいう、あまり魅力的とも思えない女性に夢中になっていたように、政治家を落とすのは簡単です。
みんな、落ちているのです。みんな、裸ショーわみたくないばつかりに、心にもない中国への賛同を余儀なくされているのです。

戦後の日本でも現在でも外国要人が夜伽の女性を求めます。昔で有名なのはインドネシア元大統領のスカトノ、社交界のデビ婦人がかっては高級娼婦でありました。

現在でもっとも有名なのは「叶姉妹」これは中近東の所属酋長に夜伽用と飼育されています。外交機密費から報酬が支払われ、サ-ビスに感動したアラブのチップでリッチになったお二人です。サイボ-グの肉体をマスコミがチヤホヤするのが問題です。所詮パンパンです。

中国とか北朝鮮は元来人権の概念そのものが欠落しているので、日本からの訪中団には自国の適当なパンパンを国立大学生とかのインチキ証明書を発行し、さも有難いような演出の上に供応されたものです。

恫喝に恐喝は、現在日本で暗躍する黒社会の人間たちと本質が同じかそれ以上だから、機密情報を入手するのに手っ取り早く女性の肉体を餌にしたのでしょう。巧妙な接し方をするから世事にうとい外務省の職員は一晩で落ちます。

訪中・訪朝する人間たちに告ぐ。与えられたホテルの部屋は全て盗聴されている。女が欲しけりゃホテルの壁に向って独り言を囁くがいい。「女が欲しいと・・・」さすれば、深夜ドアを「コンコン」とノックされる。裸身にコ-トを羽織った女がね。

中国の日本大使館から、車で数分だろうか。そこには「中国共産党経営の、共産党幹部や外国要人接待用のクラブ」がある。クラブといっても、実態は売春クラブなのであるが・・・

 ここには、一般人は100%入れない。そして、看板も一切出ていない。ただ、建物の前には機関銃を持った兵士が立っていて、中国共産党が特別に許可した人物のみが入れる仕組みとなっている。ボディチェックを受けると2階に通される。そこには大広間があり、100人以上の美女が、胸に番号をつけて立っているのだという。なんでも、整形をしていない、本物の美女だそうだ。その秘密クラブで接待させるだけのために、美男美女を集めて子供を産ませている”美女の産地”があるというから、偉大な私利私欲の国、中国は驚くことばかりだ。

 話がそれた。その秘密クラブの2階から女の子を横目に1階に降りると、個室がたくさんある。カラオケクラブになっているのだ。ここには当然、世界各国の歌が歌えるようになっている。ここで、2階にいた美女の誰を呼ぶか、選択することが出来る。

 話によれば、10月下旬にある日本人の経済人のトップ、くるまやのオヤジが秘密クラブに来たそうだ。というのも、そのオヤジは当日、クラブに来る前に別の場所で会食をしていたのだが、会食上で横に着いた女の子(ただの給仕)を”それ系の女”と勘違いして、膝を触ったりとエロオヤジ度満開モードに突入してしまったため、予定を繰り上げてその売春クラブに早く来たそうだ。

 また話がずれた。売春クラブの1階で女を選んだ車屋の親父は、すぐに女を選んで、3階に上がっていったという。3階はベッドがある本当の個室だ。ただし、

 「カメラもマイクもついてるよ」

 というのは中国公安関係者。要するに、シナに土下座礼賛して乗り込んだ車屋のバカオヤジが、接待されて中国共産党の女をヤってビデオに撮られてしまったという話だ。橋本龍太郎が中国スパイを愛人にしていたことは有名なはずだが、車屋のオヤジはたぶん新聞を読まないのだろう。

 この中国共産党経営の売春クラブにいる女は、「半分は中のみで遊ぶ女、半分はお持ち帰り可能な女」であり、どちらの女かは胸についている番号札の大きさで判断できるらしい。ちなみに、「病気は完全管理しているから本当に安心(前出:関係者)」だという。

本サイトは、逆に、中国でそんなバカなことをしている経済界関係者は、病気にでもかかって死んでしまったほうが日本国のためにいいだろうと思っている。それなりの地位の人間が、他国で女を抱けばビデオに撮られるということくらいは知っているべきだろう。次に中国に行った際は、二度と帰ってこないよう祈るばかりだ。

橋本龍太郎首相(写真右)との不倫関係とスパイ問題が取り沙汰され
る中国人女性Aが昨年12月3日、東京地裁で証言、彼女自身の口から「公安当局にいた」ことが暴露された。

 しかもその術中にはまって橋本首相は26億円もの無償援助を中共に対して行うハメになるというを一女性の“色仕掛け”で国益を損ねていたという過去が次々と明るみにされている。もはや一国の首相の権限はなく“嗤わらい者”として晒されている。

 東京地裁での裁判自体は永田町周辺に出回った怪文書が発端となっている。怪文書はAとその前夫との離婚の原因となったのが橋本氏との不倫関係だったと暴露し、しかも橋本氏がAと現在の夫となっている日本人の結婚を取り持ったとする内容。

 怪文書にAと現在の夫が激怒、怪文書に前夫が関わっていると週刊誌上で発言し、これに今度は前夫が激怒して週刊誌の発言が名誉毀損に当たると起訴した。 一方、Aが「公安にいた」と証言したことについて自由党の西村眞悟
代議士は1月20日の衆院予算委員会で、橋本首相を質すと首相は「衛生部通訳」と言い張るだけ。しかも「人妻のプライバシーに配慮して欲しい」などと言い出す始末。

 また、月刊誌「諸君!」6月号は「橋本首相『中国人女性』とODA26億円の闇」と題するレポートを発表した。

 同レポートは大宅賞作家のジャーナリスト加藤昭氏が2カ月に亙る北京・長春現地取材を通じて橋本首相と中国人女性との関係を克明に暴いている。

レポートは、橋本首相が単なる通訳とする中国人女性Aは中日間で合意された無償援助プロジェクトの項目(実務)責任者で、北京市の中日友好病院と長春市の白求恩医科大学付属病院の2つの病院に対して日本からの無償援助を引き出すため、橋本に接近、2つのプロジェクトの折衝と接待係の役割を演じたという。

 しかも加藤氏は取材過程で白求恩医大病院のパンフレットに88年8月13日に病院建設計画の実状調査のため訪れた橋本を囲んでの写真を入手している。この時の橋本は自民党幹事長代理。臨時国会会期中だったがわざわざ国会に「請暇書」を提出し衆院議長の許可を得て訪中。

 当時、駐日中共大使館に在籍していたはずのAも同行、病院のパンフレットの写真に橋本と一緒に収まっていたのだ。

 西村代議士は4月30日の衆院本会議でこの問題を追及。

 「衛生部と公安部、いずれにしてもその人物は中国の公務員であったことは事実。中国政府高官も雑誌に実名で『彼女に与えられた最大の使命は中日間の巨大プロジェクトであるべチューン(白求恩)病院の建設を成功に導くこと。

   そのために彼女は表面上衛生部通訳として橋本先生を担当したのです』

  と述べている」 とした上で、首相とAとの交際実態について弁明を求めた。 これに対して橋本首相は

 「通訳として彼女が知り得たことは別として政治家としてあるいは閣僚として国益を損なうような話をしたことはない」 としらを切った。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/H10/1005/100535hashimoto.html


問題の中国人女性の元同僚の申光女史は、こう証言している。

「彼女が単なる通訳という表現はあたりません。彼女は実際、衛生部外事処内の決定によって、中日間で合意された無償援助プロジェクトの項目責任者に指名されています。担当したプロジェクトは二つです。

一つは北京市の中日友好病院のための日本からの無償援助。もう一つは長春市の白求恩医科大学付属病院に対する無償援助。いずれも大規模かつ重要な建設事業でした」

橋本総理と『親密な関係』になった問題の中国人女性は、橋本総理が国会で答弁しているような単なる通訳ではなく、日本からの無償援助によって二つの病院の促進を図るための「項目責任者」という特別な任務を担っていたということだ。

特別の任務を担っていたこの中国人女性は橋本総理にどう接してきたのか。

「そこが中国の行政システムの独特のところで、簡単に言えば、無償援助を受ける国の言葉を話せる人間、たとえば相手国が日本なら日本語を理解できる人間が、対象プロジェクトの担当者、すなわち項目責任者と通訳を兼任しているという、極めて合理的なシステムなのです。従って、表向き彼女は橋本先生の通訳として行動するのですが、実際はできる限り先生に随行する機会を増やし、自分に与えられた項目責任者としての任務を促進させるべく先生に働きかけるのがその役割なのです。

「こうした役割を担った通訳のことを中国では『陪同翻イー』(ベイトンファンイー)ト呼んでいます。橋本先生が彼女の身分をどう解釈していたはともかく、彼女にとって先生は間違いなく陪同翻イーの対象としての存在だった、とよいと思います」(申光女史)

この申光女史の証言は極めて重要である。橋本総理は、項目責任者としての特別の任務を担っていた問題の中国人女性を単なる「通訳」と思い込んでいたばかりか、日本からの無償援助を引き出すための工作対象者として、工作を受け続けていたのである。問題の中国人女性は、通訳や「情報部員」などちうものではなく、明確な目的を持って日本の厚生族の「新御三家」の一人である政治家・橋本龍太郎に接近した工作員だったのだ。

工作員である問題の中国人女性は、特別の任務を達成するために自らの肉体を武器に橋本総理との間に『親密な関係』を結んだ、という構図だ。

駐日中国大使館元参事官で、文化部中国対外文化連絡委員会(現・文化部対外文化連絡局)の司長(次官)にあった元中国政府高官は、こう証言している。

「私が知る限り、二人が『男女の仲』であることは疑う余地はない。そんなことはすでに周知の事実だ。だが、彼らが親密な間柄だからといって、一体何が問題なのか。彼らが肉体関係を持っていたからといって、中日両国の法律に抵触したわけではないし、両国関係の悪化を招いたわけではない。合理合法なのだ」

この中国側の証言で問題の中国人女性が日本からの無償援助を引き出すための工作員として橋本総理に接近したことは事実である。中国国内では問題の中国人女性の行動が「合理合法」であったとしても、その工作を受け続け「個人的交際」を国会の場で認めた橋本総理の、日本国の指導者としての資質の欠如は明らかである。十年以上も工作を受け続けた橋本総理は、無知、無防備、外交音痴、脇の甘い政治家と言わざる得ない。

これまで永田町では橋本総理の女性スキャンダルについて「橋本さんの女性スキャンダルは免疫ができているから問題にならない」(自民党関係者)といわれてきた。しかし、今回の中国人女性スキャンダルは、単なる女性スキャンダルでは済まされない問題をはらんでいる。かつての宇野宗佑総理(当時)の「三本指女性スキャンダル」とは、背景も本質も全く次元が違うのである。

要約すれば、わが日本国の橋本龍太郎総理大臣は約十年間にわたって、中国の女性スパイ(工作員)の工作を受け続け、ODA二十六億円を中国に拠出したのである。しかも、この間、中国人女性工作員との間で肉体関係があったと中国側から証言されているのだ。
http://homepage2.nifty.com/tatsumi1123/back/H10-nagata/nagata114.html


32. 2010年2月04日 23:35:45

最後に総括しておきます.


黒幕の昭和天皇(?)を庇う為に色々な人が与太話を広めています:


「南京事件ではお恥しい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。

 私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった。

 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。

 従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」
http://www.geocities.jp/yu77799/gunjin.html#matuiiwane


松井石根は処刑される時も本当の事が言えなかったんですね.


南京大虐殺の真相

長勇大佐は、或る日田中隆吉に語った。

「南京攻略のとき、私は朝香宮の指揮する兵団の情報主任参謀であった。
上海附近の戦闘で悪戦苦闘の末に漸く勝利を得て進撃に移り(中略)

 自分は通州於いて行われた日本人虐殺に対する報復の時期が来たと 喜んだ。直ちに何人にも無断で隷下の各部隊に対して、これ等の捕虜を皆殺しに すべしと命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電話により伝達した。
(中略)
命令の結果大量の虐殺が行われた。ただし逃亡するものもあって、皆殺しと言うわけには行かなかった。

自分(長勇)は此れによって通州の残虐に報復したのみではなく、犠牲と成った無辜の霊を慰めえたと信じる」
田中隆吉『裁かれる歴史』より(中公文庫)
http://esashib.hp.infoseek.co.jp/nankin01.htm

「私の見た南京事件」奥宮正武PHP研究所 P46〜47より
-------------------------
わが陸軍関係にも次のような記録がある。
昭和十二年(一九三七)八月から翌十三年三月まで、松井石根大将の専属副官であった角良晴大尉(陸士三十二期、終戦時には大佐で台湾にいた第九師団参謀長)の回顧録を遺族がまとめた図書『七生賦』(自費出版・非売品)には、次の記事がある。

「南京は思ったより困難なく攻略できた。
下関に十三万人の支那人が対岸の浦口に渡れずに残った。

これに対し、第六師団から、
『どうするか』
との電話があった。

第二課長長参謀(中佐)(筆者註 長勇中佐は、中支那方面軍と上海派遣軍の参謀を兼ねていた)は、
『ヤッテシマエ』
と返事した。

私は、すぐ本件を総司令官に報告した。
総司令官は長参謀を呼ばれて、
『十三万の支那人を殺すことは許さぬ、直ちに解放せよ』
と命令された。が、長中佐は、
『この中には軍人も混ざっております』
と言った。総司令官は、
『軍人がいてもかまわぬ、却って軍紀がよくなってよいだろう』
と言われた。

長中佐は、
『ハイ』と言った。が、二度目の電話でも、
『ヤッチマエ』と命じた」
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/16618/bbs_plain?base=24490&range=1


たかが一介の中佐がそんな大それたことをやる筈もないのですが,昭和天皇が命令したことが明らかになると,昭和天皇が処刑されるだけでなく,天皇家自体が廃絶される事になりますからね.

まあ,隠そうとしても,みんなわかっていた事なんですけどね:


鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。

沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)

 南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。

とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。

命令が出てなかったらこっちはしませんよ。

北支の戦争では「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。だから北支は戦争しにくかったです。

 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。それももちろん命令があったからです。皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/


しかしカモフラージュに30万人も殺して,南京から略奪した金銀財宝は今どこに有るのかな?


33. 2010年2月04日 23:49:01

本当かどうか知らないけど:


第二次世界大戦が終結する数ヶ月前、フィリピンにおいて、山下奉文将軍はルソンの山々で遅延活動を闘っていた。一方、日本の皇室の皇子たちは未来にそなえて準備していた。彼らは略奪した金の延べ棒と、また別の盗んだ財宝を近くの洞穴やトンネルの中に隠すことに忙しかった。

それらは後に発見される運命ではあったのだが。これらは数千年にわたり集積されたアジアの十二の国々の財産であった。日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。そして一般人からも奪った。

一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.

どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。しかし、これは偽情報である。

 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。

日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。

日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?

 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。読者がお気づきのように、これは真実ではない。天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。

 日本はひどく痛めつけられ、戦争が終わったときには、かろうじてどうにか食っていける状態だったと、わたしたちは告げられる。事実は、驚くほど少ない工場と住宅しか破壊されておらず、それもひどい損傷を受けていなかった。そして、インフラストラクチャーの損害はわずかだった。広く世間に知られている損害のほとんどは、普通の日本人が住んでいた数百万軒の紙と木でできたマッチ箱のような家だった。彼らの苦悩は大君主たちの見解には加えられていなかった。

 日本を共産主義に対する防波堤にしようという切迫した必要性に取り憑かれていたので、ワシントンは戦時の指導者たちと皇室のメンバーと金融のエリートたちが、十二のアジアの国々を破壊し、窮乏状態に陥れたことに関して、いかなる責任からも免責した。

わずかに日本の戦争中のエリートたちがスケープゴートとして死刑に処せられた。幾人かは指導者たちの安らぎのために、責めを負って強制されたり、濡れ衣を着せられた。戦後の占領の終わりの頃には、すべての日本の戦犯は自由の身になった。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


34. 2010年2月05日 13:38:36
>>23

                   _____________
                  /こうやってもっともらしい捏造ネタを投稿してると
   ((/ ̄ ̄ ̄ ̄ミ彡    /  低学歴のバカどもが信じてシナ嫌いになるぞ。
  `ミ(     狼  )  <  こんなおいしいアルバイトは他にないズラ。
   |.   ー◎-◎-)   \______________
   (6     (_ _) )    カタカタカタ
   | .∴ ノ  3 ノ  ______
    ゝ       ノ  .|  | ̄ ̄\ \
   /       \__|  |    | ̄ ̄|
  /  \___      |  |    |__|
  | \      |つ    |__|__/ /
  /     ̄ ̄  | ̄ ̄ ̄ ̄|  〔 ̄ ̄〕
 |       | ̄


 


35. 2010年2月05日 22:11:26

ここのB層さんは一つとして反論できないんだね.

36. 2010年2月05日 23:27:55

アメリカが主導した昭和天皇の戦争犯罪の証拠隠滅


昭和天皇と731部隊

欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?
 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?
 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。
 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?
 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)
 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。
 (昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)


・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。

・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)

・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。
 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)

・『731部隊−天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。

・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)

・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。

・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。

・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。

・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。

・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。

・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。

(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)

※ハリスは天皇は絶対的君主ではなく、軍部に対して受身的な役割を演じたと述べている。
また、天皇は人体実験については知らなかったであろうと言っている。
 私自身はこの見解に大きな疑問を感じている。

・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html


・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。

・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・
 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。

・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。

・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)

・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。

 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)

・『731部隊−天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。

・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・
 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)

・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。

・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。

・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。

・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。

・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。

・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。


(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)
http://blog.goo.ne.jp/bu0007/e/d50e9884ddffb2319b4e497cd795659c


37. 2010年2月06日 04:55:06
南京が「反日の根拠地」だと思っている日本兵なんているのかよ。

当時の日本兵は南京は「中国の首都」だと思ってたんじゃないのか?


38. 2010年2月06日 10:07:23
上海戦の中国軍は強かったし,ゲリラに悩む昭和天皇が流したデマでしょうね:

福田治夫(1915年10月生まれ)
第16師団歩兵第9連隊 第2大隊

 一週間ほどして南京からいくらか離れた南西方向の裕渓口に駐屯しました。聯隊で下がりました。

そこは夜でもうっかり寝てることできませんのやで。子どもとか年いったお婆さんまで、抗日排日の教育で手榴弾かくして持って、宿舎に入ってきたのが子どもですやろ、こっちは油断しますわな。寝てる所に放り込まれるのが再々あってね。

「子どもにしても年寄りにしても誰でも全部殺してしまえ」と聯隊長の命令がでました。

二人とか三人とかの百姓を捕まえてきて、「そこらに兵隊はおるかおらんのか」などの尋問して地形を聞いて、後は殺してしまうんです。

クリークの縁に連れ出して、そこに座らせました。将校は、めったに刀で首切りなんてできへんのやから、軍刀持ってるさかいに試し切りをするんです。私ら兵隊は突き殺しました。鉄砲の弾できるだけ使うなと言われてました。

野田典吾(1915年11月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 連隊本部

 上海の白茆口に上陸した時すぐ松井石根大将が、この地方は共産党思想が強いのであらゆる者は殺せと指示したと聞きました。その時、野田聯隊長がそれを聞いてだめだと言ってました。十七日の入城式は朝香宮が南京に入ってこられましたな。


安藤猛治(1915年4月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 大隊砲

 上海から南京までの間には、共産党が多かったんで、あんまりいい命令は出なんだな。「見付けしだいにやっちまえ」ちゅうようなことでな。じかに聞いた話ではないけども、そんなふうに感じたな。

大川護男(1916年4月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 大隊砲

反日の思想が強いので全部殺してしまえという部隊があったと聞いている。その証拠に武器なんか隠してるかちょっとおかしかったら家を全部焼いてたわな。上海から南京に行くまで、自分らはいつも後方部隊やから、燃え落ちた後の部落を通った。


徳田一太郎(1914年6月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第2大隊

 南京に向かう途中どこの戦闘だったかは忘れたけれど、部落があってあそこに共産党がいるということで、上から「負傷者に関わらず全部共産兵なので、全部殺せ」と命令してきたんです。それで部落に火を点けるとな、後ろから煙が上がってきました。その中から「オギャーオギャー」と赤ちゃんの泣き声が聞こえてきました。


中田清次(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第3機関銃中隊

 中島師団長という人は剛胆な人で、「支那の家を全部焼いてしまえ」と言いましてな。白茆口へ上陸した時です。

「ここは抗日の一番ひどいとこやから各部落の家は全部焼け」とも言いました。

私も上陸してから露営して、すぐに家を焼きました。仲間内で伝わって来ましてな。「師団長が言うたんで、やってしまえ」と。まぁでも後から来る兵隊は泊まるとこがなくなるので、焼くのを中止してくれとなってね、無錫からは焼くのはやめました。

 中島師団長はそういう人ですので、支那兵はみんな殺してしまえと、二十聯隊か三十八聯隊か九聯隊か知らんけど、そういうことをやりましたでしょうな。それが問題になったわけです。反日運動が盛んやとは聞いてましたけど、「徹底抗戦」とか「抗日」とか白壁に書いてました。南京に行くまでの至る所に書いてましたな。「日本悪鬼」って書いてましたな。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/mondai/gyakusatu.html


39. 2010年2月06日 10:25:52
まあ,こういう事情ですから:


もと陸軍中将、第59師団(衣部隊)の師団長だった藤田茂氏は、八路軍と
戦った自分自身の体験から次のように述べています(季刊『中帰連』第16号):

俺は衣部隊の師団長をやっていたが、山東省の解放地区では八路軍にほとほ
と手を焼いた。当時の判断を言うと、俺はあと一年と山東地区では日本軍は
もつまいと思っていた。衣部隊全滅を覚悟していた。

討伐に行くと八路軍は逃げてしまって、こちらの損害ばかり積み童なってゆく、とうとう旅団長一人は狙撃されて戦死だ。

(中略)実際問題として、ソ連相手の北進を命じられた時、私はほっとした。ゲリラ戦で次第に戦力を消耗させられるよりも、満蒙で大いに戦った方がすっきりするという感じだった


藤田氏は、八路軍と日本軍の違いについて、こう述べています:

日本軍に昔から苦しめられてきた住民にとっては八路軍はまるで後光がさし
ている軍隊に見えるわけだ。

家を出てゆく時には、瓶に水を一杯くんで、全部掃除をし、塵ひとつ残さんようにしてゆく、昨晩の泊まり賃も置いてゆく、食物代もいくらいくらと精算してゆく、子供はいたわる、老人は大切にする。

こんな軍隊を私は見たことがないわけだ。日本軍が行けば、銃剣で脅かして、
米を出せ、麦を出せ、薪を出せ、出さぬと家に火をつける、女は強姦する、
手がつけられない。当然、八路軍さまさまになってしまう。

http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/hatsugen/nicchuu-hachiro.htm


40. 2010年2月06日 21:17:48
すべては昭和天皇が一人で考えてやらせた事だった:


昭和天皇は、自分の恋(つまり後の良子(ながこ)香淳皇后との恋)を成就させるために、右翼勢力の力を借りた。そのために右翼の台頭を許してしまい、かえってみずからの統帥権をその右翼壮士らに脅かされる事態になったので、その動きを壊滅させるために、右翼の首領で日本政治に隠然たる力を行使していた頭山満を使って2・26事件を起こさせ、一気に理屈をこねる右翼を壊滅させたと鬼塚氏は見る。そして自らの統帥権をしっかりと把持すると、いよいよユダヤ国際金融資本の陰謀に乗せられて、支那大陸へ、東南アジアへと戦争を仕掛けていくのである。

 昭和11年2月が2・26事件であり、翌年8月には第二次上海事変が起きて、一気に支那事変が拡大していく。

これを見れば、あきらかに天皇や財閥が、支那へ戦争を仕掛ける意図をもって、事前に2・26事件を起こしたらしいことが見てとれる。

昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。

「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。

ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。

 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。

大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。

だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。

http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


41. 2010年2月06日 21:34:21

2・26事件は為替相場を不当に操作するためのものだった.
2・26事件が起きると、当然のことながら日本の国家信用が落ちて、為替や株価が暴落した.

もし、天皇があらかじめ為替や株価でも儲けを企図し、シナリオを書かせていたとしたら、事件で暗殺される「重臣」たちが青年将校らによって殺されることも計算のうちに入っていた、あるいは気に入らない「重臣」を消すために事件を起こさせたとも考えられる。

青年将校らにとっては、いわば天皇親政によって昭和維新を断行するのだと夢見ていたのだろうが、実際の天皇はそういう人ではなかった。つまり天皇は飾り物にされ、周囲の奸臣・奸官に取り巻かれているから正しい政治が行われないと善意に解釈していたが、そうではなくいわば

奸凶は天皇自身だったのである。


 2・26事件がおきると、天皇はその40分後には情報を得て、ただちに彼らを反乱軍と断じ、鎮圧を命令している。決起した将校らにしてみれば、天皇にまさかの裏切りにあったのである。しかし、この天皇の裏切りは、「将校らにしてみれば」なのであって、私は彼ら将校は天皇・財閥側が仕掛けたワナにハマっただけではないかと思う。

天皇は、決起将校らを私利私欲に基づくものと激怒したが、当の将校らは無私の心で決起した心づもりだから、まるで話がかみあわない。むしろ、天皇のほうが、私利私欲で自分の資産の運用だけの思惑で動いていたのだ。


なにしろ、戦前の天皇家は世界一の金持ちとも言われるほどの天文学的資産家であった。天皇は、大財閥や主要銀行、大企業などの大株主であったから、国家から予算として年額150万円を支給されていたとは別に、その配当は巨額なものであった。

だから戦争をやれば、こうした大企業が巨利を得ることになり、それがそのまま皇室の持ち株への巨額配当となって返ってくる仕掛けだった。事変=戦争を起こし、植民地で搾取すればするほど皇室の懐が潤う仕掛けである。

だから天皇家は、日本が満州事変、支那事変、大東亜戦争へと打って出ることに反対しなかった。2・26事件の将校を断罪するなら、なんで満州事変や支那事変を主導した軍部を断罪し止めなかったのだ? 
それは昭和天皇が、立憲君主ではなく、実は専制君主であったからであり、実際、戦争に反対するどころか積極的に戦争を押し進めた。

大東亜戦争中は、なんと宮中に大本営を置き、作戦を指揮し、認可していたのが真相である。

2・26事件のときだけ政治的に介入し鎮圧を命じて、あとのときはすべて「君臨すれども統治せず」を貫きとおし、終戦のときだけ仕方なく決断したなんてことがありようか。天皇は本当は相当程度政治に介入していたのだ。

「日本人が知らない恐るべき真実」というブログサイトにも「天皇の蓄財」(2006年8月25〜28日)という恐るべき内実を暴露した記事が書かれている。
 http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825
 これによれば(元の資料は『天皇のロザリオ』から(後述))、

昭和天皇は1944年1月には、参謀総長と軍令部総長から日本の敗戦は必至であることを聞かされている。それから昭和天皇は、自らの資産を銀行に指示してスイスに移すのである。

その措置が終わり、資産を連合軍が保障してくれることを降伏条件にして終戦工作を始めたのである。つまり、44年初頭には敗戦がはっきりしていたにもかかわらず、天皇は自分の地位と資産のために1年半も戦争を引き延ばしたことになる。

それがポツダム宣言受諾の際の「国体の護持(天皇の助命)を条件として受諾する」と言った中身であった。
 
戦争末期に特攻などで死んでいった人たちは、皇室の私利私欲の犠牲となったまったくの犬死にでしかないことになる。
http://210.165.9.64/hienkouhou/e/020c6f19d11b964c216eec6ada8d047d


42. 2010年2月06日 21:41:49

2・26事件に話を戻せば、事件が起きることを天皇はあらかじめ知っていたのではないか。財閥から情報が入っていたに違いないのである。というよりも、そもそも天皇と財閥(とその代理人)が2・26事件を仕掛けたと見るべきではなかろうか。

事件発生から終息までの2日間もちゃんと前もって計算されていたのであるまいか。仕掛けた闇の勢力は当然、真崎らがどう動くか、どう終息させるかも読んでいたか、指示していたに違いない。

 クーデターが起きれば為替も株も暴落するのは、あらかじめわかりきった話である。それをあえて事前にわかっていながら反乱を阻止しなかったこの不自然さ。反乱を起こす予定の将校らには財閥から資金が流れていたし、将校らには官憲が張っていたのだ。彼ら将校は六本木第一師団司令部(防衛庁跡地)前の中華料理屋でしきりに会合(飲食?)を開き、談論風発をやって、決起、決起と気勢をあげていた。それが官憲に筒抜けにならないわけがなかろう。それなのに、将校が事件直前に弾薬庫から実包(実弾)を運び出しても黙って通過せているのだから、こんな見え見えの策謀はない。

皇室も財閥も「クーデターによって為替の相場を下落させて、売買の操作によって利を求めるドル買い事件にすぎなかった」この2・26事件を、すべて芝居でやらせたのではなかったか。

つまり、すべては財閥と天皇の書いたシナリオに従っていただけで、すべては企画された事件だったのではあるまいか。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/6863442c2632a11902486caa91a0cb55


43. 2010年2月07日 22:26:01
おーい アホ丸出しのひきこもり工作員。

もう転載記事はネタ切れかぁ!

そろそろ、反撃の狼煙上げたいけど、もう少し待つわ。

早くネタ元から記事を貰いなよ。(ネタ元もわかってるけどあとで暴くわ)

100ぐらいコメント貼り付けたら、はじめるからさぁ〜 まってるよォ〜

しかし、小作・・工作時間帯

見ると、引きこもりじゃなく、いじめに遭ってるサラリーマンかもなぁ。

多重債務に苦しむ奴かも・・

もっとネタ貼り付けろや!

早くしないといじめちゃうよぉ〜

女子に相手にされない、エロエロの独身禿げかもなぁ。

想像するだけで反吐がでるが、なかなかやめられん。

あんたと同じ、オナニー小僧の素質が俺にもあるかもな。

楽しみにしてんだから、早く貼り付けろや!

二重投稿でコメント数増やそうとしたら、逆札しちゃうよ。



44. 2010年2月07日 23:40:56
工作員君 必死だね.

リクエストに答えてこれも貼っとくね:


日本は海外に巨大な権益を持つ帝国主義国であるがアメリカの屈辱的な植民地的隷属下にあるという特質を持っている。

 このような日本社会のさんざんな崩壊状況は第二次大戦に根源がある。あの戦争では320万人が犠牲となった。あらゆる家族で親類に戦死者がいないところはないというほど殺された。あの戦争は天皇を頭とする独占資本集団が、国内をさんざんに搾取収奪して、狭隘な国内市場から海外に求めて侵略につぐ侵略、戦争につぐ戦争を繰り返し、最後に中国への全面侵略戦争を引き起こし、米英仏蘭列強の植民地争奪戦に突入して敗戦となったものであった。

 ところがアメリカの対日参戦は、アジアをファシズム国の侵略から解放するためでも、社会主義ソ連とともに日独伊ファシズムとたたかって民主主義の世界を実現するためでもなかった。アメリカは中国市場を奪う野望とともに、日本をたたきつぶし単独で占領するという明確な計画を持って臨んだものであった。

 そして天皇をはじめとする独占資本集団、政治家や官僚、大新聞など、戦争を指導してきた支配層は、人人には「鬼畜米英」「一億総玉砕」などとあおり立てながら、実際には「国体の変革」すなわち人民の革命を恐れ、米英に救いを求めていった。自らすすんでアメリカによる日本支配を担うこと、日本の民族的な利益のすべてを売り飛ばすことによって、自分たちの支配の地位を守ってもらう道を進んだ。

 現在むき出しにあらわれた日本社会の植民地的隷属状態は、日本の政財官界から新聞界などあらゆる支配勢力が、アメリカの利益のために自ら進んで日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばしてきたことによって進行した。

かつて旧満州を統治するのに六〇万余の軍隊を必要とした。かつてマッカーサーは「天皇は一〇〇万の軍隊に匹敵する」といったが、四万人ほどの米軍で日本を隷属支配しているのは、アメリカの意向をくんで自分から進んで働いて地位を得るという売国的な支配勢力の存在があるからである。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/anpokaiei50nensengo65nenwotyokusi.html


45. 2010年2月07日 23:58:11

アメリカの完全なる属国に 戦後の日本社会

 A 第二次大戦後の日本社会の基本構図をみなが実感している。日本は帝国主義国であるがアメリカの完全なる属国だ。高度に資本主義が発達した植民地。先進資本主義国が植民地になっているのは歴史上も例がない。

日本の独占資本やその代理人たる政治家であれ、官僚であれ、日本の支配機構を使って植民地支配してきた。この支配階級の売国性がすごい。アメリカに身も心も売り飛ばして、日本の民族的利益を根こそぎ売り飛ばした。ブッシュは「日本支配がイラク占領のモデルだ」と公然と主張したが、そういうことだ。

 日中戦争で満州を支配するのに、関東軍は60万人配置されていた。ピーク時には100万人だった。外国を占領しようと思ったらそれほどの人員を要した。

日本国内に駐留している米軍は4万〜5万人。それなのにどうして支配できるのかというと、日本の支配機構を使っているからだ。

大新聞も戦争を煽り上げた反省もなく、戦後は廃刊にもならず、そのまま何もなかったかのように発行しはじめた。同じ敗戦国のドイツは新聞はみな廃刊になった。日本は廃刊になったところは一社もなく、そのまま機能しはじめた。天皇制もしかり。財閥もそう。


 D ドイツの場合は独立性を持っている。日本はまるきり隷属。この違いは何か。

ドイツは連合支配だった。日本は単独占領だ。そのための原爆投下だった。

ドイツはアメリカもいるがソ連もいるし、フランスやイギリスなど欧州の国国もいるなかで共同管理になった。一国がなにもかも隷属させることはできなかった。

日本はアメリカの思う通りに戦後の大改革がやられた。単独占領は原爆によってもたらされたものだ。


 A 戦後64年たった日本の現状を、死んだ320万人の霊は何と思うかと、年寄りは語っている。

「何たる様か」「顔向けできない」と。戦時中の日本人の苦難を思うと、まさに人間が虫けら同然だったわけだが、今も虫けらだ。

誰が虫けらとして扱っているかというと、アメリカであるし日本の支配階級だ。あれほど全国空襲で焼き払って、戦地で餓死させた連中が、引き続き労働者はまともな生活ができないモノ扱い。年寄りが長生きしたら国賊扱いをする。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/hinnkonntodokusaitosensounometubousurukunini.html


46. 2010年2月08日 00:41:40


俺は忙しくてそんな暇ないから これでも読んでてね:

アメリカの正体
http://www.amezor.to/shiso/051122235155.html


47. 2010年2月08日 11:39:35
>44

素晴らしい!洗脳されそうだ!
もっと貼れよぉ〜

パターンが読めて面白くないぞ!
工夫しろ。ネタ元変えろ、思想のだよ!

照らし合わせてるけど、そのまんまじゃねーか!

対極の貼り付けで、佐藤優の日本国家の神髄でも貼っちゃうぞ!

それじゃーおもしろくねーべー。

考えろや、自分の頭で。はやくしろ!

自分の想像力もっと働かせて!

こっちは昼休み利用して見てやってんだからよ〜
さ、魚定食、食おっと。


48. 2010年2月08日 20:06:26
もう,こんなのしかないんだ:


1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社、日本郵船が創立されました。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていましたが、欧米への支払いに当てる資金が日本にはありませんでした。

そこで福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与えました。

賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行しました。(福沢諭吉全集 第15巻)

1900年初頭から天皇の命令の下、「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」という宣伝が日本全国で大々的に行われる事になりました。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた事は言うまでもありません。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人と言われております。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員であれば10数年分の給与を手に入れていたのです。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだわけです。

その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられましたが、大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」されました。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来ました。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者なのです。

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁されました。

そして売春を強制されました。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。
数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。
これが従軍慰安婦の原型とも言えるでしょう。

日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化しまた。

この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設することになりました。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参加のお礼」として建設されたしろものです。
(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。

また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する事に至りました。

こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で1億ドルを超えると記録されています。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していたただのどぶ鼠野郎です。

戦争中、全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で「無給」で重労働を行っていたのです。

そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していたわけです。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」という巨大な壷に蓄財されたといわれています。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争は天皇の個人的蓄財のために行われていたのです。

この問題を調査したエドワード・ベアは、「天皇一族は金銭ギャングである」と吐き棄てるように語っています。(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)

1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族は、この蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、海外に蓄財を「逃し」始めました。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、スイスに850万ポンド、ラテンアメリカに1004万ポンド等、広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念していたのです。

この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしています。(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)

広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本をどのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金を繰り返していました。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そしてスイス銀行まで遠路運搬されました。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されている最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路アルゼンチン、スイス等に運び出していました。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など何も考えていない事は明白である。(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」マルジュ社)

なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?ん???

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行くことになります。

天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の金融ビジネスマンで、そしてここでも「何故か」CIAと天皇は「共同経営者」であります。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めますが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーがユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行でした。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族の蓄財を隠していました。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であったわけです。(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 ベストセラーズ 及び、濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)

1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立さましたが、日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し、それを禁止した法律であった事は知られていません。

天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉があります。

「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言です。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止、それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのです。
天皇一族は神でも「象徴」でも無く、人間のクズの集団でしかありません。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。

http://cosmo-world.seesaa.net/article/118366403.html


49. 2010年2月08日 23:25:48
お疲れ!そして有難う!

でも、ロス茶の工作通信まんまじゃなくて、リライトってもんがあんだろう・・悲

明日もまた期待してっから頑張って。

ところで、岩屋梓梁って知ってる??



50. 2010年2月09日 20:45:20

窪田氏の主張では、岩屋梓梁はまたの名を橋口弥次郎佐衛門兼清といい、室町時代に薩摩の伊集院に生まれた人物だそうです。
武田信玄・上杉謙信・豊臣秀吉・徳川家康などの英傑を子孫として残したとされ、室町と安土の間に易断と呼ばれる政府を作り、この時代の重要事件にはことごとく岩屋梓梁が関わっているとされており、従来の「日本史」はそういった事実を徳川幕府が隠蔽しようとして作り上げたものとされています。


岩屋天狗と千年王国〈上巻〉 (単行本)
窪田 志一 (著), 岩屋梓梁顕彰会 (編集)

自ら弥勒菩薩の再来を名乗り、謎の忍者集団・真方衆を組織して近世初頭の日本に不可視の帝国を築いた世界巨人・岩屋梓梁=弥次郎。薩摩より身を興し、伊豆半島の一大鉄砲製造基地設営、タクラマカン砂漠の踏破、フランシスコ=ザビエルとの宗論、琉球王として即位、倭寇王としての北京・南京城攻略…東シナ海にその生を終えるまでの驚愕の軌跡と徳川政権による史上からの抹殺計画の全貌をついに公表!

http://www.amazon.co.jp/%E5%B2%A9%E5%B1%8B%E5%A4%A9%E7%8B%97%E3%81%A8%E5%8D%83%E5%B9%B4%E7%8E%8B%E5%9B%BD%E3%80%88%E4%B8%8A%E5%B7%BB%E3%80%89-%E7%AA%AA%E7%94%B0-%E5%BF%97%E4%B8%80/dp/4893503030

1975年 東京都知事選挙 無所属 828票 得票率0.02% 16人中11位 落選 供託金没収

立会演説会にチョンマゲ、上半身アッパッパ、下半身赤フン姿で登壇し、『チンダレ漫才』を披露。この模様は東京12チャンネルで生中継された。また「語源は易断政府の易断」、「お祭りの時出てくる鼻天狗は岩屋天狗」など、極めて難解な文言が並ぶ選挙公報も大きな話題を呼んだ。なお、こうした奇抜な衣裳での選挙運動はこの選挙が初めてだった

同都知事選に同時立候補していた秋山祐徳太子に依ると、赤尾敏から「初の東大出の泡沫候補だ」と励まされたため、選挙後も上半身紋付に下半身パンスト姿で、『ふんどし日本一』の幟を立てた乳母車を押し、神保町の街頭で私家本を配布していたという

主著 [編集]
『岩屋天狗と千年王国』上・下(岩屋梓梁顕彰会、八幡書店)ISBN 4893503030 ISBN 4893503049
『易断(ユタ)政府を樹立した岩屋梓梁』(私家本)
『西郷征韓論は無かった 附篇・実在した易断政府と岩屋梓梁』(私家本)


要するに,窪田 志一は今で言うと副島隆彦みたいな人ですね.

唯のパラノイアなのに本人も支援者も全然気付かない.

病人が悪いのではなく,それを放置するアホが問題なんですね.


51. 2010年2月09日 22:34:31
ありきたりの貼り付けだが、あんがと・・

それでさ、まかたんしと、信長暗殺についてしってる?

猿田彦と、岩屋梓梁の関係も教えてほしいな〜


52. 2010年2月10日 21:00:45
もう来ないの?

日本で、お前が目指してる国の人民って平気で殺しやるみたいだな。

●中国の、盗人をなぶり殺す動画
http://www.youmaker.com/video/sv?id=7f35bab2c4da430a88b7f0757fd4e1b7001

アメりカも中共も同じ虐殺民族、動物以下だってことだよ。

ビックニュース探してこいや。


53. 2010年2月10日 23:46:15

僕の大好きな中国の事はここのコメント欄に書いといた:

外国人参政権反対集会 地方議員1万人の署名目指す - 産経ニュース
http://www.asyura2.com/09/gaikokujin01/msg/365.html


54. 2010年2月11日 07:26:09
>53さん

俺も中国が大好きになったよ・・・嘘!

このコメント、ちゃんと投稿してみたら・・・

政治/選挙80に投稿すると、工作員と名付けられ、中共工作員から袋叩きになります、>52の動画の様に。

でも、初めからそのつもりでやるのも良いものです。

コメントの違和感を肌で感じている読者もいるのですから。


55. 2010年2月11日 19:16:56
                   _____________
                  /こうやってもっともらしい捏造ネタを投稿してると
   ((/ ̄ ̄ ̄ ̄ミ彡    /  低学歴のバカどもが信じてシナ嫌いになるぞ。
  `ミ(     狼  )  <  こんなおいしいアルバイトは他にないズラ。
   |.   ー◎-◎-)   \______________
   (6     (_ _) )    カタカタカタ
   | .∴ ノ  3 ノ  ______
    ゝ       ノ  .|  | ̄ ̄\ \
   /       \__|  |    | ̄ ̄|
  /  \___      |  |    |__|
  | \      |つ    |__|__/ /
  /     ̄ ̄  | ̄ ̄ ̄ ̄|  〔 ̄ ̄〕
 |       | ̄



56. 2010年2月14日 16:38:17
>>55

おう、狼さん。

貴方のブログも、真赤っかの星印ですね。
極左のブログにしては、日本受けをねらっている。
実に巧妙なタッチで素晴らしい。

ご自身の似顔絵もお上手です。
 


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