成田龍一 なりた・りゅういち 一九五一年生まれ。日本女子大学人間社会学部教授。著書に『大正デモクラシー』『近代都市空間の文化経験』(岩波書店)『歴史学のスタイル』(校倉書房)ほか はじめに
近現代日本史を学ぶものにとって、「韓国併合」をいま、どのように論ずるかは、近代日本と東アジアに関わる歴史認識、帝国と植民地の歴史に向き合う立場、そしてそれを語ることばの一つ一つが試されることとなる。「韓国併合」をめぐっては、のちに参照するように多くの出来事があきらかにされ、それに基づく知見と認識とを生んできた。 しかし、あらためて言うまでもないことだが、歴史的な評価をはじめ、歴史過程を論じる際にも、その時々の情勢への視線が入り込む。「韓国併合」に対しても例外ではなく、それぞれの研究にはその時点での日本と朝鮮半島との関係が色濃く投影されている。韓国も朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と記す)も、サンフランシスコ講和会議に招請されず、さらに一九六五年の日韓基本条約により、一方の国のみと国交を持ったことが、日本―韓国―北朝鮮の関係のあらだな矛盾を作り出し「韓国併合」にあらたな問題を相乗しその語り方を複雑にしている。 「戦後」の日本と韓国とのあいだには「感情的な衝突」があり、その齟齬がつねにみられた(李庭植『戦後日韓関係史』小此木政夫・古田博司訳、中央公論社、一九八九年)。また、日韓会談での主要なテーマとして「在日韓国人・朝鮮人」があげられ、第一次会談(一九五二年)では日本が結んだ「保護」や「併合」に関わる条約の「無効」を確認するように韓国から要求がなされた。さらに、一九九一年から動き出す北朝鮮との日朝交渉でも「賠償と財産請求権」が議題とされた。いずれも「韓国併合」がもたらしたものであり、「韓国併合」は同時代に問題を醸成したにとどまらず、その後にも問題を持ち越している。「韓国併合」をめぐる議論は多くの論点を有し、いまだに過去の出来事となりきってはいない。 いくつかの論点を手掛かりに、「韓国併合」をめぐる認識とそれを語ることばを探ってみたい。 (本稿では、戦後の韓国、北朝鮮とともに、戦前の大韓帝国も扱う。こちらも韓国と表記するが、文脈上で混乱を招かないように留意した。また、戦前のばあい、その地の人びとを朝鮮人と記した。こうした表記自体が論議の対象となるが、ここではその議論はおこなわない。) 「併合」の論じ方 伊藤博文と韓国皇太子とが並んで座っている、よく知られた写真がある。椅子に腰かけ和服を着た幼い皇太子が、白ひげをたくわえ軍服に身を包む伊藤博文に寄り添われている。歳を取り経験を積んだ日本人が、幼くまだおぼつかない朝鮮人を保護し介添えしているという構図−−この写真こそ、二〇世紀初頭の日本と韓国の関係を示し、相互の非対称的な位置関係を雄弁に物語ってみせる。まなざされる視線は、保護者と被保護者の関係であり、日本の持つ経験(「近代文明」)をこれから成長する韓国に教え導こうとするものとなっている 「併合」とは、外務省政務局長・倉知鉄吉による「政治造語」であり、「対等合併」の印象を与えず、「刺激的」でもないことばを選んだとされる。初代の朝鮮総督・寺内正毅は、首相の李完用に対し、他国のような「強制的併合」とは異なり「合意的条約」であることを繰り返したという(海野福寿『韓国併合』岩波府店、一九九五年)が、この写真はそうした姿勢を存分にうかがわせる。 「韓国併合」の過程について、近年の研究の成果が盛り込まれた、森山茂徳『日韓併合』(吉川弘文館、一九九二年)と海野福寿『韓国併合』を開いてみよう。ここでは、開国からの射程で「韓国併合」への過程が記される。 二〇世紀に入り、日本とロシアの交渉のなかで朝鮮半島をめぐる政策が論議され、他方、韓国でも高宗らによる東アジアの情勢をにらんだ外交政策がおこなわれる。目本−韓国−ロシアの交渉は複雑で「結局調整不可能」(森山)となった。独立保障を求める韓国と、欧米の干渉を排除するため、韓国との攻守同盟または保護条約を求める日本であったが、日露戦争のさなかに軍事力を背景として日韓議定書(一九〇四年)が結ばれた。 そして三次にわたる日韓協約(一九〇四年、〇五年、〇七年)で、日本による韓国の保護国化がなされていく。とくに第二次日韓協約は、韓国の外交権を奪い、統監府を置くこととなるものとなった。統監府は天皇に直属し、朝鮮の外交を統轄し、朝鮮駐在軍可令官への命令権をも有する。 この間、韓国内では義兵闘争と呼ばれる民衆運動が全国にわたって展開され、一九〇七年には高宗が万国平和会議に独立回復を提訴するいわゆるパーク密使事件も起こる。日本において併合論が台頭するのは、そのことがひとつのきっかけとなっている。 森山も海野も考察の軸のひとつに、伊藤博文や井上馨らが韓国の「保護国化」をいい、「併合」を求める山県有朋、寺内正毅らとの対抗をおく(森山は、「文治派」と「武断派」としている)。伊藤は第三次日韓協約以降、「近代」に似せた国家改造政策」を出し、「日本の監理・指導・保護による韓国の「自治」振興政策」(海野)をおこなうなど、「併合」路線を批判していたというのが、両者の見解である。 しかし、その伊藤が「併合」路線を説くことになる。統監政治が障害をはらみ、海野は、伊藤が意欲を喪失し「改宗」し「併合論への飛躍」をしたとした。森山も同様に、伊藤が「所期の目的」を達成しえず統監を辞任した点に「もはや併合以外のものは考えてはいなかったろう」と述べる。 もっとも、この転換(あるいは推移)は実際にはかなり複雑な過程であった。森山自身、「文化政策」を推進した伊藤も「最後の手段」あるいは「究極の目標の一つ」として「併合」を考えていたことをいう。また、一進会という韓国内の「親日団体」が山県や桂と関係を持ち「韓日合邦」を図るが、伊藤と同会の関係も指摘される。 伊藤の変化は、森山によれば韓国内での抵抗運動によるものであった−−「伊藤はついに、反日運動を根絶するためには、朝鮮の併合を考慮しておくしかないと結論した」。そうした経緯を経て、一九一〇年の「韓国併合」にいたり、朝鮮総督府による統治がなされる。朝鮮総督府は、本国政府の省庁の監督を受けない機関であり、朝鮮には大日本帝国憲法も施行されなかった。 こうした考察の基礎は、すでに歴史家・山辺健太郎にみられる。山辺は「併合」を目的とする方法の相違として、伊藤と山県らの対立を把握するが、『日韓併合小史』(岩波書店、一九六六年)は、やはり江華島条約から書き起こし、一九一〇年の「併合」までを射程としている。 山辺の記述は資料の博捜に特徴があり、『日本統治下の朝鮮』(一九七一年)の「まえがき」では「私か本書で試みたのは、統治の実態を事実と資料とによって明らかにしようとした」という。「朝鮮総督府」(第一章)による統治と「朝鮮の社会状態」(第二章)を描き、植民地・朝鮮の様相を記す。そして『日本統治下の朝鮮』では、(1)三・一独立運動をはじめとする独立の動きに紙数を割き、あわせて(2) 一九四五年八月一五日の日本の降伏を一応の終結とするが、結びの文章は、 「韓国の併合と李王朝の廃止に反対して起ち上がった義兵運動、朝鮮民族の独立を高らかに謳った三・一万歳事件。元山ゼネストや光州学生運動、抗日パルチザン闘争など、朝鮮人民の長年にわたる独立と解放のためのたたかいが八月一五日に実をむすんだというべきであろう。こうして、三六年問にわたる日本帝国の朝鮮統治は終ったのである」 となっている。山辺の研究は大きな意義を持つが、朝鮮社会の「内在的発展」を日本が破壊したとし、植民地主義への批判を「朝鮮民族の独立」に託し、自らの位置をそこに重ね合わせた。先駆的で実証的な仕事であったが、自らの帝国を内在的に切開するという点からは迂回的となる。 山辺をも含めた「韓国併合」の見解が、現在の日本における歴史認識を代表するが、現在の韓国・北朝鮮の歴史認識では周知のように植民地化ではなく「強制占領(強占)」とし、歴史認識の差異がみられる。そのひとつの現れとして、一九九〇年代末から二〇〇〇年代にかけて、韓国の歴史家・李泰鎮が法的観点から「国権奪取過程」に至る条約を検討し、海野や国際法学者の坂元茂樹らと『世界』誌上で論争がみられ た。 一九〇四年から一九一〇年にかけて、日本と韓国のあいだで結ばれた条約は「強制」により「合意」を欠くのみならず「手続き」と「形式」に「問題点」を有し、「韓国併合」は法的に成立しないというのが、李の主張である(「韓国併合は成立していない」上下、『世界』一九九八年七月−−八月号)。これに対し、海野や坂元は歴史学や国際法学の立場から、その法の「効力」を論じた。海野の言を借りれば、「不当ではあるが、旧条約は法的には有効に締結され、日本は韓国を併合し植民地とした」ということとなる。 それぞれ実証的な手続きを踏む議論で論点を作り出しているが、背景には日韓会談や村山富市談話などにおける「過去の清算」をめぐる、両者の認識の差異がある。ここに見られるのは、植民地主義を批判する点では同じながら、宗主国であった日本の論じ方と、植民地とされた韓国との差異である。 *ここでの「日本」「韓国」は国籍とは一致しない局面を有するのは当然である。李は、筏川紀勝との編著『韓日併合と現代』(明石書店、二〇〇八年)を刊行するが、同書には荒井信一らが寄稿している。 「帝国意識」 植民地を所有した経験は、近代目本の歴史にとってぬぐい去れないことだが、そのことはいまだ充分に総括され、ことばとして紡ぎだされたとは言い難い状況にある。身を裂き、自己切開するような営みだが、植民地を有する帝国の崩壊はしばしば被害の意識によってのみ語られる。しかも、第二次世界大戦に勝ったイギリスとフランスが、その後に植民地問題に苦しんだのに対し、負けた日本は植民地を一挙に喪失したため、正面から取り組むことを回避した。 大日本帝国の「崩壊」のときに、植民者である日本人たちが帝国意識−−植民地主義を払拭できなかったことの一端は、(日本への帰還後に記された)「引揚げ」の記述にうかがえる。「満州」の新京(長春)から朝鮮半島を経由して引揚げる、森文子『脱出行』(開顕社、一九四八年)は、三人の幼い子供をつれて鴨緑江をわたり朝鮮にはいったとき、「朝鮮独立旗」が掲げられ、列車に向かって「嘲笑と示威」が投げかけられたことを書き留める。「敗戦の酷薄な現実」とともに、森は「ばかな人達ねえ、自分の力で勝ったのでもないくせに」と記す。森は、敗戦後、連合国軍による占領の中で手記を書いているにもかかわらず、帝国の崩壊が認識されず、敗戦がいかなる事態であるか、いささかも自覚されていない。 公人も同様である。先の李庭植『戦後日韓関係史』は、国会議員・椎熊三郎の次のような言葉を伝えている・・・「われわれは、終戦まで日本人として日本に居住していた台湾人と朝鮮人が、まるで自分たちが戦勝国の国民のように威張り散らしているのをこれ以上黙って見過ごすわけにはまいりません」。 加害者が、自らを被害者の立場に置きつつ語り、植民地の人びとに対しての優位を、敗戦−−帝国の崩壊にもかかわらず、払拭していない。いったんはめられた植民地主義の枠はかように深く宗主国の人びとを呪縛する。 こうしたなかで、植民地化の過程をなぞらずに、批判的に描きだす論理とことばが模索される。森山は、「韓国併合」を「日本による朝鮮の植民地化」であり、「日本の侵略の帰結」としつつも、当時の日本の政治指導者にとり「併合=植民地化」が必ずしも「自明」かつ「必然の結論」だったのではないとする。 こうした観点に立つとき、一九二〇年前後から植民地主義を批判しようとした柳宗悦の言動は同時代的な発言として重みを持つ。美学者であった柳は、大日本帝国の植民地・朝鮮に対し、三・一独立運動(一九一九年)を支持し、朝鮮総督府による光化門(景福宮の正門)の破壊計画に真っ向から反対し、「朝鮮民族美術館」(一九二四年)を設立するなどの活動をみせる。 柳は、三・一独立運動の後に「朝鮮人を想う」(『読売新聞』一九一九年五月二〇日―二四日)を発表し、日本の知識人の運動への論評に「賢さ」「深み」「温かみ」が欠けているという。そのあまり、「隣邦人」のために涙ぐんだとも述べるが、柳は「反抗する彼等よりも一層愚かなのは圧迫する吾々である」と言い切り、「圧制」により彼らの口を閉ざす「愚さ」を重ねてはならないとした。「独立が彼等の理想となるのは必然な結果であろう」とまでいうのである。 柳の立論の根拠は「朝鮮の美」、すなわち「芸術」―「情」にある。このことを展開したのが「朝鮮の友に贈る書」(『改造』一九二〇年六月)である。伏字の多いこの文章は、「力の日本」と「情の日本」とを対比し、「一国の名誉を悠久ならしめるもの」は武力や政治ではなく、芸術・宗教、哲学のみとする。そして、一方で「悲しくもまだ今の日本は自ら正義の日本であると云い切る事は出来ない」とし(ただし、この部分は伏字となっている)、他方で「朝鮮の芸術」を讃える。「朝鮮の芸術」は「固有」の感情を有し、芸術に結晶しており、偉大な芸術を作り出しているとするのである。 そして「民族」の固有性を見すえ、「朝鮮を内から理解」するようにいうが、この後、柳は『改造』に次々に朝鮮関係の論考を公表することになる。「友」―「心を語る友」として、「どこ迄も人情を踏みつけられた朝鮮の歴史」を想い、「寂しく苦しんでいる」いまを憂い「抑え得ない同情を貴方がたに感じている」(「朝鮮の友に贈る書」。この引用箇所も伏字)と綴る。柳には、朝鮮問題への「公憤」と朝鮮芸術への「思慕」がみられた。 しかし「戦後」になって、その柳宗悦に対し、韓国人研究者から批判が出された。ここにも、宗主国と植民地国との認識と語り方の差異がみられる。柳が朝鮮人に対し「愛に飢えている」といい、芸術をその観点から把握した点に疑義を求めた議論で、崔夏林「柳宗悦の朝鮮美術観」(『展望』一九七六年七月号)は、「柳の韓国美術に対する無理解は、事実、日本帝国主義の朝鮮政策と彼のセンチメンタルなヒューマニズムの混合のなかに胚胎した」と手厳しい。崔は、柳が(朝鮮の芸術に対し)「哀しみの曲線」と評価した点を、とくに追求する。 柳は朝鮮人の「友」たろうとしたのだが、同時代はともかく、「戦後」においてはその人びとから「他者」の視点がないと拒絶された。なれなれしいとの批判である。たしかに柳は争いや武力を忌避することにより、「血を流す道」を「不自然」とし「反省を乞いたい」という(「朝鮮の友に贈る書」)。また朝鮮史に対し、「その暗黒な悲惨な時としては恐怖に充ちた歴史に心を蔽わぬものはない」(「朝鮮人を想う」)とも述べ、保護者意識がみられないではない。 柳は、植民地支配への「不支持」を表明するが、思いやりや配慮といった「善意」に内在する保護者意識があった。また、「鮮人」という差別のことばも用いており、植民地支配を受けた当事者たちから厳しい批判が出されたのである。自らを「朝鮮人の立場にいると仮定」しえた柳(高崎宗司)だが、帝国主義のもとでの良心として高く評価する論者がいる一方、柳は無意識の保護者意識があったという批判がだされ、柳の歴史的な評価は分裂をきたしている。 しかし、柳は、朝鮮の芸術に「意志の美」「威厳の美」「男性の美」などをも見出していた。これらは「客観的な考察」ではなく、「日本文化の個性」を明らかにするために中国、日本と朝鮮の文化の差異化を図るために特徴づけられたとの指摘がある(中見頁理『柳宗悦』東京大学出版会、二〇〇三年)。加えて、柳の言は自己批判であり、そこを介して朝鮮人に「友」として語りかけている。こうした語りであるがゆえに、宗主国の側からの発言であるにもかかわらず、植民地の人びとの耳に届く可能性を持つのではなかろうか。 「植民地体験」 国際関係の力学のなかで法制的に決定されてしまったことを、いかにとらえ返すか・・・そのような目で見たときに、かつての植民地体験を有する人びとが、身を裂くようにして発言を行っていることに気がつく。 植民地・朝鮮で生まれた森崎和江は、父親がその地の中高等学校の校長であった。「自分の出生が・・・生き方でなくて生まれた事実が・・・そのまま罪である思いの暗さは口外しえるものではない」(「二つのことば・二つのこころ」一九六八年)という贖罪意識から出発し、「朝鮮について語ることは重たいこころを押してゆけそうにない」とまでも記している。 植民地体験に対する一般の日本人の罪は、戦前戦後を問わず、政治的には徹底した差別を行政化している国内で、なおくらしの次元では差別をしていないと感ずるほかにない社会構造精神構造をもちつづけている点である。それと格闘していない点である(「二つのことば・二つのこころ」)。 「私はひたすら朝鮮によって養われた」と、森崎は「「私」のなかの不特定多数の他者の影」を自覚する。この自覚にさらなる考察が加えられ、「日本人」の植民地支配への無意識・無自覚を見出す−−「日本内地の気の毒さは、自己と他者の分別と承認をくらしのこころの要素にもつことができなかったことである」。この認識から、森崎は、「日本自体を思想的葛藤の対象」とすることを要求する。加えて、この営みは「朝鮮人が自分自身の存在を告げるために、犯罪を代償にしたり血縁を死においやったりして日本人宛のことばを作り出そうとしているときに、日本人は朝鮮人むけのことばを、自分の何ものをもこわすことなく排泄する」と、非対称的な営みであることへと赴く。「戦後」にまで継続する植民地主義のありようを、自らをえぐるようにしながら摘出するのである。 「植民地二世」小林勝も、作品集『チョツパリ』(三省堂、一九七〇年)を刊行する。そこに収められた「蹄の割れたもの」(初出、一九六九年)は、森崎と同様に、身体レベルでの植民地認識を描き、植民地認識とセクシュアリティを介して、「朝鮮人」「女性」という「他者」を描き出す。いや、「他者」を描くことによって、植民地主義を挟り出そうとする。 小説中、一九六八年の物語時間に、不意に、ある「朝鮮人」の名前が引き金になって、主人公・河野の「内側に存在する黒々とした力」を呼び起こしてしまう・・・「かつて、朝鮮人たちの中で、おれが河野という一人の中学生ではなくて、何時だって、何処でだって、河野という中学生によって代表される日本人という存在でしかあり得なかった」という意識。 想起されるのは、河野の朝鮮における少年時代であり、「チョッパリ」というタイトルともなった語である。「体の闇の中から一つの痙撃と声を、そしてそれをつきさして炯々と光る若い女の眼」を思い出し、「チョッパリ」・・・「犬にも劣るけだものという言葉」であり、「歴史そのものの重みを背負った言葉」を投げつけられた記憶をかみ締める。小林勝は、植民地という、あらかじめ精神的な「介在」を拒否された空間における、非対称的な関係に基づく「他者」との遭遇を描き出すのである。植民地空間と関係性のもとでの、植民者が体験した快感と違和、身体と精神の不均衡。そして、そのことゆえに「心の芯」に突き刺さった棘を、小林は切開していく。ふだんは日常の意識のなかに押し込められているが、きっかけをえると不意に飛び出してくる朝鮮半島での記憶。その記憶を記すことによって、植民地支配に、「植民地二世」として「重い負債」を感じる小林の意識が、二重三重の屈曲のなかに描かれる。 あるいは、ソウルに生れた詩人の村松武司は、祖父から三代に及ぶ「朝鮮植民者」であることを意識し、自らの体験を織り交ぜながら祖父(と自らの)歩みを、『朝鮮植民者』(三省堂、一九七四年)として記す。村松は、「朝鮮」にいるときには「日本人」でありたいと思い、「日本」では、自分が「日本人」でないことを「自覚」したといい、「昔もいまも半日本人・半朝鮮人である」とする。村松は、朝鮮を支配しながら執着せず、「引揚げ」の心性に、「いったいわたしたち日本人は、どの土地を愛し、惜しんだのであろうか」という問いを投げかける。自らの意識を切開するとともに、朝鮮への植民者を第一世代と第二世代の差異において考察してみせる。 また、在日朝鮮人からも厳しい問いかけがなされる。その作品のひとつとして、李恢成「またふたたびの道」一九六九年)がある。小説家・李恢成の父母は、戦前に朝鮮半島から日本に渡り、樺太で働き、李はこの地で生れている。日本敗戦後は、「非日本人」であるために、李の家族はソ連領となったサハリンに留めおかれるが、一九四七年五月に脱出する。しかし朝鮮半島が分断されており、李たちは「日本」に暮らすことを余儀なくされることを描く小説である。李の家族たちは、「戦後」にも植民地時代と同様の経験・・・「またふたたびの道」をたどるのである。 李の経験を「日本人」がどう読むか−−ここには、「韓国併合」に関わり、「外国人登録令」(一九四七年)、「外国人登録法」(一九五一年)、「民事局長通達」による「日本国籍喪失」(一九五一年四月)という一連の流れのなかで、植民地主義が解決されないままに矛盾が重畳されている。李は「日本人」になることの要請から、「朝鮮人」になることの努力を「またふたたびの道」で綴り、主人公の哲午は、「在日朝鮮人にとって祖国とは何なのか。朝鮮人とは、日本人とは何なのか−−哲午は自分の生い立ちのなかから渦巻いてくるそうしたものへの限りない訴求」に直面する。「ああ悔いのない朝鮮人になりたい」という嘆息は、一九七〇年前後の文脈のなかで、「民族は朝鮮だが、国籍は日本人です」と「民族と国家」として問題がたてられる。「やれ「国体」だ「大東亜共栄圏」だと「朝鮮人」が「日本人」にされ、こんどは何ですかい……」。李恢成の経験を、大日本帝国の遺産相続人たる日本国籍の所有者たちは、訳しり顔に、また他人事のようには論じられない。 語りだされた植民地主義への批判は、対象とする相手を「友」としてではなく、彼らが「他者」であったことをあらためて確認するような営みであった。「友」から「他者」へ。ここに柳宗悦から、村松・森崎・小林らの語りへ、「戦前」から「戦後」の経験がみられる。 歴史家たちも、自らのを場を検討しながら「韓国併合」を論じてきた。森山が見すえているのは「戦後」の光景である。「戦後」に「戦争の当事者」である日本が「分割」されなかったのに、「朝鮮民族」が「南北分割占領」されたこと・・・「米ソの戦後世界の戦略の産物」だがそれに先行する第二次世界大戦の存在と「朝鮮は日本のいわば身代わりとなった」。また、「植民地本国」の日本の「痛みの記憶」が「きわめて希薄」であることが、森山の研究の背景にある。 こうした認識とことばの紡ぎ方を、読み取り学んでいかなければならないであろう。 おわりに 最後に二つの点に触れておきたい。ひとつは、「韓国併合」をどの時間と空間の射程で問うかということ。すなわち、「併合」と独立運動をセットで把握することから「韓国併合」の歴史的考察は出発したが、さらに敗戦、朝鮮戦争、日韓基本条約など、どの出来事と結びつけながら、どの射程で「韓国併合」を論ずるかが論点となる。また、現在「韓国併合」を論じる際には、北朝鮮をめぐる情況も無視しえない。ともすれば現在の韓国に向かってのみ語りがちな「韓国併合」を、朝鮮半島全体の出来事として語らなければならない。 また、「併合」にいたる過程の論証にかかわっては、主要には国際関係から説明される。ロシア、欧米、さらに東アジアの国際情勢のなかで、韓国の「保護国化」と「併合」の過程が論じられてきた。加えて、当時の国際法を参照枠ともしている。さきの李泰鎮たちの「韓国併合」をめぐる議論のなかで、「全権委任状」と「批准条項」の有無をめぐり、条約の合法性と不法性が論じられる。評価は対立したが、ともに当時の国際法を前提としており、李と海野は同じ地平に入っている。「西洋」の世界秩序を前提とする一九世紀の思考・・・国民国家体制のもとでの束アジアの国際関係を歴史化し、問いかける視点があわせて求められるであろう。 いまひとつは、責任ということをめぐってである。「戦後」の歴史学は「戦争責任」を追及し続けてきた。軍部や天皇、さらに「国民」をアジア・太平洋戦争に責任を有する主体とし、それぞれの戦争責任を問うた。世論が日本を敗戦に導いた「敗戦責任」に傾いていくことを批判し、日本をアジア・太平洋戦争に赴かせた「戦争責任」そのものを問うという問題意識のもとに、政局や軍閥の攻防ではなく大日本帝国の構造を追及していった。『太平洋戦争』(岩波書店、一九六八年。改訂版は、一九八六年)を著わした家永三郎が、『戦争責任』(岩波書店、一九八五年)をつづけて刊行することに象徴されるが、このことは「戦後」の課題としても設定されていた。 しかし「植民地責任」という観点からみるとき、その責任が問われているとは言い難い。朝鮮人の強制連行をはじめとする一連の戦後補償に関わる裁判はその一例である。東京裁判において、朝鮮総督府の総督は(その資格において)罪が問われることはなかった。「植民地責任」は、「戦争責任」に比して自覚されていない。政治家たちの「妄言」(高崎宗司)は、ほとんどが「植民地責任」の希薄さに起因しているのをはじめ、アジア・太平洋戦争にかかわる多くの回顧録や自伝でも、「植民地責任」に触れられることは稀であった。ましてや、「戦後」まで「植民地責任」が継続していることへの意識は薄い。 このとき、「戦争責任」と「植民地責任」は切り離されたものではなく、規定しあい重なりあっていることが見過ごされてはならない。さきにふれたように、大日本帝国がアジア・太平洋戦争の敗戦とともに崩壊したため、「戦争責任」の議論が前面に出されるが、近代日本の経験は植民地領有と切り離しては考えられない。 こうした二つの責任−−「戦争責任」と「植民地責任」とを包括する概念として、「帝国責任」という概念が有効であろう。大日本帝国としての歴史がもった責任であり、大日本帝国の責任を一掃し決着しないのみならず、あらたな矛盾を加えている戦後・日本がもつ責任の総体である。すなわち、戦争遂行と植民地領有の責任、さらにそれらの責任を決済せずにいるという戦前と戦後にまたがる責任が「帝国責任」となる。大日本帝国とともに、(大日本帝国を問うてきた)問いの問題構成を問う概念でもある。 山野車輪『マンガ嫌韓流』(浮遊舎、二〇〇五年)などに代表される、植民地支配をめぐる点に焦点を当てた修正主義が跋扈している。また、話題となった、読売新聞戦争責任検証委員会『検証 戦争責任』TU(中央公論新社、二〇〇六年)は、「昭和戦争」の名称を提起するなど歴史の見直しに意欲的であるが、開戦責任に比重がかけられ、植民地支配には言及されていない。こうしたことを見るにつけても、「帝国責任」ということが問われる必要があるように思う。 「韓国併合」一〇〇年という節目は、こうしたことを考えさせるきっかけの一つになるであろう。 雑誌「世界」一月号より
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