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本稿は「外国人住民基本法」とも深いところで密接につながっていると確信するので再掲/仁王像
・「驕れる白人と闘うための日本近代史」/松原久子
http://www.asyura2.com/08/dispute28/msg/122.html
投稿者 仁王像 日時 2008 年 4 月 27 日 17:52:59: jdZgmZ21Prm8E
(回答先: 80歳を越して、…人間への、介護は、もう、やめるべきだ/副島隆彦 投稿者 仁王像 日時 2008 年 4 月 26 日 15:53:32)
『驕れる白人と闘うための日本近代史』松原久子/文芸春秋‘05年から引用
[大砲とコークス〜日本はなぜ「自発的に」近代化しなかったのか]
・ヨーロッパ人が都合よく忘れていることを申し上げよう。工業化はヨーロッパ全土で同時に始まったわけではない。イギリスが先頭を切り、フランスが真似し、ドイツは数十年たってその後に続いた。工業化(産業革命)は、なぜイタリア、スペイン、フランス、オランダのように当時富栄えた国々ではなく、…イギリスで始まったのか。一つだけ挙げれば、イギリスの産業革命は、当時軍事的に優位であった強敵スペインの外的な脅威によって始まった。気候にも恵まれず、天然資源の乏しいイギリスが、軍事力増強のために徹底した努力をしたその苦肉の策から始まったのである。
日本では、状況は全く違っていた。日本は…防衛に関してはイギリスとは比較にならぬほど良い立地条件にあった。そのため鎖国によって国を守るという贅沢を享受することができたのである。…日本は自然が豊かで、気候にも恵まれていたので、鎖国をしていたにもかかわらず、三千万の人間を養うことができた。工業化以前のイギリスの三倍の人口である。
・さらに、日本にはなぜ、ルネッサンスのような新しい精神的躍動や発展がなかったのかと問う人も多い。…それは、ヨーロッパにはキリスト教会が君臨していたからである。形而上の概念ばかりでなく、形而下の現象についても絶対不変の真理を有していると確信している教会があったからである。そこで本当にその通りなのか確かめたいという欲求が中世から近世になる過程で芽生え…た。それは単なる自己満足ではなく、命がけの探求だった。
最初は小さな運動だったが、反抗的な一匹狼たちによって推進され、…宗教改革によって追い風を受け、17〜18世紀の啓蒙主義の時代に確固たるものになったのである。
日本には、そのような宗教はなかった。
[高潔な動機〜「白人奴隷」を商品にしたヨーロッパの海外進出]
・近東、インド、東南アジア、中国、日本といった古い文化の中心地に比べて、中部および北部ヨーロッパはかつて荒涼とした貧しい土地だった。このことは今日なかなか想像し難い。ヨーロッパは惨めで貧しい大陸だった。貧困は人間の罪ではなかった。それはこの地域の恵まれない気候風土のせいだった。
人々は苦労して自然から穀物を奪い取らなければならなかった。生活は、寒さ、湿気、雪、秋の霧、そして冬の暗闇との戦いだった。
・ヨーロッパ上流階級の人々のオリエント商品への渇望は、貪欲で飽くことを知らなかった。そこで、何世紀にもわたってアジアへの輸出のために特別な商品が用意された。その商品とは、ヨーロッパ人の奴隷である。奴隷はヨーロッパのオリエントへの主要な輸出商品の一つだった。なぜならば、ヨーロッパは奴隷以外に商品を持ったものは何も提供できなかったからである。
「奴隷(スレイブ)」は、語源的に「スラブ人」と同じである。大掛かりな奴隷狩が行われた。ポーランドからボルガ河畔に沿ってウラル山脈にいたるロシアの平原で、ヨーロッパの奴隷狩り専門家たちによって、スラブ人の男女が捕らえられたのである。…この貿易をヨーロッパの歴史の本では、上品に黒海貿易と記述している。
・ヴェネチアの商人たちは、ダルマチア沿岸、ペロポネソス半島、クレタ島、ナクソス島、その他行ける所があればどこからでも、生きた商品をさらってきた。ヴェネチア、フィレンツェ、そしてトスカーナ地方の富の蓄積は奴隷売買によるところ大であった。…ダマスカスやバグダットには大きな奴隷市場があった。
北アフリカ沿岸の豊かなサラセン人の町でも白人奴隷、特に女奴隷は金貨と交換に売られた。コンスタンチノーブルが陥落し、黒海貿易が途絶え、ダーダネルス海峡の通行がトルコによって、コントロールされるようになると、…奴隷の価格は急騰した。ヨーロッパ内部でも、何世紀にもわたって奴隷売買は盛んであった。
・ヨーロッパのいくつかの民族が海洋国家となったそもそもの動機は、決して遠い異教徒たちの魂を救済するためでも、キリスト教伝道の任務を遂行する内なる衝動のためでも、文化的優越感のためでも…なかった。大航海時代を生む出した原動力は、自然に呪われたヨーロッパ大陸の貧しさを克服したいという願望だった。
「あなた方は行って、子孫をふやし、大地を征服しなさい」
この神の言葉を彼らは見事に実践したのである。
・今日、ヨーロッパ人のダイナミズムとよくいわれるものは、元を正せば彼らの絶望と怒りの産物である。彼らが渇望している(品々)と引き換えに、彼らから金・銀、そして白い肌の女性を奪い取ったアラブ人に対する激しい怒りの産物なのである。
ヨーロッパの歴史書は、当時インドでヨーロッパ人が成功したのは、それまでその地域を支配していたアラブの商人たちが、商売から手を引いたからである、と美しい言葉でさらりと触れている。もちろんアラブ人たちは自ら手を引くことはしなかったので、ヨーロッパ人はアラブの商船を見つければ、予告することなく攻撃し、沈めた。
こういったことを可能にした決定的な要因は、ヨーロッパ艦隊の圧倒的な軍事力と乗組員たちの確固たる目的意識でえあった。ポルトガル人は20年ほどでインド洋西側のアラブの商船をほとんど壊滅させ、攻撃してきたトルコの全艦隊を打ち破ってしまった。
・この出来事からも、ヨーロッパの世界観は、かつて大探検隊を西インド洋に送り、赤道直下のアフリカまで進出した中国人とは全く違っていたことがわかるだろう。中国人は自らの文化に自信を持っていた。そして7回も大規模な調査旅行ができるほど、もともと裕福だった。だから征服し侵略するなどということは夢にも考えなかったのである。