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パトリス・ルムンバ
再建能力なき国家
マリ軍の憂鬱
http://www.diplo.jp/articles13/1305leblues.html
ドロテー・ティエノ
本誌特派員、ジャーナリスト
訳:川端聡子
2013年4月22日、厳粛なる投票の結果、フランス国民議会で約1000名のフランス兵による「支援軍」が「無期限」でマリ共和国に留まることが承認された。マリ北部の都市キダルでは、チャド部隊から国連PKO部隊に平和維持活動が引き継ぎされるという。いったいマリ軍に何が起こっているのか。[フランス語版編集部]
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反政府の少数民族兵士の取り込み失敗
「規律、効率、訓練、この軍隊では何ひとつうまく行っていない」。2013年3月始め、ガオに駐屯するあるマリ人指揮官は北部への進撃を前に苛立ちを抑えきれずにいた。戦争ウォッチャーたちは皆、同年1月11日にマリ北部進撃をもって開始された軍事介入が今後どのような結果を生むのか、不安を感じながら注視している。外国、特にフランスとチャドの支援部隊なくしては何ひとつ立ち行かなかったからだ。しかし、欧米の、それにアフリカの支援ですら永続的とはいかないのである……。
イスラム過激派の流入を制止できなかったマリ政府軍は、前代未聞の状況にある。彼らは、外国の軍隊が駐在するというゆゆしき事態が、おそらく長期間にわたるであろうという現実に直面しているのだ。激しい内紛は鎮まることなく、失望の種が広がる。「セルヴァル」作戦の開始以降、多くの将校や下士官たちは紛争が終わったときに「神が[彼らを]生かしておいてくださるのなら」転職しようと心に決めている。
こうしたやりきれない思いは今に始まったことではない。タマンラセットの和平合意(注1)が成立した1993年、アルファ・ウマル・コナレ大統領は北部地域での民族独立を願うトゥアレグ族を鎮静化するため、政府に抵抗していたトゥアレグのゲリラ兵数百名の政府軍への取り込みを決めた。現場の兵士たちにとって、この初めての取り込みは良い記憶を留めてはいない。1994年、「統合兵」たちはマリ政府の言葉に不信を抱くようになり、武器を手に取りレジスタンスに加わったのである。1996年、同じシナリオが繰り返された。そのときもまた兵士たちは、否応なく政府の統合案とその帰結を受け入れることを強いられたのである。
2006年、猜疑に満ちた統合軍隊生活の10年が過ぎ、イヤド・アグ・ガリー氏に近い「統合兵」たちは多々ある北部の解放運動を「風の向くまま」渡り歩いていることを非難された――イヤド・アグ・ガリーは、この5年後に「アンサール・ディーン(イスラム擁護運動)」を組織し、ジハード主義的トゥアレグ分子を集結させた人物である――。2006年5月23日、マリ政府軍に統合されていたトゥアレグ族兵士らはキダルで組織を再編、マリ政府軍キャンプを占拠し、砂漠でトゥアレグの指導者に再び合流した。マリ軍兵士たちにしてみれば、あまりに酷い裏切りである。ある伍長は「10年間すべてを分かち合い、同じ釜の飯を食い、同じ茶を飲んだ仲間だったのに」と激しく非難する。彼は、元同志だった統合兵のひとりがカラシニコフを握り、6人の戦友を撃った姿を記憶から消し去ることができないでいる。
政府軍への不満をつのらせる兵士たち
アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ大統領(通称“ATT”)に、統合を解消すべきとの認識はなかった(注3)。さらに悪いことに、大統領はトゥアレグたちをうまく丸め込もうとして、戻った彼らを除隊処分にするどころか、昇進させたのである。「2006年の出来事によって、兵士たちにたまっていた不満が吹き出した。政府軍の兵士たちはすでにひたすら屈辱に耐えてきた。トゥアレグ兵士の受け入れ、そして彼らの昇級……。われわれは常にタマシェクたち(注4)に対して政治的な配慮を行ない、人数の配分割り当てまで行なってきた。キダルでは現地での徴兵を余儀なくされた[キダルはトゥアレグ族の反乱が何度も起きた土地である――訳注]。しかしながら、軍人たるもの祖国のすべてに奉仕しなくてはならないはずだ。こうした状況が兵士たちの士気を削いでしまった」と、ある大佐は語る。
2012年にも同じことが行なわれ、同じ結果が繰り返された。トゥアレグの反政府闘争戦士たちは、独立を断念する代わりに約束した地方分権が実施されないとして、マリ政府を非難した。彼らは新たに北部の自治権を主張しているのである。「武器所持者たちの共通の敵はとだひとつ、国家を背負うマリ政府軍だ」アブドゥラマーヌ・デンベレ大佐は遺憾がる。
2012年1月末、キダル北のアゲルホク駐屯地で政府軍兵士80名が殺される事件が起こった。その一部は喉を掻き切られていた。やったのは北部で活動する武装グループであるアザワド解放民族運動(MNLA)とアンサール・ディーンである。大統領は、またも2006年と同じ過ちを犯した。「彼らに過激派のレッテルを貼ってはならない」と要請したのである。弱腰なその態度は、北部の駐屯兵たちの新たな軽蔑の的となった。
政治指導者たちの多くが「クーデターは必要悪である」との説得を聞き入れたことで、彼らの生温い対応も終わりを告げた。2012年3月22日、アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ政権を転覆させるクーデターの勃発である。暫定政権の設置、全国民協議、そして選挙の実施――といったどんな政治的解決法をもってしても領土の一部を実効支配されているこの国にもはや秩序を回復することはできず、政府は信用を失っていたからである(注5)。「長い間、このクーデターを望んでいました」とある伍長は証言する。彼はアゲルホクの殺戮事件の後、自ら遺体の埋葬を手伝った。「誰も政府に抗議しようとしませんでした。こんなふうに鶏みたいに殺されて、われわれには言葉ひとつないだなんて!」と語る。クーデターはバマコ郊外のカティ兵舎で始まり、首都圏の庶民や若者の歓迎を受けることとなった。
最高権力者は変わったものの、それでも軍人たちの境遇は改善されなかった。軍隊を裏切った者の罷免、新たな武器の補充や設備の改良――これらの約束は果たされないままである。400〜800人の兵を擁する8つの大隊から成るマリ政府軍の劣悪な状況は、半端ではない。設備が整っていないのは事実だが、問題の根は物資不足よりももっと深いところにある。
クーデター政権の指導者、アマドゥ・ハヤ・サノゴ大尉は治安機関首脳部に自分の部下たちを配したが、国際援助関係にある国々が即座に彼を無力化してしまった。「防衛・治安部隊再建軍事評議会議長」という肩書きをお仕着せられた彼は、戦闘から遠ざけられ、指名から半年後となるこの2月になってやっと正式に任命された。この間、彼が主要な軍事基地であるセヴァレを訪れたのはただの1回である。「コンナの戦い」がマリ兵士たちの勇敢な戦いによって陥落した直後、2013年1月11日に彼は兵士たちに対する即興の階級昇進を、現地の事情を知る当局不在のまま行なった。北部基地の兵士たちは、すぐさま昇任は不当だと抗議した。歴史は順当には進まない……。
砂漠のなかでゲリラや麻薬密売人たちの襲撃に遭うといったように“北部を体験した”者でないと理解できません」と、バマコで生まれ育ったボカルは言う。13年前に政府軍に入隊して以降、ほとんどの時間を彼は国の最北地域のキダルやテッサリで過ごした。これら厳しい状況にある地域の駐屯生活に比べれば、シカソ、カチ、セヴァレといった南部の駐屯所など快適である。
10人中9人が「世襲」将校
2012年3月のクーデター以来、25日以上戦地で戦った兵士には報賞金として5万CFAフラン(注6)が支給されている(それ以前は6千CFAフランだった)。しかし、ボカルは言う。「金の問題じゃなく、正当性の問題だ。兵士たちに働きに見合った階級が与えられていない。それに対し、将校10人のうち9人は将校の息子で、世襲軍人だ」。さらに将校たちが特権階級を作っていることで、下士官からの敬意を受けていない。下士官たちは繰り返される「コネ」昇進の埒外に置かれているからだ。
スメルー・ブベイユ・マイガ元防衛相は、北部における政府軍の相次ぐ壊滅が以下のことを示したという。すなわち、軍隊が実戦力に乏しく、前線を張る能力がないことを認めたのである。そして、政府軍が「お役所軍人」の集団になってしまっている、と言う。戦闘員でない、低賃金で働く軍人たちが、軍隊の給料よりも大小の不正取引で稼いで生活しているのだ(注7)。
イブラヒマ・ダヒルー・デンベレ大佐が言うには、軍隊が実際的な戦闘訓練の場というより「感化院、あるいは教育機関」のように思われていることがある、と嘆く。将校たちが上官として敬意をもたれないのは、兵士たちのもっとも基本的な権利を尊重することができないからだ。兵士たちの報賞金はなかなか支給されず、給与の支払いは遅れる、といった具合なのだ。それでも兵士たちは慎ましい支払いに甘んじている。二等兵として最初は月給5万5000CFAフラン(約80ユーロ)、13年間勤務し、伍長になって貰うのは月たったの13万CFAフランである。
閥族主義に、不公平な給料――これらは兵士たちにしてみれば、まったく不当であり、司令部は常に批判にさらされてきた。士官学校や、将校に教育を施すための学校が存在せず、士官教育が不十分であることは明らかである。ある訓練官が思い出すのは、たとえば彼が受け持った将校たちの大半が地図の経緯度を読むことができなかったり距離計算ができなかったことである。
おまけに上級軍人たちが受けてきた教育が一律でないため、連帯意識や共通語の習得に役立っていない――彼らはフランス、アメリカ、中国、そしてマリでも教育を受け、常に外国部隊と接触してきた。この4月に欧州連合マリ訓練ミッション(EUTM Mali)が発動され、首都バマコのあるクリコロ州(注8)で4個大隊が訓練を受けているが、こうした体質を早急に改善できるかどうかは確かではない。
北部地域では、住民は政府軍をほとんど信用せず自分たちで自警団を組織している。たとえばガンダ・コイ、ガンダ・イゾ、マリ北部解放戦線といったグループだ。こうしたグループのメンバー数百名(の男女)が、1994年にトゥアレグ族たちが統合されたのと同じ条件のもと政府軍への同化を望んでいる。さらに、彼らの多くは慣例である年齢制限を越えているため、年齢制限を設けないことも望んでいる。
「ATT」(トゥーレ大統領)は、自らの権力安定のため北と南の軍隊を対立させたばかりでなく、グリーンベレー部隊――サノゴはこれに依拠している――とパラシュート部隊のレッドベレーも啀み合わせた。元軍人から大統領になったATT自身、パラシュート部隊の出身であり、「赤」にはよりよい設備と物資、そして給料が支払われた。出どころは2006年以後テロとの戦いの名の下、アメリカとフランスからの金である。このことが同志である「緑」から嫉妬をかった。2012年4月30日、バマコで赤帽による反クーデター未遂が発生し、ふたつの部隊は衝突した結果、「赤」は数十名の犠牲者を出し投獄された。パラシュート部隊は公式的には解散したものの、和解後も「ベレー同士の戦い」の遺恨は尾を引いている。解散させられてから1年後、パラシュート部隊は援助国からの強力な要請の下、再編された。
ガオで住民を棄てて逃げた兵士たち
2013年1月の北部奪還以来、マリ兵士たちが一部の北の駐屯所で再び暴挙に出ている(注9)。おそらくは、ジハード主義者たち――不幸を持ち込んだタマシェクの「裏切り者」――ばかりでなく、彼らの味方をした一部のソンガイ族(北部の多数派部族)たちに対する復讐心を満たすためである。一部の兵士たちは、堕落した国家に対する軽蔑と並んで、任務として守るべき住民たちにも侮蔑の年を向けている。住民たちもまた兵士たちを軽蔑している。ガオでは誰しもが、逃亡した兵士たちのことを忘れていない。2012年3月31日、彼らは制服を投げ捨て、悲惨な境遇にある市民を見捨てたのだ……(注10)。そして2013年1月26日、介入したフランス軍がガオを征圧したこの日、今度は「西アフリカ統一聖戦運動(MUJAO)」の戦闘員たちが逃げ出さなくてはならなかった。
政府軍が数ヶ月の征圧を捨てて、「戦術的撤退」を絶えず繰り返す姿は、国民の不信を買ったことだろう。信頼を回復するには、軍が徹底して態度を改めるしかない。自尊心を傷つけられた兵士たちは、うっぷん晴らしの誘惑に負けずに矜持を取り戻すことである。しかしここ数ヶ月間、「勝ち組」の宣伝にもかかわらず、政府が参加することになる確たる和解プランもなく、マリの平和と統一は幻と化している。フランス軍およびアフリカ軍の駐在、そしてまもなく、将来、国連平和維持軍となることが予定されている1万2600人のブルーベレーが到着する。彼らの駐留は長引くことになるかも知れない……。
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絶望的な闇の深さ。
腐敗した政府、軍と部族対立。
何でも民主主義と考えるのは間違いだと思う。
安土桃山時代に民主主義を導入したって上手く行くかって
善き独裁者が必要なんだろう。
時代、社会に合った政治体制が必要だろう。
英国のMI6 コンゴの首相を暗殺
http://japanese.ruvr.ru/2013_04_02/109670863/
1961年に起きたアフリカ・コンゴ(現コンゴ民主共和国)の初代首相、パトリス・ルムンバ氏の拉致と殺害は、英国諜報部MI6で働いていたダフネ・パーク男爵夫人が組織したものだった。新聞「Telegraph」が報じた。
新聞は、デヴィド・エドワルド・リ―卿が,雑誌London Review of Books (LRB)編集部宛に出し、最新号に掲載された彼の手紙を引用して伝えている。彼は、2010年にパーク男爵夫人が亡くなる少し前に、彼女に会い話を聞いたという。
その時の男爵夫人の説明では、ルムンバ暗殺の理由となったのは、彼の汎アフリカ主義的なナショナリズムと親ソ傾向だった。欧米は、ルムンバがソ連共産主義体制の影響下に入るのではないかと懸念していた。
ルムンバは、1960年6月コンゴの初代首相となり、国内の分離主義に反対し、旧宗主国であるベルギーの植民地主義者らによる軍事侵略に反抗していた。同年9月陰謀により、ルムンバは権力の座を追われ、翌1961年1月17日、ベルギー警察職員とベルギー政府代表者がいる前で殺害された。
1966年には、ルムンバは公式に、コンゴの国民的英雄となった。なおモスクワの民族友好大学は、彼への敬意をこめパトリス・ルムンバ記念という名称を持っている。
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欧米の介入は腐敗を拡大するだけ
共産主義云々なんて建前だろう。
コンゴの資源に群がるものがたくさん居たってことじゃないかな。
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