03. 2013年5月06日 16:56:49
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>02 この場合、古い新しいではなく、あなたの意識が「活力か、その減退か」のどちらに意識が同調しているか、と云う事になると思います。そうなると「若さと老い」でもそう外れる事はないでしょう。あなたがそこに同調しなければ、人々のそうした日常の様子に心を奪われる事はないのでしょう。 その逆の位置に在る、あなたにとって活力ある世間とは、人々のどうした心境が表された世界といえるのでしょうか。 自由とは何か、という単純な問題に、正解というものをなかなか出す事ができないのが今の世の中です。 何故出来ないのかと云えば、言葉による観念的な理解に留まり、実践的な感覚的な理解に至っていないからです。故に誤った解釈が主流でしょう。条件付きで自由は与えられる云々。 問題の「自由」という言葉の認識自体、「只ほど怖いものはない」というように、一般的には恐れと同義的なものと看做しても居ます。つまりそのような社会や世界は訪れないと認識させる力として働いています。誤解されたものを流布し共有化させることにより、真の理解への到達を疎かにさせています。故に人々の進歩は止まったままです。そこには大概次のような事が謳われます。「自由を容認したら、勝手気侭な振る舞いを他者に許してしまい、秩序が守れない、社会が崩壊する」というものです。それは何より、自由である事を怖れる考え方です。 人々は先行きを常に怖れるあまりに、大きな力からの保護を求め訴える為のシステムを生み出しました。その時点で守られる立場の側はなべてみな一様に力を剥奪され均等化された後、支配的な力のみを従者に分け与えられることとなります。 これが現代の価値観の源泉となりました。長い歴史自体が物事に見当を与えたるとしても、正当性や正しさとして混同視されることは誤りです。あなたの言う様に新しい古いは関係ありません。過去どうだった云々は関係なく、今、これが現代のあらゆる様相と差別を生み出す我々の意識の拠り所なのです。 他者の振る舞いを監視する最大の理由と関心は、そもそも自由だったあり方が、他者の気ままな振る舞いの所為で自由ではなくなったと考えることにあります。そして今や自由は「制限つきで与えられるもの」としてあり、その課せられた条件をクリアしないものに対して、ペナルティを与えなければ気が済まなくなるのです。そこにまたシステムを外につくり出す様になります。より強力な支配力を利用しようとするからです。それは内側の自分の責任から逃げ出す事と同じ事です。故にそこに差別を産み、国家権力を強化させるのです。それは恐れから生まれた怒りから生じています。言うなれば、それは自然であるあり方から、自らそれを遠ざける事を選び、その苦痛を常に感じ続けていくような結果である事です。そのような不自然なあり方に、いつまでも耐えられる造りに人は在りません。故に意識は常に本来の自己の姿と自由を求めています。時にそれは、不自然な抑圧に本性が歪められた姿として現れ、反発や抵抗、秩序を乱す犯罪行為として現れます。それはただ自分の隠された力を掘り起こそうとしているだけです。しかし現代社会では、自然でありのままの姿に向かおうとするものを、異質な者として扱います。よって制裁が加えられます。権力とそれに対峙する者はそれぞれ自らに誤りのない正義を主張します。それぞれが大義の下に起こされる行為です。人はただありのままの姿を求め、そこに返り咲こうとし続けているだけです。 つまり現代は、不自然に溜め込まれた活力によって世間の秩序が維持されてもおり、そのことによって乱れても居ると云う事ですね。勿論それはみずから支配を求めた者の末路ということにもなりますが。 そもそも、自由とは、裏を返せば、他者のありのままの振る舞いを許すことだと言えるでしょう。これが出来れば、あなたは何からも自由で居る事が出来ます。人を制する必要は在りません。逆にそれが出来ないと考えるからこそ、今のような秩序支配が出来上がる口実を与えている訳ですね。 根本的に社会のあり方を変える事でしか、双方の言い分を納得し満足させる方法は無いと言えます。ただし、それぞれは満足した生き方は出来るのです。 意識は常に本来の自然な活力にのみ同調を見せる事でそれが可能です。 皆がそのようになれば、どうでしょうね。ゴミは散らかりっぱなしとなるでしょうか。もしそうなったとしても、気づいた者がどうすれば良いかは判りますよね。活力と云うものに乏しくなるのは、意識が喜びから離れて活力の減退や、寂しさや、悲観する物事に同調を見せているからです。それは常に、自身が、自分をどのように「見ているか」ということに気づく事で、再び愛情ある力を取り戻す事ができます。 すべての存在はそのように愛そのものと看做す事が出来るかどうかなのです。自分を信頼する事が出来ないものが、他人を信頼する事は出来ません。 人類や事の成り立ち、生死観、すべてを不可解に思っている者が、突然物わかりが良くなる事はないのです。人と云うものはよくわからない、と考えるから、そこに恐れや、懐疑的な目を向ける様になるのです。そこでは、悪魔だけでなく、神すら不可解なものなのですから、そこに隔てなく恐れを見るのは当然です。何もかも怖れるから支配を企むのです。愛が見えないのではなく、それを見るにはその者が愛に同調していなければならないのです。 今は分業化というものが進んだ所為で、意識的に落ちているゴミはその場を管轄する者の仕事だと感じて、故意に拾わなくなりました。浅草なんか、朝行けばゴミだらけです。でもそれが誰かの仕事となっている。ひとつの観点では、それは当たり前。それ以外は「当たり前でない」。サービスに過ぎるのもまた、消費者の顧客意識を悪戯に上げて,クレーマーを増やす原因にもなっている。またそこに、普段の抑圧された感情をぶつけている人さえ居る。ここで大事なのは、如何にゴミを捨てないか、抑圧を溜めないようになれるか、と云う事になると思います。ただし、それを社会の所為や学校教育の所為、つまり誰かの所為にし続ける事では解決には至らない。 そこには愛情だけが必要なのではないでしょうかね。 率先して、誰かがやるべきでもない事を人の目を気にせずやりつづける事が出来れば、自分は満足出来るでしょう。それを他者に強いる言葉や観念的な言い草をなしにして、ただ愛情をもってそこに尽くせば、ただしいメッセージとなるでしょうね。 自分の中にある活力に意識を合わせていれば、どのような秩序を乱す行為をみたとしても、再び批判して"活力の減退"に意識を合わせてしまうことはなくなるでしょう。習慣化されたものは、少しずつ変えていければ良いだけです。 |