13. 2013年3月17日 18:56:20
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>11 こう考えてみてはどうでしょう 概ね「全体の平和」の条件となるものとは、 「全体性に対してそれぞれの個々人の欲求が邪魔になることはない」筈のものですあなたのような方でさえ、個々に於ける趣味嗜好を抑制すべきだという意見を持つ方であるのでしょうか?(私にはあなたがそうであるようには感じられません) ここにジレンマがあります これはいつしか我々の中に不自然に吹き込まれた罠であるのだと感じられるものです この人の感性に素直な違和感こそ、自身の中に潜む問題を指摘するものであると考えるのです もしこれまで通りに全体性の平和を実現する為と称して、 他者と比較しては基準を作り、全体性の為に「ここはこうすべき」だという提案がひとつ赦されれば、 そこにもまた善と悪の観念が跋扈することとなり、その矛盾により平和の為の条件の定義が崩れることとなります 価値にそのものに対しての見方が違えど、それぞれに感性の幅と自由がある筈です 美に対する捉え方が直接的で無かったとしても、それを感性のなさとは否定し切れません 故に第三者の目を通して見た人の行動が「心的配慮に欠けた行為」として映るのは、(どちら側に)如何なる理由があってのことと言えるでしょうか 人の物を欲しがってもいいのです それは実に自然なこととして捉えられるものである筈です 自己の為にもそのように受けとるべきであるでしょう だけど、それは同時に一度持ったものを手放すことも容易に出来なくてはおかしいということでもある筈です 自然であることとはそのようなことであるからです (人は自然から切り離された存在で在ると云う考え方は、考え方としては より危険なものとして互いを看做すことになるのだと云うことをも付け加えておきましょう) それを欲しがってはいけないのだと云う理由を持つことも、持たせることもまた不自然な考えです 特定のCMに購買意欲を刺激されるにしても、自身の中に潜む問題解決の手だてを 外側に見ようとする意識がなければ、そうしたものに手を伸ばす理由は生まれない筈です 自分と云うものを素直にありのままに認めることが出来なくては、その理由も不明確なままに 自分を理解出来ないものとして看做してしまい続ける様になるでしょう それが原因として、何故欲しがるのかもわからないまま欲しがったり、 手にする為の手段と方法を誤ったりと、多くの心的抑圧による「事件」と云われるものが発生するのだと考えます そしてそれは自己の内面の問題が解決しない限り、薬と同じで繰り返し"処方"されることとなります ですがその抑圧の原因が、社会性の為であるとか、政治が悪いといった、外的な要因の所為にすることはできません あくまですべての自身の中にその問題を生み出す原因があるのだと云うことに辿り着かない限り、 自然に解決を見ることはできなくなってしまいます それは単に弱い心と表現し看做すことも出来ますが、どのような欲求さえもやがては自分に肯定されてしかるものです 皆がいつか一律「同じ考え方」に至ると云う事はありえません そうした他者の行動に囚われる事無く、自己を「自然な在り方」へと近づけるだけで、それぞれは全体の平和の発展に寄与出来るものとまた見ることが出来ます 人々に必要な知識とは分け隔てなく浸透していくものである筈であり、誰かが独占出来るものでもありません そうした学問が求まれます ひとりひとりが自己に平穏さを見出し、そのただ存在する実感の中に楽しみだけを捉え感じようとする技術を養うことです 互いの違いの中に、自己の内面に新たな発見を生むことになります そうして他者の存在性を理解すれば、自分への助けとなるものだけをそこから得ることになります 外側に向けて改めて人の在り方を変える必要性もなくなれば、訴えるべき主張もなくなり、 ただ人の平穏な在り方にのみに伝えられるものが残るということです 自分の内面に問題を隠し持っていれば、それは外側にただなんらかの問題の悪化を見ることになるだけだと云うことです これを理解するに「難しい」と感じるのは「自然だから」なのではなく、人が罠に嵌り続けて久しいからであるとだけ言えます 常に自己の存在を肯定し、必要ならば赦し、自分の今在ることの楽しみのみを常に感じようとだけするのは自然です 不自然な考えにて心を縛られてきた中に、「必要性」というものが生まれます その自らに遮ってきた不要な壁を取り外せば、平和に於ける心の安寧と表現の楽しみを純粋に自分に赦し与えることができます 一気に広がりを生むことはなくとも、そうする人が増えれば自ずと変化は生まれるものであると考えます 時間といった限界に追われたりする生活を自分に強いることさえなければ、 そのような自然な生活を取り戻すことは簡単ではないかとも思っています 平和とは「自己が平和に存在する」意識なくして達成されることはないのだと云うことです |