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メセナ企業の不純な愉しみ
ジョアン・ポプラール*
*パリ第一大学(パンテオン=ソルボンヌ) 講師(美術史)
http://www.diplo.jp/articles13/1301mecenat.html
訳:仙石愛子
フランスでは、芸術は長い間、国の事業であった。それが今日では、企業のメセナ活動が特に重要になってきたために、そうとも言えなくなっている。それにしても、投資の収益性を第一に考える民間会社がいかにも太っ腹なところを見せるのは、芸術への愛好からなのだろうか? メセナ活動は企業の文化的なイメージを高めるのはもちろんだが、他方メセナによって美術館のあり方も変わってきている。美術館がイヴェント会場に使われるのである。[フランス語版・日本語版編集部]
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「美術館が破格の値段で企業に身売りしている。ポンピドゥー・センター・メスの壁に(中略)『ヴァンデル』の名前が掲げられているのを見ると私は気分が悪くなる」(注1)と、当時モーゼル県選出の下院議員だったオレリー・フィリペティ女史は、大統領選挙キャンペーン中から、美術館と元製鉄企業グループの結びつきに対し、反発心をあらわにしていた。後に投資会社に改業したこのグループは、「何世紀ものあいだロレーヌ地方の鉄鋼業界に君臨していた」のだ。同グループは、こうした発言に「非常に驚いている」との談話を発表した。彼女の発言に意表をつかれたのも無理はなかった。ルーヴル美術館・開発部長の2005年の発言によると、フランスではそれまでの10年間、メセナ活動を発展させ美術館を「企業にとって都合のよい」(注2)場所にしようという努力が展開されていたからだ。
「メセナ立法」
現在、当のフィリペティ女史は文化・通信相となっているが、ポンピドゥー・センター・メスの壁にはヴァンデルの名前を依然として掲げているだけでなく、女史自身、企業メセナへの関心を繰り返し表明している。その上、この種の出資に関する優遇課税措置は、文化相として初仕事の一つとなった。「国はメセナの貢献を拒否できない」(注3)、文化事業の国の予算が抑えられている時は特にそうである。ジャン=マルク・エロー現内閣は歴代内閣の方針を継承しており、過去の文化相たちも30年間ことさらそれをやめようとはしなかった。1983年、ジャック・ラング氏[当時の文化相――訳注]は「経済界」と「芸術界」を合体させることを真面目に考え、「企業精神と想像力は強力に連携する可能性をもっている」(注4)と声高に叫んでいた。こういった方向性を持つ最初の政策が、1980年代後半、フランソワ・レオタール文化・通信相、次いでエドゥアール・バラデュール財政相の主導の下に実施され、法制上および税制上の骨組みがつくられた。その後、決定的となったのが2003年8月1日に可決された法律である。
新しい法律は、当時の文化相、ジャン=ジャック・アヤゴン氏(後に実業家フランソワ・ピノー氏やアマチュア美術収集家グループの文化資産購入や創作プロジェクトの顧問となる)によって上程された。この法律ができたことでメセナ企業は寄付金総額の60%に値する税額控除が受けられることになった。文化省のホーム・ページでは、この立法により「フランスはヨーロッパで最も奨励的な税制措置を享受できるようになった」と伝えているが、それはあまりに謙虚な表現だ。というのは、前述の税制措置は「アングロ・サクソン系の国、中でもアメリカのレベルに達したどころではない。フランスはアメリカを大幅に越えた」と会計検査院が2011年3月の報告書で説明している。作戦は成功した。2006年から2009年の間に、メセナ活動はその数量において2倍以上になり、何よりもまず大企業に恩恵をもたらした。ルーヴル美術館への寄付は3年間で1001万ユーロから2849万5000ユーロに増加し、該当する年の運営費のそれぞれ6.2%、11.9%に相当した。
メセナとスポンサーの違い
特典は減税だけではない。メセナ企業は当該美術館等へ優先的に入場でき、その他の通行証も手に入る。そのほか、寄付総額の25%まで通信・広告費が補償される。たとえば、ポスター、招待状、ネットサイト等々に社名とロゴマークを掲載することができる。また巨額の寄付をした際には大理石に碑文が彫られ、ルーヴル美術館の場合だとガラスのピラミッドの地下にそれが据えられる。企業の「広告」が作品と隣り合っていたり、あるいは展示会の入口で大きな顔をしていたりする。こういった現象を見て、手厳しい人たちはメセナと後援(「スポンサー」)の区別があやふやだと言い出す。たとえ法律が二つを区別していても――後援活動は宣伝目的の商業手段であり、課税控除には直接つながらない――、その違いは質的というより程度の問題なのである。国民議会内の文化・教育委員会は「新しいタイプの文化的メセナ活動」について、「デリケートな問題」と認める。そればかりでなく現場に即した展示の実行、各展示室へのメセナ企業名の付与の問題もある。「公的資金が乏しい状況で、メセナの『獲得競争』は力関係の変化を引き起こすかもしれず、その変化が必ずしも受益者のさらなる利益になるとは限らない」(注5)。
確かに、メセナ体制は自由競争と不平等の上に成り立っていて、各美術館はこれに適合しなければならなくなる。文化は企業環境に慣れなければならないが、文化は学ぶのも速い。グラン・パレの広間は誰でも賃貸契約ができ、補償金の名目で認可され、企業のパーティー用会場、たとえば「カクテル・パーティー、晩餐会、コンサート、映画上映会、カード遊び、賑やかな縁日」に変身する。「回転木馬やスクーター、特に『鴨釣りゲーム』(注6)は子供の頃を思い出させる!」美術館は「企業者たち」や「経営者たち」の社交場となった。「ルーヴルの賛助企業になれば、国内外のビジネス・パートナーの有力なネット・ワークに参加できる」(注7)。モエ・ヘネシー=ルイ・ヴィトン社のメセナ担当、ジャン=ポール・クラヴリー氏が国民議会の文化・教育委員会(2012年)で述べたところによると、大革命が産んだ美術館(注8)は《CI(コーポレート・アイデンティティ)》に従属し、私物化され、「幸福な少数者」(注9)のためのクラブや上級会社員のための遊園地に変身し、今や企業利益による植民地状態にある、という。
メセナの役割
しかしどちらかというと企業はこういった特典よりも、慈善的側面やこの上なく非物質的な利益を追求している。2012年6月には、《商工業分野メセナ活動発展アソシアシオン》(ADMICAL。 1979年に設立され、180会員のうち130社が企業)が嘆願書を提出した。それは、予算省が「企業メセナという節税対策に厳しいメスを入れたこと」に抗議するものであり、象徴的な意味を持つ。「メセナ活動は広告作戦ではありません。それは社会貢献であり、寄付であります。それによって企業は私人として社会に参与し、有用かつ有効なプロジェクトに関わり、まさに自らのアイデンティティを確認するものです」。ささやかな希望だが、それだけでは終らない。つまり、メセナは社会的救済活動となる。「われわれは今日、最も深刻な[社会危機の]問題解決に手を差し伸べる手段を持ち合わせています。不安定、失業、文化の貧困化といった危機の要素は、他者への苛立ちや拒絶を引き起こします」。この解決手段こそが「メセナなのです」。
一体なぜ、このように大げさな表現が可能なのだろうか。それは、メセナ活動を実践しようという企業は自らの中に利他主義性だけではなく芸術性が備わっているからである。《モニュメンタ》、これはグラン・パレの広間で毎年開催されるアート展示会であるが、2011年の開催時、あるタクシー会社が「コミュニケーションに貢献している」という記事が新聞に掲載された。このコミュニケーションとは、思想の普及、創作活動の流れ、そして人々の移動を結んでいる、要するに、タクシーは「芸術作品として自己とその環境の変容に寄与している」というのだ。メセナ企業がグラン・パレを援助するとはいっても、彼らが自分たちの企業を「グラン・パレのイメージや活力に結びつけよう」(注10)としているのは明らかだろう。やがて「寄付」は一方通行には終らず、こうした「パートナーシップ」の中でおそらく最も注目すべき賭け金となるのだ。メセナ活動は、《企業》と《芸術家》、あるいは《資本主義的事業》と《芸術的事業》の照応関係を具体化させてきた。企業家は創造性、想像力、冒険心を備え、もはや単に利益欲に動かされる資本家ではなく、ましてや搾取者でもない。逆に彼は芸術に親しむことによって貴族化した慈善事業家となる。芸術の実現に協力したからである。メセナ活動は民間企業の仕事に意味を与える。
疑問の数々
こういった仕組みは当然のことながら特別の美意識をかき立てる――少なくとも、いくつかの大イヴェントが想起させるものである。《モニュメンタ》、ナントの《エスチュエール》、《リール3000》あるいは《ヴェルサイユ宮殿・現代アート展》は、遊びとモニュメントの調和に関するあらゆる探求を表現している。こういった文化的大事業はメディア界を意識して、非常に誇張して制作されているように思われる。「《モニュメンタ》の展示会は、毎年たった一人のアーティストにグラン・パレを託し、大々的なショーを提供している。これは二人の巨人の闘いであり両者は立ち向かい絡み合う。すなわち、現代技術の頂点をなすグラン・パレという大聖堂があり、対するのは現代の怪物アーティストである」(注11)。しかしそれは、奇異な作品と装置、話題の夜会や人気のダンスパーティーが混在するいわば「祭り」でもある。それは有益でなければならない。「巨大な哲学的引用を乗り越え、ミニ・ゴルフをやりながら美術史的発見をし、インスタレーション・アート(注12)の中で水泳をする。人は同時に二つのことができるとき、なぜスポーツと展示会見学を選ぶ必要があろうか?」と、《リール3000》が行なった展示会のパンフレットは問うている。
良い質問だ。これは別の疑問を隠し持っている。一体どういう資格をもって芸術作品は収益義務の例外となるだろうか? 作品に注がれる視線が作品しか見ていないということを、確実に裏づけることができるのは何か? 国が美術館への資金投下という非生産的な支出を引き受けていることをなぜ認めるのか?「美術館が企業に身売りする」とき、フィリペティ女史が言うように、見学者たちはもはや購買客でしかなくなり、作品は資本主義を精神的に正当化する好機となり、最終的に「全体的利益」のための営為として認知されるようになる、という懸念はないのだろうか?
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美術館の企業への身売り、その資金の大半は減税で賄われるという。
企業の社会支配を強めることに成らないか??
いったいフランスはどこに向かっているのだろう??
マリへの軍事介入、安保理の決議があったとは聞いていない。
フランスはまだアフリカの権益に未練があるのだろうか??
サルコジからオランドに名前は変わっても中身は変わらないのか??
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