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Prout's Economic Principles
動画はインドの著名な哲学者・思想家、プラブハット・ランジャン・サーカー(以下サーカー)のスピリチュアル哲学と経済学を基礎にした独自の理論のほんの概略的な説明だ。
「プラウト理論」は端的に言えば以下の5基本原則からなる。
1.物質的な富の蓄積の否定
「いかなる人間も、集合体による明確な了解と承認なしに、物質的な富を蓄積することは許されない」
2.宇宙の潜在力の最大限活用、合理的な配分
「宇宙の日常的な潜在力、超日常的な潜在力、スピリチュアルな潜在力のすべてが最大限に活用され、合理的に分配されるべきである」
3.人間の潜在力の最大限活用
「人間社会の個体と集合体のフィジカル(身体・肉体的、物質的)な潜在力、形而上学的な潜在力、スピリチュアルな潜在力を最大限に活用すべきである」
4.適切な調整
「これらのフィジカル、形而上学的、日常的、超日常的、スピリチュアルな活用の間で適切な調整がなされるべきである」
5.状況に応じた活用の方法と活用の進歩的性質
「活用の方法は時、場所、人の違いに応じて変えられるべきである。そして活用は進歩的性質をもつべきである」
またこの思想は「ネオ・ヒューマニズム」と称されることも多く、それは偏に「生きる権利」という彼の考え方によるものだろう。
そして生活における絶対的な必需品を「衣・食・住・医・教」と定義している。
僕が思うに、彼のプラウト理論の特筆すべき点は、プラウト理論の5基本原則の5番目にある。
ここで彼は社会を常に変化する動的なものと捉え、他の経済学者のように経済を硬直性のある普遍的なシステムとして扱うことを否定している。
つまり現実の経済は常に変化しており、決して数式やモデル理論による分析では把握することができない。
現状存在する経済学は、過去の事例や現象を分析することで修正を加えていくので、いつまで経っても現実に追いつくことができない。
その結果、過去の事例を参考にした対策しか立てられず、常に後手後手に回ってしまう。
ならばいっそのこと目指すべき社会を決めたうえで臨むのが正しいやり方なのではないか?
現実社会に不都合が起きる度に理論を変更し、対症療法の如く応急処置を施すのではなく、不都合が起きない社会の構築を目指すべきではないのか?
このやり方は社会主義のプロセスとよく似ているのだが、それゆえプラウト理論は社会主義的思想と混同・誤解される事が多いのだろう。
また5基本原則の2は多分に宗教的であるが故、拒否反応をもよおす方も多いと思うし、ヒンドゥー教の用語がそのまま用いられたりしている。
その宗教哲学的な要素が色濃く出ているのは事実だが、ここで彼が言ってるのは「現実社会は物理現象・物理法則だけで成り立っているのではない。そこには個人個人の感情や理念・思想が大いに影響を及ぼしている。我々はそのことを肝に銘じ、よりよい社会を築くために自らの精神をコントロールして行かなければならない」と言う事だろう。
ラビ・バトラやダダ・マヘシュヴァラナンダは、サーカーの弟子としてプラウト理論を進歩させてきた功績者であるが、ラビ・バトラは1996年来日の折り以下の内容の発言をしている。
「日本は1950〜75年にかけて、多くのプラウト理論を実践していた。それはことに終身雇用や、人を育てること(所謂人材教育)に顕著に表れている。その根底には『伝統を重んじる』というプラウト理論の思想そのものが確かに存在していた。」と。
そしてその後、我々は西欧資本主義の「自由」を手に入れるのと引き換えに、かつての日本の美徳であった「伝統」を捨ててしまったらしい。
実にもったいない話だ。
また「プラウト理論」は「分権経済」、「均衡経済」の他に「社会サイクル論」と言う重要な要素がある。
これは別名「ヴァルナ(階級)論」とも言われるが、ここで言うヴァルナとは「ある環境のもとで生存と発達の特定のスタイルとして表現される心理的傾向」を指す。
。そしてヴァルナは、シュードラ(労働者)、クシャトリア(武人)、ヴィプラ(知者)、ヴァイシャ(商人)の4つに大別され、
シュードラ⇒クシャトリア⇒ヴィプラ⇒ヴァイシャ⇒シュードラ・・・
というサイクルを繰り返していく。
しかし単純にぐるぐる回るだけではなく、螺旋階段のように少しづつ上方へ向かう、つまりサイクルを経る毎に成熟していく。
またここで社会サイクルの超越者たる「サドヴィプラ(精妙智者)論」が登場する。
サドヴィプラは「文字通りの意味で、精妙な心をもった人々」と定義され、彼らは各階層が持つ長所・短所の中から、短所を排除した「すべての資質」を身に着けなければならない。
それが階層を超越する唯一の手段なのだ。
今の日本の政治家には『自分たちこそがサーカーが言うところの「サドヴィプラ(精神性=スピリチュアリティの高いモラリスト集団)」にならなくてはなないのだ』と言う自覚を持ってほしい。
だがきっと、それもきっとはかない幻想に終わりそうだな・・・
社会サイクル論を日本の歴史に当てはめた考察はまた次の機会に。
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