http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/740.html
Tweet |
誘導したと見なされる事実がいくら出てきても、「誘導されたとされる本人」が出てきて「確かに私は誘導されました」と言わない限り、誘導の事実は立証されない。 逆に加害者側が「俺は誘導なんかした憶えはない」と否定しても、被害者側が「あいつの誘導がなければ、私はそんなことはしなかった」と言えば、たぶん起訴されるだろう。
つまり「誘導されたとされる本人」の頭の中を覗いてみないかぎり、結果的に誘導されたのかどうかは判断できない。 小沢氏案件でいえば、検察や審査補助員の「誘導らしき言動や調書」がいくら見つかっても、肝心の審査員が現れてくれないことには「誘導された」とは断定できないのだ。 そしてまだ審査員は我々の前に姿を見せない。 私たちはいつまで待てばいいのだろう?
第5検察審査会の審査の違法性を追及するのに、各自のアプローチの違いはあって当然である。 経験や得意とする分野の違いにより「目のつけどころ」が違ってくる。 いまだ正解に達した者はいないのだから、諸案がネットで披露されてそれを読んだ者がまた別の立場で考えればいいのである。 丸呑みできる「正論」を探している人には気の毒だが、私たちの追及では100パーセントの解明は無理だ。 だいたい捜査権がないんだから。
特に「誘導」の面から追っている人には、「審査員の出現」が鍵となろう。 逆にいえば、これがかなわない限り永久に千日手を指し続けることになる。 「誘導された」とも「誘導はされなかった」とも断定できないから。 誘導した側からすれば最高の展開であろう。 しかしものは考えようである。 永久にグレーのままなら、永久に疑いの眼差しで見られる。 それに耐えられるのなら構わないが、今後の業務に支障は出てこないのだろうか?
仮に誘導の方法を使ったとして、よってたかって周りから審査員を誘導したあげく8名以上が「起訴相当」に入れてくれるのは確実なのだろうか? 1000人に勧誘して、1000人がすべて壷を買ってくれるだろうか。 「せんみつ」という言葉がある。 3人が騙されてくれれば上々だ、という隠語である。
また、誘導が過ぎてひとりに反感をもたれると、それは周りの人にも伝染する。 そうなると収拾が付かなくなる恐れがある。 誘導とは、どっちに転んでもいいような場合に行なうものだ。 絶対にやってもらわなければならない事に対しては「脅し」とか、別のより確実な方法をとるのが普通だ。 検察でも誘導だけでは「偽供述調書」は取れない。 本人や周りの人に恐怖を感じてもらわないと、頑強な容疑者は容易に「検察作成の供述調書」には署名しない。
無垢な素人審査員を検審事務局が脅した、という構図は考えがたい。 それなら審査員も黙ってはいないだろう。 いまごろどこかの週刊誌に駆け込んでいるはずだ。 「誘導された」としてもマインド・コントロールから醒めれば同じことだ。 すると残る確実な方法は、「審査員なしの審査・議決」か「全員が指名打者の審査員による審査・議決」しかなくなる。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。