http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/717.html
Tweet |
ここにも西洋「経済学」をめぐる日本の学者たちの反応と同じ構図があると見て良いだろう/仁王像
「反哲学入門」木田元/新潮社‘07年から
第一章 哲学は欧米人だけの思考法である
・哲学を不幸な病気だと考えることが、わたしにとっては…出発点になっているかもしれない…。日本には哲学がないからだめだ、というふうなことを言う人がいるが、わたしは、日本に西欧流の「哲学」がなかったことは、とてもいいことだと思っています。
・デカルトの言う「理性」とは、神によって与えられたもの、つまり神の理性の出張所・派出所のようなものなので、それを正しく使えば、つまり人間のもつ感性のような自然的能力によって妨げたりせずに、それだけうまく働かせば、すべての人が同じように考えることができるし、世界創造の設計図である神的理性の幾分かを分かち持つようなものだから、世界の存在構造をも知ることができる、つまり普遍的で客観的で妥当する認識ができるということになる。
デカルトの言う理性は、われわれ日本人が考えている「理性」などとはまるで違った超自然的な能力なのですから、それを原理にして語られていることが、われわれに分かるわけがない。われわれが劣っているということではなく、思考の大前提がまるで違うのですから、当然のことなのです。
・ニーチェ以降の現代欧米の哲学者たちは、そうした超自然的原理の設定を積極的に批判し解体しようとしているわけ。そう思うと、これまで日本の哲学研究者たちの集団自己欺瞞がおかしくて仕方なくなりました。分からないものは分からないと、率直に認めれば、なんの問題もなかったはずなのに。しかし、わたしにしても、それを口に出して言えるようになったのは五十を過ぎてからでした。
「新人生論ノート」木田元/埼玉福祉会‘08年から
<理性について>
・デカルトの言う<理性>は、たしかに自然的な存在者としてのわれわれ人間のうちにはあるが、もともとは人間のものではなく、超自然的な神の<理性>の出張所とか派出所のようなものなのである。
その上、この世界創造論によれば。この世界は神が創造したもので、あり、神の<理性>がいわばその設計図になっている。
だが、そうだとすると、そんな信仰も前提ももっていないわれわれ日本人が彼のいうような<理性>をもっているはずはない。もっていなくて当然なのである。そう気が付いて安心もしたが、それと同時にそれじゃあ先生や先輩たちの、当然その程度のものはもっておりますといったあの顔はなんだったのだ! と思いもした。
あの人たちも私同様うしろめたく思いながら、いまさらそんな<理性>は知りませんとも言えず。もっているふりをしていただけだったのか。これは集団詐欺じゃなか。…明治に西洋哲学の研究がはじめられてから百五十年近くなるが、その間誰も気づかずに。そうだとすれば、集団自己欺瞞ということになりそうだ。
それはともかく、肝腎の<理性>が神的理性の出張所というのでは、自我をそうした<理性>として自覚することが、はたして近代的自我の自覚ということになるなかどうか、これもあやしいことになる。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
- 木田元『偶然性と運命』岩波新書 2001/松岡正剛(千夜千冊)2009.12.18 仁王像 2012/10/21 20:25:49
(0)
- 『理性』=客観性では? オリハル 2012/9/24 21:54:02
(0)
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。