10. グッキー 2012年9月23日 01:06:29
: Cbr3d6O9vj7Mc
: 8uwuPwSA1g
>>04. 茶魔さんあんまり長いコメを書かないで下さい。出来たら分けてゆっくりとね。 あんまり長いコメだと、これみんな回答するのかーって、気力が無くなって来るではありませんか。 >これが情報の共有化ということです。 >ちょっと違うと思うな。 同じ情報を共有したところで、立場の違いにより意見が異なることも十分あり得る。 言い換えると同じ情報を共有しても、同じ認識・見解にになるとは限らない。 例えば「あそこの家には老婆が一人で生活している」という情報を共有しても、善意の人は「心配だからたまに様子を見に行ってあげよう」と思うだろうが、悪人は「よし、いっちょ強盗に入ってやれ」って思うかもしれない。 また無関心の人は「他人のことだ、放っておけ。もしも必要ならば身内が何とかするだろう」と言うかもしれない。 議論は情報の共有の先の問題だ。 情報の共有化とはすべてが同じになるという事で、現実的には起こりえません。 ただし程度によって似てくるということです。 >相手が理解しようとしないなら、せめて相手に自分がちゃんと議論をしようとしていない事くらい分からせる。 そんなことを相手が本当に理解すると思っているのですか??? >そういう輩は、議論に詰まると平気で議論をうっちゃって(放棄して)また性懲りもなく同じ(あるいは全く異なる内容の)主張を別のところでし始める。 思ってないではないですか。 >何か結果を期待している訳じゃないが、心情的に許せないんだなw って別にオレが正義の味方だと言うわけじゃないが、偽善者面をする奴は大嫌いだ、ってことだね。 放っておけばいいんだろうが、できないんだなこれがwww これが唯物論的思考なのです。ただしいものが「ある」とするから、間違っているものが「許せない」ということに成るのです。 自分の正しいと思うことが、自分の脳内産物の正しさだと知れば、許せない、ということは起こらない事なのです。 アフリカの諺に、何かが立っている傍には何かが立っている、というものが有るそうです。 正しいことは一つでは無いという意味だそうです。自分が正しいと思っているように相手も正しいと思っているということです。 正しさと正しさがぶつかるのは非常に危険なことなのです。 >それは必ずしも情報の共有化ではない。 同じ情報を共有しても、その情報を公共の利益に役立てようとする人、私欲に利用しようとする奴、全く無関心な奴、人それぞれだ。 確かに情報の正確さという根本部分で議論が起こることもあるが、それは前提条件に対する認識が違っていたり、或いはどちらか、または双方のその事象に対する理解が不完全だったり、または情報は共有されているものの、何らかの目的で意図的に一方がその情報を否定したり、さまざまだ。 情報の共有化とは経験もすべてのものを含めての話です。 すべての情報の共有は起こらないので当然違いが出ます >だからこそ議論は重要なものであり、どちらかの前提の認識や事象の理解不足を補っても議論が一向に前進しないのなら、意図的に議論の進捗を妨害しているのではないか?という疑いが湧く。 それもまた相手がそうするほうが良いという情報を持っているからです。 >オレはそういうやつを議論から排除したい。 「オマエには議論に参加する資格などない」とね。 それをするために自ら論理破綻させたり、ぐうの音も出ないほど決定的に論破しようとするんだろうね。 だからこれは正しいものが「有る」という唯物論の前提に立っているからです。 >違うってw っていうか相手がそう装う場合があることは認める。 オレが言うところの議論放棄だな。 自分の脳内産物の正しさを相手に押し付けようとするからでは有りませんか 相手には相手の脳内産物の正しさがある。 >それか議論を続けている振りをして、平然と従前の主張を蒸し返すとかねw そこから議論が進んできているにもかかわらず、しらっとして音飛びのするレコード盤のように突如話を前に戻す。 それが相手の脳内産物の正しさなのでしょう。 >あまりそれを続けられるとこっちが根負けする場合もあるw その時は「一生やってろ、ボケ」って言っちまう。 でもそうじゃない場合もあるよ。 こっちが詰み切れずに話が堂々巡りし始める場合もね、まるで千日手のように。 そういう時はオレは論破しきれなかったってことだね。 論破という考えが、正しいものが「有る」という前提に立っているのではありませんか。 >でも基本的にオレは分からない部分は都度調べて理解しながら議論していくよう心掛けてるから、調べていった結果オレの認識・理解不足を露呈することも少なくない。 でもそういう場合はオレは即座に「あーアンタの言ってる意味が分かってきた。確かにそうだね」って言うよ。 そうすれば相手は今度もっと教えてくれるようになるしさ。 聴く耳が有るのは良いことですね。 愛とは聴く耳だという話しが有ります。 人の考え、感情、すべてを聞こうとすることです。 例え相手が説明を間違っても、相手の真意を聞こうとする耳です。 説明が悪いなんて言ってちゃ、聴く耳がないと言われますよ。 >つい最近もあっただろ? オレが「政府の負債と国債に関して、このままじゃヤバい」って言ってたのが、経済に詳しい人と議論していてその人が「国債が国内で需要があるうちは経済破綻の恐れはない」(そういう表現じゃなかったんだけど、オレが「あー分かったwアンタが言ってるのは「国債が国内で需要があるうちは経済破綻はあり得ない」って意味だね?」って言ったんだ)って言ってた時。 オレは最初「そんなことはない」って主張してたんだけど議論しながら調べていくうちに「あ、そっか」って分かったから「って気づくの遅いかwww」って自虐しながら認めたw そしたらその人「これでも俺は財政再建論者なんでね」って意味深なこと言ってたね。 オレはその人が限界を分かった上で「今はその心配はない。だが財政を再建すべきであることは確かだ」って言う風に解釈した。 たぶん財政赤字が増えすぎたら、実体経済に悪影響を及ぼすという意味で、財政再建と言ったのではないでしょうか。 >でも脳内産物って言うのを前面に出すと、じゃあ理解なんて所詮自己満足じゃん、ってことにもなるからね。 オレは脳内であろうがなかろうが、自分が間違った理解をしてそれをさも理解してるが如く勘違いし、他人に吹聴するような事態を一番恥ずかしく思う。 だからできる範囲で極力真実を理解したい。 人間は正しいと思うことが自分の脳内産物の正しさだと氏っても、その正しさに従って行動するしか無いのだと思います。 しかし人の脳内産物の正しさとぶつかることは良くないことだと思います。 >そうなの?w やっぱあの爺さんの時やりすぎたかなぁ・・・ 悪い波動を創り出してはいけません。波動はこだまし増幅します。楽器のように。 悪い波動に陥れば、人の考えや感情を理解しようという気持ちが無くなり聴く耳を失います。 私が見かねて忠告したものを敵意と受け取る。聴く耳が無いと脳内産物が敵意を生み出してしまうのです。 >オレのせいもあるね。 グッキーさんとの今回のことも、もしアンタが鷹揚な性格じゃなかったら、オレまた同じ過ちを繰り返してたかもしれないな。 私は、まあ、自分の脳内産物ですが、心というもののあり方を少しは理解しているつもりなので、あまり感情に左右されることは有りません。 >解消できなければ、また解消する努力をする。 つまりもう一度仕切り直して議論する。 だから2行目3行目は意味がないし、情報の共有化の意味は上記のように少し違うと思う。 人と人の間には、もの凄く広い河があるような気がします。 これは実感してみないと分からないでしょう。 気づきがその溝を少し埋めます。 気づきがあったなっと感じた時、相手の心と触れ合った感じを受けます。 >同じものに対して一人は「白」と言いもう一人が「黒」と言うなら、二人の言葉の意味する内容が異なるのか、その差が生まれる原因がどこかにあるのか(たとえばメタリックブラックの車に光が反射してるとか、逆に陰になる方向から白いものを見てるとか)、故意に嘘をついてるのか、何かあるはずだ。 それを「「まあ、考え方は人それぞれだからね」っていう言葉で片づけられるものと、そうじゃないものがある。 生まれ育ち、経験、体格、すべてのものが違うことによって、観察する観察者が変われば、観察される対象は違って見えてくるのだと思います。 例えば橋立さんは、敵味方、勝ち負けというものが思考の大きな部分を占めている。 そういう目で見れば、人は敵か味方かに見えてくるのではないですか。 >またなるべく同じものに対して同じ理解をすることは、共存する上で大切なことだと思う。 自分の考えを強制しない限りにおいてね。 だから強制なんてことが起きないためにも「自分から相手を積極的に理解しよう」っていう姿勢が大事なんじゃないのかな。 その通りですね。そうしなければいけません。 その大きな溝を埋めるのは 愛=聴く耳だと思います。
|