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経営学で勉強した人は多いだろうが、会社実在説と会社擬制説という全く異なる企業の定義があることは知っていることになっているはずだ。
会社実在説は法人というように実態として個人を超えた会社という実在を認める説だ。簡単に言えば今の日本の会社のありかたそのままだ。
一方の会社擬制説というのは日本人には理解を超えているようである。ようするに欧米の個人主義にのっとった考えで、個人以外のあらゆる実在を拒否する考えだ。要点はすべての所有は個人に帰するということだ。これを逸脱してしまえば個人主義、自由主義が崩壊し集団が所有権を個人から簒奪する全体主義にいたると欧米人は考える。
だから、基本的に欧米の株式会社制度はすべて株主という個人に所有が属し、経営が会社を所有するなどというフランケンシュタイン的な行為は許されない。仮にある企業が持ち株会社を持ってもつまるところは個人が所有権を有するという建前になっている。
では、日本はどうなんだろう。これは有史上例を見ない会社実在説にのっとった社会だ。というより人間不在の会社社会だ。日本人には個人は穢れた存在で己をむなしくすればするほど立派な社員ということになる。現在の社員たちのロボットのような行動形式を見ればそれはうなずける。特攻で己の命さえ捨てた国民によってこそ出来る行為といえるかもしれない。帝国陸軍の兵士が死を賭して守った連体旗は多くは虫食いで房だけになっていたという話だが実在したと思った集団組織が擬制だったとはかつての敗戦で経験したはずだ。
今の日本の息ぐるしさはかつての農村社会以上だが、会社という競争社会でどこまで尽くしても会社共同体から確定した認知を得られないことに起因する。農村なら能力より出自や人格で社会的認知が決定するがよほどのことをしないかぎりは追放されたり所帯をもてないことはない。
一方現在の会社社会はリストラ、左遷、際限ないパワハラ、自殺、過労死、さらに低所得者は結婚さえ出来ない。ようするに人間がもはや住めなくなったのが会社実在説の日本だ。
奥村宏とか内橋克人とか鋭い会社組織批判者は多いが多くは会社擬制説より実在説に好意的なようだ。それは新自由主義への反発と会社を共同体と見る組合の役割に重きを置いているからだろう。
しかし、今の日本会社社会の弊害は会社の論理の徹底からきているという点ではやはり会社実在説にのっとったものだ。要は会社組織のイニシアチブを組合が握れなかったことを内橋等の会社批判者は嘆いているのだ。しかし、会社実在説にのっとっている日本が西欧より労働法に不備が多いのも結局、会社擬制説にのっとって会社とは本来共同体とは反対の利益を目的として人間を商品化する危険な組織であるとの認識が足りないからだろう。どうあがいても会社は家族や共同体の代替物にはなり得ないのにそこにすがりつくのは結局、独裁的に企業を支配する資本かも労働組合主義の左翼も同じアナの狢だということだ。今の日本を見ればいかに会社の経営者側が共同体幻想を利用しているか明白だ。
だが、超資本主義の新型会社論を打ち立てるには、そんな古くて狭い論点を超えているところから会社を規定するほかない。
かつての農村社会ではまだ家制度のくびきに打ちひしがれていても個人や家族が生産の主体であった。生涯未婚率20%を越えた今の会社社会よりはましだったのだ。
超資本主義社会では会社は無いのだから、あくまで社員や契約者や請負の個人が主体となって会社の影響力が低下する。会社の領収書も請求書も結局、株主が集団で株式比率によって責任を持っているのだ。別にソニーとかトヨタとかいう実在があるわけではなくなる。
大体、あるオカルティストは民族霊とか大和魂とか集合的なアイデンティティを推測するが会社には会社文化とか伝統はあっても会社霊など存在しない。そんな精神も実在しない団体に所有権を認めるなど物による物と人間の支配でまさしくフランケンシュタイン現象だ。
会社には当然無形の技術体系や知識体系はあって生産活動に傾向を与えるがそれも経営者や社員が受けついで受容しているからだ。
というわけで、個人をはるかに凌駕し支配する聳え立つ企業という存在は砂上の楼閣にすぎないし、そんな砂上の楼閣の論理や評価体系に個人が支配されている社会は衰退するしかない。
会社なんてただのロゴマークで実態は雇われ人と株主たちという個人の利益を目的とした集積にしか過ぎない。
というわけで株式会社をはじめとしたふるーい企業形態に変わる大企業に匹敵する新しい生産形態を確立すべきだが、それは有限会社や合資会社あるいは単に個人が複雑に契約し結びついた複合体の場合もあるだろう。例えば大阪の町工場が人工衛星プロジェクトを立ち上げた等はいいモデルだ。それを推し進めればすべて個人による生産複合体も可能なわけで株式会社はおろかあらゆる会社組織さえ必要なくなる。うまい利益配分の方法を考えれば株式さえいらない。
以上、3回シリーズで長々と述べたが、諸氏も人間のいない会社社会と会社の(支配し)ない社会のどちらが未来的で本来は経済的か考えていって欲しい。
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