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核の神話の残されたもう一つは、その1の神話よりも遥かに罪が重い。 何故なら、その1は日本に止まるものでしたが、こちらの方は世界の運命、人類の行く末に関わって来るのですから。
私は上で、日本の姿勢は核によるアメリカの支配権確立に最大限寄与したと述べましたが、それは、仮にこれが正反対であった場合を考えてみればいい。
(1)核を使用したが故に、日本が、今のイラン以上に、強力な反米国家となったとしたら、、、
ーその時、核は<武器>としては使いものにならなくなる!
何故なら、軍事力詰まりは国家暴力は、個人レベルと同様、相手に己の意思を強制し、更に従わせる処にその意義が在り、もしもその反対の結果しか生まれないとしたら使う意味が無くなるからです。
核を使うことで、より強い敵意を生じさせ、それが己の意思の実現を却って阻むものとなったとしたら、核は政治的に見たらマイナスの手段にしかならない。
(2)「平和の為の核」なるプロパガンダに同調せず、内部被曝を認め、ドイツに先駆けて、<核>が倫理に反する存在であることを主張し、その運動の先頭に立ったとしたら、、、
ー果たして、<核>の威力=魔力にこれ程までに人類は翻弄されたでしょうか?また(原爆であれ原発であれ)現在見る程に拡散していたか? −むしろ、第一次大戦で使用された<毒ガス兵器>と同じ運命を辿ったのではないか? 何故、第一次大戦では使用された毒ガス兵器が、第二次大戦においては殆ど使用されなかったのか?を考えてみるがいいのです。 不確かな軍事的効果よりも、政治的効果の方を優先するという、考えてみれば、真っ当な判断が貫かれていることが見て取れるでしょう。
詰まりは、ヒロシマ・ナガサキの「結果」をアメリカの都合の良い様に編集することを許さず、内部被曝を認め、実態に即した、核の実相というべきものを知らせる態度を初期の頃から取っていれば、今より遥かに強く、核兵器使用の残虐性、更には核と人類は共存出来ないこと、詰まりは<核>の反倫理性や非人道性を訴えることとなったはずです。
市民組織ECRR(欧州放射線リスク委員会)が出来たのも、チェルノブイリ以後、その実態に接することによって、それまでのICRP(国際放射線防護委員会)の安全基準の根底にある<ヒロシマ・ナガサキモデル>(アメリカの戦略に添った、言うならばアメリカ御都合モデル)の不当性※にヨーロッパ市民自らが気付いた処にあります。
※ICRPとECRRとの安全基準の差は、言うならば核を<落とす側>と<落とされる側>の違いと理解すべきなのであり、従って、我々にとっての<安全基準>はどちらなのか、申すまでも無いでしょう。
もしも日本が、早期の段階から、そうした立場に立っていたならば、「核の被害」についてリーダーシップを取れただろうし、翻ってそれは、少なくともアメリカに対する(又他の核保有国へも)道徳的優位性にも繋がって行ったことでしょう。
言うまでも無く、核保有国とは”核クラブ”=戦勝国でもあります。
当然その事は、日米戦争における、”勝者の裁判”としての「東京裁判」の不当性を浮き彫りにしたでしょうし、延いては戦後支配体制=ヤルタ体制の虚妄=米(ソ)支配の虚妄を炙り出すことにもなったでしょう。
他方、「内部被曝を無視、乃至軽視する」ことによって核戦略は成り立っているのですから、軍事戦略の根幹に倫理の刃を突き立てるこの行為は、核兵器を、倫理的に疚しい、忌むべきシロモノであることを浮び上がらせ、結果的には、「毒ガス兵器」同様、使用する事は元より、持っている事さえ口を憚れるものとさせたでしょうし、それは又、米ソを筆頭とする”核軍拡競争”に大きな歯止めなり制約を課すことにもなったでしょう。
ーかく言えばとて、勿論私は、ここで、現実問題として考えた場合、その通りに事が運んだとは考えておりません。 実際にそれが何処まで可能だったのか?最悪の場合、敗戦時の様に、「戦勝国」の包囲網中での孤立ということも十二分に考えられたでしょう。 しかしながら、そこにこそ「可能性の技術」としての<政治>の意義があるのだと、同時に思います。 「可能性の技術」を駆使して、事態をより良い方向に動かして行くーここにこそ、政治本来の意義があるのだ、と。
逆に言えば、我々が見るべき<核問題>の本質は政治の不在にあるのです。
更に言い方を替えれば、政治(家)不在の裏返しの、官僚主導の最大の問題が顕れ出ているのが<核問題>である、ということです。
米大統領が”核無き世界”に言及し、原発でトップを切っていたフランスにも”反原発”の気運が高まっている。 明らかに<核の神話>は崩れつつありますが、(1)(2)を顧みたら、ひょっとしたらそれがもっと早かったかも知れない、否、元々その<神話>は成立しないか、しても極めて脆弱だったかも知れない、と思われます。
そうしてこの事は、<核>の威力=魔力が然程効かぬものだったら戦後世界はどうなっていたのか?という問いへと我々を誘うものです。
「米(ソ)のリーダーシップが無ければ世界は混乱し、より酷い事態になっていた」のか?果たしてそうか?むしろ、今と然程変わらなかったのではないか?と。
私は、ベトナム敗退後もアメリカが覇権を保てた第一の理由は日本の首根っこを掴まえていたからだと思うのですが、それさえも不可能だったかも知れないー最近アメリカの覇権の凋落が取り沙汰されておりますが、言い換えればそれは、40年前に訪れていたのかも知れない※のです。
※この際逆に、アメリカの覇権の凋落は、”ジャパン・アズ・ナンバーワン”とされた日本の国際的な地位の低下に伴って起きたものー程度の仮説は立てておくべきではないのか?
我々が今観ているのは60年前、少なくとも40年前の光景であったかも知れないーその事に気付けば、この間、実態を直視することなく、只管アメリカに平伏し、或いは仰ぎ見て来た戦後日本の在り様は、宛ら宦官とか侍女を想わせるものに見えて来ます。
実際の日本は(1)(2)とは真逆、世界でもトップクラスの「親米国家」になっていき(A)、<核>についても又、少なくとも国家レベルにおいては、アメリカの思うが侭に振舞い、付き従って来たのですから。
(1)と(A)をアメリカから観たらどうなるか?
原爆を使ったことで、直ぐに降伏し、(それ以前には全く考えられなかった)極め付きの「親米国家」に成った!
つまり核を使ったことで「良い結果」ばっかりだった−少なくとも、「核使用」のマイナス効果は全く無かったーのだから、「核の効果」を最大限追求する戦略がその中心を占めて来ることは自明でしょう。
それは又、他のライバル諸国を刺激し、同様の戦略を取らせることになる。 かくして、今日の核拡散に繋がり、それが、「北朝鮮問題」に見られる様に、尚更一層、日本を縛らせることになっているのです。
ーこれらを客観的に観たらどうなるか?
当のアメリカを除いたら、”核無き世界”の最大の障碍が日本だった!ということです。
更に又、斯かる日本の極端な親米姿勢こそが日本(外交)を袋小路に追い込み、それが更なる”対米依存”に繋がる悪循環に陥っている。 そこに炙り出されるのは日本の信じられない程の政治オンチぶりであり、思想やイデオロギーへの鈍感さです。 ーその由って来る原因とは一体何なのか?
我々は、此処に来て、いよいよ「政治オンチ」の意味、更には思想やイデオロギーへの鈍感さの由って来る原因を探る段階に来ているように思えるのですが、、、、
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