http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/662.html
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内田樹は、「質の高い情報」(その人以外には発信できない種類の情報)を持っているか「質の低い情報(誰でも言いそうなこと)しか持たないかによって、<情報貴族>と<情報難民>に分け、ネット社会が急激に階層社会化しつつあることに警鐘を鳴らしておりますが、この場合、<難民>というより、<弱者>と呼んだ方が適切であろうと思います。 元よりこれには、ネット居住民が、「就職難民」同様困難な立場なり状況に置かれてるという事の他にも、現実から逃避して来たという意味が言外にあるのかも知れませんが、特権的な立場に在る者を<貴族>とするなら、それに対しては、本来は、<平民>とか<第三階級>とした方が適当でしょう。 そうして、如何なる特権も持たないけど、己の才覚と努力で状況を切り開いて行く力を持つという意味がこの<平民>とか<第三階級>という概念に含まれており、消費社会では<賢い消費者>であることが、又情報社会においては<情報リテラシー>が叫ばれるのも同じ文脈でのことだったはず。 しかしながら、不況が長期化し、消費への志向(幻想)が薄れると共に、斯かる意味での幻想とか実体が失われ、<持てる者>と<持たざる者>に急速に分解しつつある情況を観るなら、弱肉強食でいう<弱者>とすべきではないか、と思うのです。
民主主義を”弱者のルサンチマン”と見做したのはニーチェですが、誰にも参加出来るという意味では最も「民主主義」的な場である2ちゃんねるは、また”ルサンチマン”に溢れております。
何が決定的に欠けてるのか?と言えば、基本的な視点であり、大所高所からの観点です。
例えば<核>にしても、この問題が「マンハッタン計画」から始まってる事でも分かる様に、そもそもが政治、分けても国際政治の産物です。 当然、その科学的立場及び知見そのものにも政治が刻印されてる、と見なければならない。 「科学の党派性」を論じたのは戸坂潤ですが、フクシマで我々が目の当たりにしているもの、特に<安全>論議を巡って垣間見えるのは、党派性というより、後述しますが、科学は政治であることの露骨な現実です。
そうして、これらの事を理解する為には思想とかイデオロギーといったものが必須。 逆に言うなら、こういった視点欠けてる意見は、文字通りの”隔靴掻痒”か、空念仏に終わるしかない。
と言って、これは、別に、皆さんを批判して言ってる訳ではありません。
何故なら、これは、上で挙げた<貴族>とか<情報リテラシー>の専門家達※も含め、殆どの日本人に当て嵌まるものだから。
※或いはそれは、日本における<貴族>や<第三階級>の実体を示してるのかも知れませんが、、、
私は、以前、「核問題」を熱心に報じてるジャーナリストと議論したことがありますが、<情報リテラシー>に掛けては玄人であり、「核問題」に関しては専門家により近い立場に在るはずの彼等にしてからが、国際政治に音痴で、思想とかイデオロギーにも殆ど通じていない。
だから「アメリカを除いたら、『核問題』の元凶は日本なのですよ」という当方の指摘に、一様に、キョトンとする。 こちらから一頻りの解説なり説明をすると、驚いた様に、”まさに眼から鱗で、その様な見方は初めて”などと、異口同音に言う。 私は、彼らの反応を見て、今更ながら、「戦後神話」の虚構の根深さと共に、その「神話」作りに積極的に加担した戦後支配勢力の罪深さに思い至ったものです。
<核>にせよ<ナチス>にせよ、何れもアメリカを覇権国家に押し上げるに際して大きな力になったものですが、奇妙な事に、何れの場合も、これらの「神話」作りに敗戦国側が積極的に協力しております。
例えば後者の場合、凡そまともな理性の持ち主であれば、”アウシュビッツ”所謂「ホロコースト」が成り立たないこと、その本来のものは、米国が、<敵性民族>として、日系人を(合衆国だけではなく!)南北アメリカから強制連行してー丁度ユダヤ人をヨーロッパ中から集めた様に!−<強制収容所>に収容したことと全く同じであり、またその目的とする処は、ソ連が、同じく<敵性民族>として、沿海州に住む朝鮮民族を中央アジアへ強制移住させたことと変わらないものであることは明らかでしょう。
確かにアウシュビッツで大量の死者を出したのは事実でしょうが、しかしながらそれは、冷静に見れば見る程、所謂「ホロコースト否定論者」の見解の方が遥かに説得力が有る。
仮にアメリカ側の戦況が悪化し、強制収容所内の食料及び衛生状態も悪くなったところにチフスの集団発生が重なったら、アメリカに”アウシュビッツ”が出現したでしょう。
つまり、殆ど同時期の、戦争目的に沿った政策といった点では同位、従ってその罪の深さにおいても同等のはずです、本来は。 にも係わらず、斯かる落差。
私は此れを、”勝てば官軍”式に観るのではなく、<勝者>の米ソ共に、普遍主義を称する<理念=イデオロギー国家>であるが故と見ます。 つまり、普遍主義の旗幟を掲げてるが故に、戦争の勝利は、唯の勝ち負けではなく、イデオロギー(普遍主義)の勝利でもあるわけで、従って「裁判」という検証の場でその普遍性が証明されなければならない。 斯かる欲求の下に、幾つものクローズアップとフレームアップを重ね、成立した虚構が”ニュールンベルク””東京裁判”というものです。
問題は、では何故、当事者として、ドイツはそれを受け入れ、そればかりかー殊に70年代以降、更に明白になるのですがーその虚構に積極的に加担して行ったのか?
一つには、米英を中心に、国際的に大きな影響力を有するユダヤ勢ーこの金融と情報の寡頭勢力への恭順を表すということもあるでしょう。
しかしながら、私が観るに、それらにも増して大きな要因は、先の大戦も含め、近・現代史への深刻な(語の本来の意味における)反省であった、と思います。
即ち、戦後の一時期まで支配的だった、ヒトラーとその一味(ナチス)に全ての罪を着せる思考(指向)(丁度、軍部に全ての責を帰す日本と全く同じ!)を改め、先の大戦を自国の近・現代史の必然的な到達点と見做し、そこに民族主義ー分けても自民族中心主義(エスノセントリズム)ーの結末(限界)を見据え、他民族との協調ー今日のEUに繋がるーに活路を見出して行く。
つまり、”アウシュビッツ”を認めること自体自ら<ナショナリズム>に止めを刺す行為ではありますが、しかしながらそれは、<民族=国家>の限界を見据えた上で、これからは、<民族>にではなく、<ヨーロッパ>にレーゾンデートルを見出して行く、ということを宣するものでもあるのです。
そしてこれは、決して展望の無いものではない。
何故なら、<第三帝国>自体、民族=国家であった<第二帝国>=ドイツ帝国の限界を見据えた上での発想だったのだから。 そうして、<ヨーロッパ>にレーゾンデートルを見出して行くということは、彼の地の歴史においてはナポレオン以前、<第一帝国>=神聖ローマ帝国乃至それ以前の立ち位置に戻る、ということを意味します。 即ちこれは、ナポレオン以降の近代の歴史的総括に直結するものであり、言うならばヨーロッパにおける<近代の超克>という問題にも繋がって行く、際立って大きな問い掛け及び仕掛けを内包したものなのです。
ここで私なりに踏み込んで言うなら、恐らくは、それは、密かにヨーロッパの中核を自負するゲルマン諸勢力にとっては、ナポレオン以降の(英仏主導で始まった)西欧近代の全面的総括の上に立って、<歴史の大道に復帰する>※ということになって行くでしょう。
※「欧州債務危機」は斯かる意味での欧州におけるゲルマン的世界とラテン(地中海)的世界の分岐と将来成っていくのかも知れません。
それでは我が日本はどうか?−
ドイツが、”フィッシャー論争”や”歴史家論争”で、近・現代史への深刻な反省をしていた同時代、司馬遼太郎が「坂の上の雲」を著し、「明治までは良かった、軍国主義の昭和前期が特殊例外」とする”司馬史観”が一世を風靡するーしかも今に至るまでその大きな影響力の下にある日本。 あまつさえ、”司馬史観”に影響された(!?)「自由主義史観」なるトンマも現れる始末。
ーこの点から観ると、彼我の差は、先の大戦も含め、近・現代史への深刻な(語の本来の意味における)反省が在ったかどうかに尽きる、とは言えます。
では何故<反省>が無かったのか?−出来なかったのか?
もしもそれが、我々の<宿命>というか、先天的なものであれば仕方が無いと明らめもつくのでしょうが※、曲がりなりにも、かっては’近代の超克’を唱え、「世界史の哲学」を問うてたことを思えば、別の理由と考える他は無い。
私はその根本の原因を明治の「選択」に在り、と観ます。
詰まり、明治の「選択」を絶対とし、その視座で観る限り、先の戦争の敗北は致命的とならざるを得ず、思考の袋小路に入って仕舞う。 周りに仲間を見出せない自民族中心主義(エスノセントリズム)で行く限り、他の民族主義との衝突は避けられず、又民族を超えた普遍主義(米ソ)に対抗出来ないからです。
米ソと日独を比べた場合、<民族>の極大化を志向した日独に対して、<民族を超えたもの>を志向したという点において、米ソは時代の潮流にマッチしていたのであり、思想・イデオロギー的にも決定的に優位に立てたことは確かでしょう。 しかしながら、他方その<民族>の極大化自体が米ソの<普遍主義>に対抗して出て来たことを考えるならば、民族=<自己>を越える契機を持ち得なかったということで、所詮、ナルシスの運命を辿るしかなかったのだと思います。
そうだとすれば、我々がここで確認すべきなのは<民族主義>の限界=終焉であり、民族=<自己>を越える契機を持ち得ない限り、更にはその<普遍主義>を批判する<視座>を獲得しない限り、そのヘゲモニー(グラムシ)の下に膝を屈したままになることは自明でしょう。
こうして見てくると、ドイツと我々日本の違いは周りに仲間を見出せたかー民族=<自己>を越える契機を持ち得たかー否かにあるということ、加えて今回、ドイツが他に先駆けて、「倫理に反する」として<核>を否定したことは、その<普遍主義>への批判的視座の獲得に他ならないことが解かるでしょう。
原発であれ原爆であれ、<核>が「倫理に反する」という時、原爆を使用したアメリカの(『人道に反する』として裁いた)<普遍主義>が俎上に上って来ることは論を待たない。
或いはこれは欧州から米軍が漸次撤退して行ってることと繋がっているのかも知れませんが、殆どこれは、ヤルタ=戦後支配体制の根幹に倫理の刃を突き立てることにより、ヨーロッパにおけるアメリカ支配の克服を闡明にしたものであることが分かるのです。
私としては、今回、これから暫時上げて行く一連の論考で明らかにしたいのは、単にヨーロッパのみならず、<核>がアメリカによる日本支配の根幹に在る※ことー従って、ドイツ同様、<核の神話>及びイデオロギーの解体なくしてアメリカ支配の克服はないことを皆さんに理解してもらうことです。
※<核>による日本支配ということに関して、サンフランシスコ講和条約、詰まりは日本独立の年に、「鉄腕アトム」が登場したのは極めて深刻な意味が在ると私は考えるのですが、これは別途考察することにします。 日本がアニメ大国となってることは、果たして、それ程喜ぶべきことであるのかどうか?も含めて。
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