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人や組織は、大勢の前で発言できるときは自分に都合のよい方向に話を持っていきたがる。これは最近の原発の将来性についての討論会で、電力会社のまわし者が発言したことで分かったことと思う。会社の社員ならああ言わなければならないのは、サラリーマンなら心情は理解できよう。ただあの場でああいう発言はまずかった。いかに陰で政府に背を押されていたにしても。
これら「自分に都合のよい発言」を手前味噌ととるか、我田引水あるいは誘導ととるかは人により判断は分かれる。テレビショッピングなどは誘導といえば誘導に当たるだろう。それでも誇大広告でないかぎり捕まることはない。それでは検察審査会における検察の立場はどう考えればいいだろう?
検察審査会は「検察を審査する会」である。いわゆるお目付け役のようなものだ。その審査会が審査をするとき使用する捜査資料類は全部検察からもらう。案件に対する説明も検察からのみ聴取する。ここで先に述べた「自分に都合の良い発想」が頭をもたげてくる余地はないだろうか? ましてお目付け役はトーシロである。
普通は、検察が不起訴処分にした案件を再度検察審査会が検討するのである。しかも情報は検察側からのみ手渡される。審査資料を「不起訴が妥当」な方向で選別しないだろうか? 検察官の説明も「不起訴が妥当」な方向に話題のレールを引いていないだろうか? 「そんなことは多かれ少なかれ、誰でもやっていることだろう」と考えたあなたは常識人だ。会社のプレゼンテーションとたいした違いはない。
だから、大善裁判長は「誘導と議決」を切り離したのだ。誘導がちょっとでもあったと考えられるとき、議決が片っ端から「無効」になったのでは審査会制度は成り立たない。そのうえ過去の不起訴相当議決にもすべて「?」が付いてしまう。なぜなら誘導と意識せずに「ある方向に誘い込んだ」恐れはすべてにあるからだ。
審査員個人個人の頭の中を見てみないと「誘導に確実に影響された」かどうかは判明しない。しかも審査員には誰も面会はできない。それであればいっそ切り離して考えるしか手はないのだ。なるほどレコーダーに録音されていたことを直後に知ったにもかかわらず、検察審査会から報告書を取り下げなかった検察はある意味「いい度胸」をしている。
しかし仮に「プレゼンテーションの一部」としか考えていなかったのなら、わかるような気もする。最終決定権はクライアント側にあるのだ。何も率先してわが社の製品の欠点をあげつらう必要はない、と考えていたら。ただしこのプレゼンテーションに参加できたのは「検察」の1社のみだった点だ。この場合「競争の過程」とは呼ばれずに、やっぱり「誘導の一種」と呼ばれるだろう。
今回は普通のプレゼンテーションとは逆の方向にスイッチが入っただけだ、といった程度の反省しか検察はしてないんじゃなかろうか? かなり恐ろしいプレゼンテーションだったのに。もし誘導が絶対にだめだというならば、審査会制度を根底から作り直さないと「真に公平」な審査など望むべくもない。
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