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第二次大戦の敗戦国であるドイツ・イタリアは脱原発をしたが日本はどうするのか?
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/577.html
投稿者 taked4700 日時 2012 年 3 月 26 日 00:13:48: 9XFNe/BiX575U
 

第二次大戦の敗戦国であるドイツ・イタリアは脱原発をしたが日本はどうするのか?

 ドイツは福島第一原発事故を受けてメルケル首相が2022年までの段階的な脱原発を決めた。あまり知られていないがドイツでも原発の故障はかなりある。原発での放射能漏れに起因する死亡事故さえ起こっているし、かなりの放射能漏れを起こして廃止になった原発もある。( http://en.wikipedia.org/wiki/Gundremmingen_Nuclear_Power_Plant )反原発の動きが強いのは緑の党という環境政党の存在が大きいと言われている。

 イタリアは、日本ほどの地震国ではないがそれでもかなりの地震国であり、1986年のチェルノブイリ原発事故を受けて原発停止に踏み切っていた。ただ、全電力の17%程度を輸入していて、電力コスト高にねをあげていた産業界から原発再開を望む声が出ていた。そのため、停止していた原発再開をするかどうかの国民投票がもともと311の大地震の前にイタリア政府によって予定されていた。311の大震災と福島第一原発事故の後に実施されたイタリアの国民投票では投票率55%で原発凍結賛成は94%にもなった。

 ほとんど地震がないドイツで脱原発が決まり、日本ほどではないがやはり地震国のイタリアでも1986年のチェルノブイリ原発事故を受けて1987年には国民投票で原発停止が決まり、昨年改めて原発再稼動をしないことが国民投票の圧倒的多数で確認された。なぜ、世界でもっとも過酷な地震が起こる日本で、世界で唯一原爆を落とされた経験のある日本で、福島第一原発事故という過酷事故を経験した日本で、未だに脱原発が本決まりにならないのだろうか。

 ドイツの原発がおんぼろで放射能漏れ事故をしょっちゅう起こすために反原発の動きが高まったのだろうか。そうではなさそうだ。ドイツには現在すでに廃炉になったものを含めると40機の原子炉がある。その内、事故を原因として廃炉になったのはこの記事の冒頭で触れた一例があるだけだ。計画段階で反対運動が起き建設中止になったものも多く、原発賛成派と反対派が活発に動いていたのがドイツの歴史と言っていいだろう。事実、昨年メルケル首相が脱原発を国会に提案し、与野党がそれに合意したとき、それを「(与野党間の)30年戦争の終わり」と評したマスコミ記事があったのだ。この決断がされた時点でドイツ国内にはまだ廃止されていない原子炉が17機あった。そのうちの8機を即時運転停止(廃炉)にし、その他の9機を2022年までに段階的に廃止することになった。

 日本では54機の原子炉があり、そのうち廃炉が決まったのは福島第一原発の1号炉から4号炉までだけだ。その他の原発については今後20年かけて段階的に廃止をしようという話が一部の政治家から出ている。なぜ、こんなにテンポが遅いのだろうか。今後日本全国で大きな地震が続発することはほぼ明らかだとされているのに、そして、事実福島第一原発事故が起こってしまったのに。

 その原因を考えていくと、どうも戦争責任の始末がどの程度できたかどうかがドイツやイタリアと日本の違いを作り出しているように思えてくる。

 ドイツもイタリアも第2次世界大戦の敗戦国であり、日本もそうだ。敗戦国が核兵器を持てないことがあり、核廃棄物の処分が出来ないことを考えたら、何も原発を導入する必要性がなかった国々なのだ。自国内でほとんど処分が出来ない核廃棄物をいざと言うときは海洋投棄できますよと言われて導入したのが真相だろう。ちなみに核廃棄物などの海洋投棄を禁止したのは1972年のロンドン条約であり、これらの国が原発を導入し始めたのは1960年代だ。

 そもそも第2次世界大戦の敗戦国であるドイツ、イタリア、日本がなぜ原爆製造に結びつく原発導入を出来たのか。答えは1953年のアメリカによるAtoms for Peaceという政策だ。表面的には原子力の平和利用をうたったものだが、現実にはソ連の核爆弾保有の優位性に対してヨーロッパの資本主義国家に核武装を広める必要があったからだ。ソ連はアメリカに先駆けて1953年に水爆実験に成功する。その当時、アメリカは大陸間弾道ミサイルをまだ実用化できていなかった。広大な国土を持つソ連をアメリカから直接攻撃できないわけで、そのためソ連に近いヨーロッパの国々へ原爆保有をさせる必要があったのだ。イギリスが核兵器の実験に成功するのが1952年でありフランスは1960年だ。Atoms for Peaceという政策は表向き原子力発電所という平和利用をうたっているが、ウランの採掘や輸入、そして原発を使ったプルトニウム生産を行い、これらの国々に原子爆弾を大量に保有させることが目的だった。原爆技術も実質的にアメリカからこれらの国へ伝わった。イタリアは調べることが出来なかったがドイツもアメリカから原子力発電技術を導入している。日本もアメリカからの誘いで原子力発電をこのころに開始している。1953年に中曽根康弘がキッシンジャーからの誘いを受けてアメリカの原子力発電施設を見学しているのだ。

 つまり、イギリスやフランスという第2次世界大戦の戦勝国でアメリカと同じ資本主義の国々に核武装をさせるためのカモフラージュとしてドイツやイタリアへの原発導入がされたということだ。もちろんこれには第2次世界大戦のきっかけになった原油の争奪のようなことが起こらないように、夢のエネルギーである原子力を使おうという意義付けがされていた。ただし、これはあくまで口実だ。なぜなら、そのころから50年以上がたった現在でも核廃棄物の処分は出来ていないからだ。更に、もし地震などが起こった場合の安全性もほとんど検証されていない。このことはチェルノブイリ原発事故の経緯を見ることで分かる。

 チェルノブイリ原発事故は当初運転員の操作ミスが原因とされ、次にもともと原子炉の設計に無理があったとされた。そして、原子炉直下で小さい地震が起こったことが原因だと言う説が出されていったが政府によって公式に検証されることはなかった。しかし、チェルノブイリ周辺の地震計で小さな地震が観測されていたことは事実であるようだ。
 
 事実として原発直下で地震が起き、それが過酷事故に結びついている可能性があるのに、なぜその検証が行われなかったのか。これには多分二つの理由がある。ひとつは原発が直下型の地震にこんなにも脆弱だということを明かしたくないこと。もうひとつは揺れの原因が地震ではなくて爆破であるからだ。事件関係者は事故当初、責任のなすりあいをしようとしていたはずだ。当初運転員の操作ミスとされたのはすでに事故で亡くなっている運転員の責任にすることが最もたやすかったからだろう。地震については当時ソ連内で建設されていた多くの原発に影響が及ぶから内密にしておこうという話がされ、多くの関係者がそれに同調してしまったのだろうと思う。
 
 ゴルバチョフの登場からソ連崩壊とプーチンによるロシア支配までを振り返ると、ゴルバチョフの登場自体がアメリカの情報機関によってお膳立てされていたように思える。ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任したのが1985年。この時代、アメリカの大統領はドナルド・レーガンで1981年から2期8年にわたりレーガノミックスという富裕層優遇の税制と軍備強化による対ソ連での軍備面での優位化政策をとっていた。ソ連はこのアメリカとの軍備競争と1979年から始まるアフガニスタン紛争への派兵によって経済的にかなり行き詰ってしまっていた。そこへ登場したのがゴルバチョフであり、アメリカとの軍備競争をやめ、不能率な計画経済からある程度個人の自由を認めた社会主義経済への移行とある程度の情報公開をやろうとしていた。つまりそれまでの共産主義一辺倒で共産主義体制を維持するためなら経済的な苦しみも思想統制も一般市民へ平気で強いるタイプのリーダーから単なる自由競争を認めることはしないが一般市民の生活自体を大切にしたいというリーダーへ変わったことがゴルバチョフのソ連共産党書記長就任の意味なのだ。

 そもそも第2次世界大戦の敗戦国であるドイツ、イタリア、日本がなぜ原爆製造に結びつく原発導入を出来たのか。答えは1953年のアメリカによるAtoms for Peaceという政策だ。表面的には原子力の平和利用をうたったものだが、現実にはソ連の核爆弾保有の優位性に対してヨーロッパの資本主義国家に核武装を広める必要があったからだ。ソ連はアメリカに先駆けて1953年に水爆実験に成功する。その当時、アメリカは大陸間弾道ミサイルをまだ実用化できていなかった。広大な国土を持つソ連をアメリカから直接攻撃できないわけで、そのためソ連に近いヨーロッパの国々へ原爆保有をさせる必要があったのだ。イギリスが核兵器の実験に成功するのが1952年でありフランスは1960年だ。Atoms for Peaceという政策は表向き原子力発電所という平和利用をうたっているが、ウランの採掘や輸入、そして原発を使ったプルトニウム生産を行い、これらの国々に原子爆弾を大量に保有させることが目的だった。原爆技術も実質的にアメリカからこれらの国へ伝わった。イタリアは調べることが出来なかったがドイツもアメリカから原子力発電技術を導入している。日本もアメリカからの誘いで原子力発電をこのころに開始している。1953年に中曽根康弘がキッシンジャーからの誘いを受けてアメリカの原子力発電施設を見学しているのだ。

 つまり、イギリスやフランスという第2次世界大戦の戦勝国でアメリカと同じ資本主義の国々に核武装をさせるためのカモフラージュとしてドイツやイタリアへの原発導入がされたということだ。もちろんこれには第2次世界大戦のきっかけになった原油の争奪のようなことが起こらないように、夢のエネルギーである原子力を使おうという意義付けがされていた。ただし、これはあくまで口実だ。なぜなら、そのころから50年以上がたった現在でも核廃棄物の処分は出来ていないからだ。更に、もし地震などが起こった場合の安全性もほとんど検証されていない。このことはチェルノブイリ原発事故の経緯を見ることで分かる。

 チェルノブイリ原発事故は当初運転員の操作ミスが原因とされ、次にもともと原子炉の設計に無理があったとされた。そして、原子炉直下で小さい地震が起こったことが原因だと言う説が出されていったが政府によって公式に検証されることはなかった。しかし、チェルノブイリ周辺の地震計で小さな地震が観測されていたことは事実であるようだ。
 
 事実として原発直下で地震が起き、それが過酷事故に結びついている可能性があるのに、なぜその検証が行われなかったのか。これには多分二つの理由がある。ひとつは原発が直下型の地震にこんなにも脆弱だということを明かしたくないこと。もうひとつは揺れの原因が地震ではなくて爆破であるからだ。事件関係者は事故当初、責任のなすりあいをしようとしていたはずだ。当初運転員の操作ミスとされたのはすでに事故で亡くなっている運転員の責任にすることが最もたやすかったからだろう。地震については当時ソ連内で建設されていた多くの原発に影響が及ぶから内密にしておこうという話がされ、多くの関係者がそれに同調してしまったのだろうと思う。
 
 ゴルバチョフの登場からソ連崩壊とプーチンによるロシア支配までを振り返ると、ゴルバチョフの登場自体がアメリカの情報機関によってお膳立てされていたように思える。ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任したのが1985年。この時代、アメリカの大統領はドナルド・レーガンで1981年から2期8年にわたりレーガノミックスという富裕層優遇の税制と軍備強化による対ソ連での軍備面での優位化政策をとっていた。ソ連はこのアメリカとの軍備競争と1979年から始まるアフガニスタン紛争への派兵によって経済的にかなり行き詰ってしまっていた。そこへ登場したのがゴルバチョフであり、アメリカとの軍備競争をやめ、不能率な計画経済からある程度個人の自由を認めた社会主義経済への移行とある程度の情報公開をやろうとしていた。つまりそれまでの共産主義一辺倒で共産主義体制を維持するためなら経済的な苦しみも思想統制も一般市民へ平気で強いるタイプのリーダーから単なる自由競争を認めることはしないが一般市民の生活自体を大切にしたいというリーダーへ変わったことがゴルバチョフのソ連共産党書記長就任の意味なのだ。

 しかし、アメリカとしては完全なる資本主義・自由主義へソ連が移行してもらわなければ困る。そのために仕込まれたのがチェルノブイリ原発事故だったと考えると非常にうまくいろいろな事象が説明できる。あの時代、ソ連国内では大型の列車事故なども起こり、ただでさえ経済的に疲弊していた。そこへチェルノブイリ原発事故が起こったために一気に経済情勢が悪化し、それまで優遇されてきた共産党幹部連中までが経済的なしわ寄せを受けるようになってしまった。このことが共産党幹部連中によるゴルバチョフ政権末期のクーデターにつながったはずだ。また、チェルノブイリ原発事故の実際の事故収束には軍や警察関係者が大量動員され、しかも犠牲者については隠蔽されたからこちらからもゴルバチョフへの反感を買うことになった。結果的にこれらのことが緩やかな共産主義からの脱却を不可能にしたのだ。原発事故の影響は東欧諸国の市民からのソ連体制への批判も招いた。ゴルバチョフの政権末期、周辺国へゴルバチョフが単身出向いて、急激なソ連邦からからの脱却を待つように説得しようとしたが多くの市民がまったく聞く耳を持たず、ゴルバチョフがもみくちゃにされることがあったが、その背景にはチェルノブイリ原発事故で国土を汚染されたという周辺国の一般市民の被害感情があったのだ。ソ連邦の周辺に位置する東欧諸国はずっとロシアに従属させられ、いろいろな意味で犠牲になっていた。

 1986年にチェルノブイリ事故が起き、当初は事故隠蔽に走った共産党政権はその信頼性を失ってしまった。特に、原発立地国であったウクライナではその傾向が強く、1990年3月に民主的な最高会議(国会)議員選挙が実現、7月に最高会議が非核三原則とともに主権宣言を採択。12月の国民投票によってソ連邦からの独立が支持され、正式に独立を宣言する。

 同様な動きはその他の東欧諸国でも起こっていて1991年にはそれらの国の実質的な独立を認めざるを得なくなっていた。そのためゴルバチョフは新連邦条約というものを9月20日に結ぶことを予定していた。それを見ていた共産党幹部はソ連邦が失われ、自分たちの特権も剥奪されると考え、国家非常事態委員会というものを作って前日の19日にクーデターを起こす。その様子は次のようなものであったという。

 「国家非常事態委員会は8月19日の午前6時半にタス通信を通じて「ゴルバチョフ大統領が健康上の理由で執務不能となりヤナーエフ副大統領が大統領職務を引き継ぐ」という声明を発表する。反改革派が全権を掌握、モスクワ中心部に戦車が出動しモスクワ放送は占拠された。(当時、アナウンサーは背中に銃を突きつけられた状態で放送をしていたという。午前11時になるとエリツィンロシア共和国大統領が記者会見を行い「クーデターは違憲、国家非常事態委員会は非合法」との声明を発表する。エリツィンはゴルバチョフ大統領が国民の前に姿を見せること、臨時人民代議員大会の招集などを要求、自ら戦車の上で旗を振りゼネラル・ストライキを呼掛け戦車兵を説得、市民はロシア共和国最高会議ビル(別名:ホワイトハウス)周辺にバリケードを構築した。また市民は銃を持ち火炎瓶を装備、クーデター派ソ連軍に対し臨戦態勢を整えた。クーデターに陸軍最精鋭部隊と空軍は参加しなかった。」( ウィキペディアの「ソ連8月クーデター」 よりの一部引用)

 上の文章を読んで奇妙だと思われないだろうか。クーデター派にはゴルバチョフ大統領の次の地位にあるヤナーエフ副大統領が加わっていた。そして、クーデターにつきもののマスコミ統制もされタス通信やモスクワ放送も占拠されていた。それにもかかわらず、ソ連邦の中心国家であるロシア共和国大統領であったエリツィンの記者会見が許されていたのだ。更に、エリツィンの反クーデターの呼びかけに市民20万人が呼応したという。マスコミが抑えられている中で20万人もの一般市民がすぐに行動できるだろうか。また、軍の中枢であった陸軍最精鋭部隊も空軍もクーデターに参加していない。

 つまり、軍もマスコミ関係者もかなりの程度クーデターに対して反感を持っていたということなのだ。チェルノブイリ原発事故の処理に借り出されて犠牲になった軍関係者は多かったはずだし、事故の被害についての情報操作にかかわって、事故の被害が隠されていると気がついていたマスコミ関係者は多かったはずだ。彼らが中心となってエリツィンの反クーデターの呼びかけに応えるように市民を動かしたのだろう。もちろん、こういった動きの背景にはアメリカの情報機関のコントロールが終始あったことも確かなことだと思う。 

 共産党幹部にクーデターをやらせ、そのクーデターに反対する役割をボリス・エリツィンにやらせてゴルバチョフを救出させる。この結果、ゴルバチョフの権威も、クーデターを画策した共産党幹部の信頼性もがた落ちになる。こうして、ゴルバチョフはソ連の共産党支配体制自体を廃止せざるを得なくなり、リーダーシップもエリツィンに奪われてしまうのだ。ソ連という大国の共産主義政権を倒すまでの深刻な影響を与えたのがチェルノブイリ原発事故であった。そして、そういった原発事故を引き起こしたのが原発直下での比較的小さな地震(爆発)であった。


 1980年代までソ連は西欧諸国には強い圧力として意識されていた。そのソ連の共産党体制が瓦解する大きなきっかけになったチェルノブイリ原発事故は、直接かなりの汚染物質を西側諸国にも撒き散らすことになった。

 こういったソ連崩壊の過程とチェルノブイリ原発事故関係をドイツやイタリアは深い関心を持って観察していたはずだ。

 中国内陸部でかなり地震が頻発することが2008年の四川大地震を見ても分かるように、ユーラシア大陸内部でも地震は起こる。黒海沿岸地方はかなり地震が起こり、チェルノブイリ一帯も地震が起こる地域だったのだ。このことはドイツ政府もイタリア政府もチェルノブイリ原発事故後すぐに把握していただろう。だからこそ、地震頻発国であるイタリアではチェルノブイリ原発事故の翌年には国内の原発の新規稼動取りやめを国民投票で決め、1990年には運転中の原子炉全部の停止にまで踏み切ったのだ。
 
 それではほとんど地震の起こらないドイツでなぜ脱原発に踏み切ることが出来たのだろうか。

 簡単に言えば、チェルノブイリ原発事故に見るように一国の社会体制を転覆させるような被害をもたらす原発事故に対する恐怖だろう。単に人々の健康に害を与えるという恐怖ではなくて、ドイツで原発事故を起こせば、近隣諸国からその責任を取らされるということを考えた結果のはずだ。ドイツは第二次世界大戦で近隣諸国を蹂躙している。特にユダヤ人虐殺は大きな心理的傷として今でも多くのドイツ人に意識されている。ナチスドイツはチェルノブイリ原発が建設される前のウクライナでもユダヤ人虐殺をしているし、ウクライナ人を対ソ連戦争に駆出したりしている。第二次世界大戦後、ドイツは東西ドイツに分割され、民族分断の悲劇も味わった。だからこそ、西ドイツが中心となってEU(欧州連合)を作り、近隣諸国との絆作りに熱心に取り組んだのだ。

 日本と違って陸続きで他国と国境を接しているドイツは第二次世界大戦の戦争責任をある意味徹底的に問わざるを得なかった。政治家や官僚、司法関係者などの戦争責任は日本と比べるとかなり本格的に追及され総括されたのだ。ドイツでメルケル首相が「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」の提言に従って脱原発に踏み切ったのは、福島第一原発事故を受けて、ここで自らがドイツ国内の原発停止に踏み切らなければ将来自分自身の責任が問われてしまうという危機感があってのことだろう。原発事故の影響は広く周辺国へも及ぶので、知らん振りするわけには行かないというわけだ。そもそも倫理というもの自体が、単に精神的な行動規範であるのではなくて、現実の他者のとのかかわりの中で平和的な共存を目指してつむぎ出されてきたものだろう。

 第二次世界大戦の敗戦を受けて、日本でも東京裁判があった。しかし、この裁判以外、当時の日本の支配層の責任を問うことは結局されなかった。戦後の日本はGHQの支配の下、経済的な繁栄をひとえに目指してしゃかりきに働くことを目指したのだ。

 そして、アメリカも日本の経済的繁栄を後押しした。家電や自動車産業において米国企業からの技術移転をさまざまな形で推し進め、アメリカ市場も開放したのだ。しかし、同時にアメリカは日本へ原発導入もさせた。中曽根康弘がキッシンジャーの誘いを受けて原発施設の見学をするのが1953年だ。GHQが日本を占領する直前の1944年に亜昭和東南海地震が起こっているし、GHQの占領下の1946年には昭和南海地震が起こっている。これらの地震について軍部が被害を隠蔽したと言われているが、少なくとも昭和南海地震は戦争後に起こっているものだ。そして、これらのプレート境界型の大地震としてセットで起こってきた東海地震の震源域の真上に浜岡原発の建設の認可が日本政府によりされたのが1970年であった。当然、計画自体は1960年代にされていて、この時期は日本の高度成長期に当たる。

 奇妙なのは、311の福島第一原発事故を受けて浜岡原発の危険性が指摘されているのに、浜岡原発は東海地震が繰り返しあの地域で起こることが判明する前に作られたという宣伝がされていることだ。実際は、1070年よりも以前に日本の地震学会は東海地震の周期性を認識し、東海地震があの地域で起こる危険性を指摘していた。

 推論でしかないが、アメリカは日本占領時代に起こった昭和南海地震を見て、東海地震が繰り返し起こってきたことに気がついたのではないだろうか。そして、1953年のAtoms for Peaceという原子力平和利用の宣言当時から東海地震の震源域の真上に原発を作らせることを意図していたのではないだろうか。

 西風が常に卓越する日本の首都のすぐ西側である東海地震の震源域に原発を作らせれば、原発事故によりいつでも日本を崩壊に至らせることが出来る。現実に地震が起こる必要はなく、原発事故でいい。または東海地震というような大地震ではなくて小さな直下型地震でもいいわけだ。

 日本政府は日本が持っている米国債の金額について公表をしていない。代わりに米国政府が公表をしているがその金額は中国と同程度であり、日本の長年の対米貿易の黒字額に比べて不自然なほど少ない。もし、日本で浜岡原発事故などが起こり、国土の大部分が放射能汚染されてしまえば、多くの日本市民は移民として海外へ出ざるを得ないだろう。1千万人単位で移民受け入れが出来る国は多くない。アメリカは日本からの移民受け入れを宣言し、同時に日本が持っている米国債の償還放棄を要求するのかもしれない。

 更に、日本が国土を放棄すれば、その地を国際的な核廃棄物処分場として利用することも可能だ。世界で最も多くの核廃棄物を持っているアメリカにとり、太平洋を挟んだ遠くの国日本は核廃棄物の処分地としても適していると考えられているのではないだろうか。

 EUを作り、アメリカに対抗する勢力になろうとしたドイツと、結局アジアと強い絆を結ぶことが出来ないまま現在に至っている日本。戦争責任の取り方も中途半端に終わり、経済的な反映のみを追い求めてしまった日本。このことが、ドイツが脱原発に踏み切ることが出来たのにもかかわらず、日本が脱原発を言い出しながら現実には原発再稼動に動き出しつつある日本の現実を作り出してきたのではないだろうか。

 第二次世界大戦の戦争責任をいまさら追及することは不可能だ。日本の現状がなぜこうなっているかという理解をまずは多くの方がすることによって、現状を変え、原発廃止に踏み切ることが可能になるのではあるまいか。

*6月8日の記事「近づく戦争・テロ社会、これらの動きを止めるべきでは?」から連番号を付しています。<<1048>>
TC:37532, BC:152050, PC:?, Mc:?  

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コメント
 
01. taked4700 2012年3月26日 00:23:56 : 9XFNe/BiX575U : VneANWqMBE
投稿者です。訂正があります。

> 奇妙なのは、311の福島第一原発事故を受けて浜岡原発の危険性が指摘されているのに、浜岡原発は東海地震が繰り返しあの地域で起こることが判明する前に作られたという宣伝がされていることだ。実際は、1070年よりも以前に日本の地震学会は東海地震の周期性を認識し、東海地震があの地域で起こる危険性を指摘していた。

は次のように、1070年ではなくて1970年が正しいのです。お詫びして訂正します。

 奇妙なのは、311の福島第一原発事故を受けて浜岡原発の危険性が指摘されているのに、浜岡原発は東海地震が繰り返しあの地域で起こることが判明する前に作られたという宣伝がされていることだ。実際は、>>>>1970年<<<よりも以前に日本の地震学会は東海地震の周期性を認識し、東海地震があの地域で起こる危険性を指摘していた。


02. 2012年4月15日 16:18:08 : T9W4OPDeMk
敗戦国関係ないでしょ

03. おどろこ 2012年5月03日 05:38:11 : Eg0vnv1DLXzGI : El4BkJYK8c
ドイツが脱原発になったのは、緑の党が連立政権に入ったから。

ドイツでは「黒い森」が酸性雨の影響で枯れ果ててしまった。これは、当時のドイツ国民にかなりショックだったらしい。それで環境問題が盛んになり、緑の党が結成された。

その後ベルリンの壁が崩壊すると、それまでマルクス主義を信望していた左翼運動家たちは、存在意義を失った。しかし、彼らは、反原発運動にも取り組みはじめていた緑の党に参加した。原発は国家のエネルギー政策の象徴であり、反原発=反体制を意味していたからだ。その頃、チェルノブイリ事故があり、ソ連に近いドイツ国民の原発事故への恐怖が増幅された。その結果、緑の党が地方議会で議席数を伸ばし始めて行った。
そして、緑の党は地方で次第に勢力を拡大し、国政において連立政権を樹立させたのだ。その時に連立政権に入る条件として「脱原発決議」を提案し、決議させたのだ。これが、ドイツの脱原発の歴史。


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