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(回答先: アメリカが今やろうとしていること。過去から推測する未来。 投稿者 taked4700 日時 2012 年 1 月 24 日 14:00:04)
http://huzi.blog.ocn.ne.jp/darkness/2011/11/post_1994.html
2011/11/09
暗殺鬼国アメリカ
1986年4月15日早朝にレーガン大統領の指示で、アメリカ空軍・海軍が合同で行なったガダフィ暗殺作戦については大量の資料がありますが、前回に紹介した
塩尻和子著『リビアを知るための60章』(明石書店、2006年)
の第24章「カッザーフィー爆殺未遂事件」にも詳しく出ています。
日本の首相官邸や御所に数十機の爆撃戦闘機が突然襲いかかり、ミサイルが降り注ぐところを想像して下さい。暴虐なテロ国家の行動を拘束する力として、国際法というものが如何に無意味な空文であるかがよく分かります。いや、こんな生ぬるい苦情を述べること自体が、書いている私自身にも、ひどく空々しいものに思えます。国連の決議についても同じです。いまさら驚くこともありますまい。しかし、上掲の本の中の挿入記事「コラム6、トリポリ空爆・日本人ジャーナリストの証言」からは、やはり、鮮烈な衝撃を受けました。2頁の記事の四分の三を引用させてもらいます。:
■ 1986年4月15日の早朝、アメリカの攻撃をトリポリで体験した日本人がいる。
フリーランスのフォトジャーナリストの吉田ルイ子さんは、アメリカ空軍によるトリポリ空爆の前々日に、ファーティフ大学の学園祭で開催されたカッザーフィーの講演会に招待されて、写真撮影をこなし、カッザーフィーとの面談もおこなった。
4月15日の早朝、吉田さんはホテルで就寝中に「ゴーツ」という音で目を覚ました。
以下に吉田さんの「カダフィ大佐との対話」から引用する。
15日未明午前2時きっかりにゴーッという音で目を覚まし、爆撃を知った。爆撃は約15分間続いた。実はその前日から、それまで6人しかいなかった外国人ジャーナリストが150人に増えていた。廊下にも人が寝るくらいホテルが一杯になっていた。そして、爆撃があった翌日には、300人くらいになった。
私が非常に不審に思ったのは、爆撃があった15日の午前2時に、欧米のジャーナリストたちが電話をニューヨーク、ワシントン、ロンドンとのホットラインに変えていたことである。それから電送ファクシミリを送れるように写真の暗室を作っていた。そして、私の部屋の向かいにはAPの写真室があったのであるが、2時5分過ぎには、爆撃のバーンという音が切れると同時くらいに私が廊下に出ると、電話が鳴り、ニューヨークのAPから「カダフィの首っ玉の写真をすぐ送れ」、つまり、殺されて死んでいるカダフィ大佐の写真を送れと言ってきたのである。ということは、想像できるように、もうすでにアメリカの記者たちは、午前2時に爆撃されるであろう、そしてそのターゲットはカダフィ大佐であることを知っていた事を意味するのである。勿論それは㊙なので教えてくれなかったが。その後、数日一緒に彼らといる間に、彼らはどこが爆撃されるであろうということを克明に全部わかっていたことを知った。私は欧米のマスコミがあらかじめすべてわかって、新聞記者やカメラマンを操作しているという情報操作の現実を見たのである。(「カダフィ大佐との対話」前出『交感するリビア』 藤原書店、229〜230頁)■
レーガン大統領が臆面もなくカダフィの殺害作戦を実行した1986年といえば今から25年も前のこと、四半世紀も前に、米欧の支配権力が有力な新聞やテレビを既に完全にコントロールしていたとは、私にとって全くの驚きです。裏返せば、そのまま、おのれの不明の苦い認識でもあります。この苦い認識をしっかり胸にして今回のカダフィの惨殺とカダフィのリビアの抹殺の顛末を辿らなければなりません。
今年の3月26日、リビアの首都トリポリの最高級ホテル「リクソス」のダイニング・ホールに一人の若いリビア人女性が飛び込んで来て、リビア政府の治安部隊兵士たちが二日間にわたって彼女を集団レイプしたとホテルの客たちに訴えました。このホテルには、集団的に多数の外国人記者が宿泊していました。彼女の名はEman el–Obeida、この名前でWikipedia を見れば、事件とその詳しい後日譚が出ています。この女性は、今はヒラリー・クリントンの庇護の下にアメリカで生活していると思われます。
カダフィが兵士たちにバイアグラを与えて反政府の女性たちの集団レイプを行なわせたというニュースを米国国連大使スーザン・ライスが国連で公式に取り上げたのは4月28日でしたが、その2日後、レーガン大統領を尊敬すると公言してやまない現大統領オバマは、レーガンのひそみにならって、カダフィの暗殺を企てましたが、この日は、失敗しました。4月30日(土)、NATO空軍機はリビアの首都トリポリの住宅地区の中にあるカダフィ一族の屋敷一帯に強烈なミサイル攻撃を加えました。ドイツで勉学中のカダフィの一番若い息子(29歳)が帰国していて、カダフィとその妻や近親の家族が集まって夕食を共にしたと思われますが、食後にミサイルが撃ち込まれ、その息子と6歳以下の子供3人が殺されました。2発のミサイルが家族団らんの部屋を爆破した時、お爺さんカダフィとその妻は屋敷内にある家畜小屋に行っていて助かったようです。翌5月1日(日)夜には、パキスタンのアボタバードでオサマ・ビン・ラディンが殺されました。オバマはカダフィとビンラディンの同時抹殺という派手なdouble bill (二本立て興行)を狙ったのだという噂が流れたのも無理はありません。
1986年のトリポリ空爆についての吉田ルイ子さんの証言を知った今、2011年に演出されたカダフィ暗殺劇についての我々の想いは怒りとシニシズムに満ちたものにならざるを得ません。いわゆるマスコミが完全にコントロールされている状況下で、どうすれば一般の人間が歪曲されていない事実を掴めるか、どうすればマスコミからの操作をはねのけて独立の思考判断を維持するかという困難な課題に我々は日々直面しているわけですが、これまで既に明確に目の前に曝されている事実から読み取れるのは、アメリカを含む「ヨーロッパの心」と私が常に呼ぶ精神の残忍さと傲慢です。信じ難いような傲慢と残忍性です。
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