http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/488.html
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TPPが単なる経済案件ではないように、神助事件はたかだかの芸能事件ではない。
何故この時に?というのは他の方が指摘する所もあるのでしょうが、大まかな方向としては今秋から、全国的に、鳴り物入りで施行される「暴力団排除条例」なる国民総動員的運動に向けた”犠牲の羊”というものでしょう。
私は、この問題も又、「日米戦争とは何だったのか?」ということと通底していると思いますので、引き続き此の角度から、今回の事件を論じようと思います。
官僚が、下記のスレッドで書いてる様に、以下に示した問題について、小泉政権以降露骨に、益々前のめりにつんのめって、シャカリキになっているのは何故なのか?
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/104.html
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/115.html
防衛省ー自衛隊と米軍の「軍事的一体化」
財務省ー米政府系金融機関救済※に現われた「金融政策の一体化」
法務省ー「裁判員制度」
警察庁ー「禁酒・禁煙の厳格化」
文部省ー「小学校への英語の導入」
※福田氏がその職を擲って財務官僚の暴走を食い止めた、というのが首相辞任の背景です
防衛省と財務省は言うまでもがな、「裁判員制度」が法制度面におけるアメリカへの同化であり、「禁酒・禁煙の厳格化」が、その日常の生活規範の中核にある、ピューリタン的なものへの同化である。 小学校への英語の導入、大学・大学院等の高等教育を英語でやる(反対に高校では国語を選択制に)、従って英語の公用語化というのは、裏返せば日本語の事実上の現地語化(タガログ語化)であり、フィリピン同様、自らの言語を一ランク下に置くことで、これが意識における<植民地化>の完成であることは論を待たないーポスト・コロニアルにおいてもその力学は貫徹していることをそれは意味します。
そうして、「禁酒・禁煙の厳格化」と共に”コンプライアンス”(法令順守)が大々的に叫ばれるようになり、それが今度の「暴力団排除条例」にリンケージして来る。 この”コンプライアンス”というのが単なる法令順守ではなく、大筋では、相手方・ステークホルダー(利害関係者)の立場に立って行動して行くことを意味しており、グローバリズムが浸透する社会においては、この「ステークホルダー(利害関係者)」の最終的かつ最大の存在がアメリカになって行くのは明らかでありましょう。
「何故暴力団なのか?」というのもここから来ています。
占領して直ぐに施行した「団体等規制令」(1945年)で、「軍国主義団体」、「民族国家主義団体」と並んで多くの組が解散させられた様に、また「ロッキード事件」で田中角栄氏を放逐し、占領体制の再強化時期(1980年)に「日米暴力団対策会議」があった様に、更に90年代に入り、「構造協議」と並んで「暴対法」(1992年)が強要された様に、この「暴力団」ーというより、正確には<任侠団体>と言うべきでしょうーという存在は、<(経済)合理性>をその中心に置くアメリカから見たら相容れないーのみならず、日本社会を彼らの使い勝手のいいものにするに当たって最大の障害となっている、と見做されてるからに他ならない。
即ち、かって西欧人が武士に感じ取ったものと共通の遺伝子を<任侠>という存在に見出してるわけです。
事実、アメリカ資本が本格的に参入して来た90年代以降も、M&Aなどが必ずしもアメリカの思惑通りになっていない要因の一つに「暴力団」という存在があったこと、しかもそれは、単に「暴力団」のみならず、社会的諸制度や法令よりも所属する組織や集団の<掟>を上位に置く日本人の発想や行動様式と源泉を同じくするものであることから、「暴力団」と共に、掛かる民族や風土のメンタリティの一掃を図ることがアメリカとその意を受けた官僚どもの必須の要諦となる。
ここに今回の「暴力団排除条例」が登場して来る背景が在り、正面の標的は「暴力団」であっても、真の狙いは我々に向けたものであり、従って、刃を突きつけられてるのは我々である、という認識が必要なのです。
ところで、ここまで論じてきて、気付かれた方も居ると思います。
官僚は、アメリカにとって有利、翻って日本にとって不利なことを、何故やるのだろう? 彼らに、果たして、「国家意識」というものが有るのか?
これについての答は二つあります。
一つは、官僚にとっての「国家」と我々のそれは全く違う、ということ。
官僚にとって、自らの存在とその権限の行使を実現する体制(国家体制)こそが本体であり、その際メタレベルでそれを正当化する存在=超越的存在は不可欠、敗戦前後の天皇を巡る右往左往も、偏に、この事に係っております。 言葉を替えて言えば、自らを正当化する存在こそが重要なのであり、天皇であろうがアメリカであろうが、本質的な違いは無い。 −彼らが忠誠を誓うのは<国体>であり、そうして戦後日本の<国体>(国家体制)とは<日米安保体制>である、ということ。
そしてもう一つ、そういったことも含めて、彼等官僚の意識を支え、行動を後押しする、言うならば正当化装置としての国家イデオロギーというべきものが在る。 右でも左でもない、明治以来今日まで、<権力>は一繋がりに繋がっており、自らの行為も又、<権力>の中のDNAが引き継がれているという<正統性>(レジティマシー)の意識、秩序感覚。
そうした<権力>の大義名分ともいうべきものが明治は「文明化」、戦後は「近代化」、そしてそれを定式化したスローガンが「脱亜入欧」ということでしょう。
”遅れたアジアと進んだヨーロッパ”、<任侠>というものも、そうした官僚にとっては、アジアの後れた(劣った)蛮習に過ぎなく見えるはず。 アメリカにせっつかれて、当のアメリカ以上に躍起になるのは、かかる意識の賜物なのでしょう。
つまり、結論として、こういうことになります。
戦後の官僚の殆ど属国とか植民地の買弁官僚を想わせる態度が、直接的には米国主導で権力の再編が行われたことに在り(官僚にとって必須の「お上のご威光=ご意向」のオカミが天皇から米国へ)、それを覆すことが出来ないのは、詰まる所、それが明治以来の権力のリストラ(再建)でもあったから、です。
そうして、こうした現実を直視出来ず、意識の上でそれを見えなくしているのが福沢諭吉以来の「文明論」=「近代化イデオロギー」なのです。
そうして又、こういったことを別の角度から見れば、対米敗戦は、「幕藩体制」ではない、強力な中央集権体制によって<攘夷>を実現するーという明治維新の<大義>の破綻であったことが解かるのです。
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