http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/374.html
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(回答先: Re: 21世紀の日本の闘争方式は、アジアの哲人ガンジーから学んで応用していく 投稿者 仁王像 日時 2011 年 1 月 26 日 19:59:13)
今回のエジプトの政変劇から思うのは、何はともあれいざというドタン場ではインターネットは当てにならないこと。ゆえに日本での統一戦線が形成されたらその司令部は普段から緊急時の連絡網を整備しておく必要がある。
一つ考えられるのはアマチュア無線の活用である。日本にはアマチュア無線愛好家がゴマンといる。その中から有志をつのり無線によるインターネット状の連絡網を作る(法令に違反しないよう配慮/権力介入の口実を与えない)。
注意しなければならないのは、アマチュア無線はオープンなシステムなので、横から情報撹乱することも可能。ゆえに撹乱をガードする工夫も必要である。
(付記)
もう一つ。民主主義の破壊者はいつでも支配権力の側であるということを再確認したこと。秘密警察などの暴力装置を十分に生かした原始的なものから、メディア・言論人をも動員した”洗練”された形までさまざまある。
現在世界中のほとんどの国が「民主政体」とう政治システムを採用し、主権在民であるかのような外観を呈している。だが、「民主政体」を採用すれば、自動的に「民主主義」が保証されるものでないことは、世界各国の現状と歴史を振り返れば、火を見るよりも明らかである。
民主主義というのは被支配者側の支配者(政治権力)側への普段の闘いがあってのみ、かろうじて確保され得るものである。(このような被支配者側の普段の活動とは逆に、もし被支配者側の一部の勢力が組織的に民主主義の破壊を行うことがあるとすれば、それは「反革命(的行為)」ということになる)
・http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/285.html#c2 から採録
正常だった頃の副島隆彦は次のように指摘する。
<国民主権という不可解な虚妄>
日本人はdemocracyを「民主主義」などと訳して、わかったつもりになっている。なぜdemos-kratiaが「民主」の「主義」などであろうか。Demosとは民衆、貧乏人大衆のことである。Kratiaとは、制度、体制、支配のことである。ゆえにデモクラシーとは「代議制民主政体」(民主政)と訳さなくてはいけない。即ち、国民の大多数である貧乏人大衆が、自分たちの代表を選び、その者に権力を握らせる政治体制のことである。民主政もまた冷酷な支配体制(政治体制)の一種なのであって、「無条件に素晴らしい」ことなどまったくないのだ。
主権なるものは、もともとは国王にある。国王が領土も民衆もすべて自分のものにしていたのである。ところが、民主政では、代表者が主権(権力)を握るのだ。日本の学者は、「国民主権」などという話を頭から信じ込んでいる。とんでもないバカたちである。保守派の人々までが、「国民主権」などという、外国では通用しない言葉を信じている。権力とは、民衆の代表者が持ち、行使するのである。そして、もしこの代表者が間違った政治を行い、国家と民族を危機に陥れた場合には、民衆がこれを引きずり下ろして殺す。これがデモクラシーなる政治体制なのである。だから、デモクラシーも、民衆に対する支配体制の一つなのだ。そして、このデモクラシーの対立概念は何かというと、それはシオクラシーtheocracy(神権政治)なのである。
『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ』副島隆彦/講談社α文庫‘04年
・http://www.asyura2.com/07/dispute26/msg/458.html から採録
小室直樹氏は『日本の敗因』のなかで、日本は大東亜戦争に勝つべきであったし、また勝つチャンスもあった、と言明している。それに対し、一部の人の「あの戦争は、やはり敗けたほうがよかったのではないか。もし勝っていたら、軍人が威張ってどうしようもあるまい。自由もデモクラシーも、日本が敗戦したからこそ得られたものではなかったのか」との指摘に対して、「自由もデモクラシーも自らの力で獲得すべきものである。断じて、他人から与えられるものではない。イギリスやアメリカ、フランスの歴史を一瞥しただけで明白である」と一言のもとに切り捨てている。
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