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何より「メディアが権力と一体化しつつある」事をよく示しているのが昨今の「ニュース報道」なるものです。
検察や警察のOBのコメンテイターが頻繁に登場し、単に社会的な事件のみならず、政治的な事柄にまで堂々とコメントするようになってる!
「OBだから」というのは遁辞に過ぎない、郷原信郎氏の様な少数の例外は除き、その大半がかっての「職場」の、或いはその目線の解説者や代弁者となってるのは明らかなのですから。 またドラマやドキュメントにおいても、数多くが「警察モノ」「警察目線」で作られております。
これらのことは、言うならばソフトに、視聴者に対して、「検察目線・警察目線」で物事を見、理解するよう、強いるもので、私には、これらの事はーテレビ治安法とでも言えばいいのかー「治安維持法」がメディアの中に甦って来たものに思えます。 −もし国民の多くが「検察目線・警察目線」で物事を見、理解するようになったら「治安維持法」なんて要りませんからね!
また、「オウム事件」の様な大きな事件になるにつれこの傾向は際立ちますが、先ずメディアが当局の意図を体現した「ジャーナリスト」や専門家ー弁護士名目の検察OBや警察OBまでーを動員して、<罪>を告知し、<罰>も宣告する。
現実の裁判は、往々にして、その形式的な追認の場にしか過ぎなくなっているのです。
麻原昭晃は裁判が始まるとっくの昔にメディアで「有罪」を宣告されていたからこそ、事実を争うべき裁判は見向きもされず、弁護団長の渡辺脩氏が慨嘆するデタラメが罷り通り、それに抵抗しようものなら、徒にゴネて、裁判の進行を妨げてるとされるーまさしくアベコベの事態が罷り通っているのです。
今回の「村木事件」だって、ひょっとしたら村木氏が女性だったから、若しくは悪相面していなかったからーつまりメディア的に「嵌り役」じゃなかったからーかも知れない、とさえ思いたくなる程に。
つまり、村木裁判が特殊例外と思える程に、政治に関る重要な事件について、多くの裁判が、予定調和的に、メディアを追認する場になっているのです。 ーとすれば、裁判ですらメディア主導の実態が浮かんで来ます。
そうして、かかるメディアの姿勢が、政治へのスタンスにおいても、次の様な所に明確に現れ出ています。
「世論調査」の多用。 小沢一郎氏への執拗なバッシング。
マスコミ各社が1週間に1度「世論調査」を行っているーということは、全体として見れば、日を置かずして、しょっちゅうやっているということです。 しかもその内容は議会制とか政党政治の根幹に関わって来ること。 例えば「政策課題」毎に「民意」を問い、それを「天の声」として、従うように要求するとなれば、これは議会制ー議会での討議ー自体を無視乃至軽視することでしょう(何の為の議会なのか?)し、今度の民主党代表選挙でも、「民意」を盾に政党の人事にまで介入してくる。 これが罷り通るということは政党が限りなく形式的なものになっていく、ということです。 何故ならこれは、政党人や政党支持者よりも「民意」を上に置くということだから(何の為の代表選挙なのか?)。 −もしこれで「民意」に反する結果が出たとしたら、今度は「民意」に背くー「天の声」に反する=民主主義とは相容れないー否定的存在として、民主党を否定する根拠(!)となったことでしょう。
立法(議員の登竜門、選別機関、議会での議論の不活発の代替効果)・司法(メディア上の擬似裁判が成立している)・行政(宣撫、事実上の治安法的な効果)、「三権分立」がメディアにおいて統合されつつあるという現実が浮かんで来るのです。
「世論調査」なるものの恣意性・作為性という問題一つ取ってみても、また「民意」=「天の声」の解釈の恣意性という問題を抜きにして自らの論拠とすることの危うさにしても、マスコミのかかる姿勢は、かっての軍部とか青年将校が「天皇の意思」を僭称し、政治家を「国体を歪め、危うくする者」として攻撃した口吻とソックリ※@ですし、こうして見てくれば、かっての軍部に替わって、
メディアの専横が際立っていると言えるのではないでしょうか。 そして、そういう彼等が、かって軍部が政党政治家を蛇蝎の様に嫌ったように、最も政党政治家らしい政党政治家である小沢一郎氏の攻撃に血道を上げるのも分かろうというもの。
殊にこの4月から5月に掛けて、メディアの異常異様な小沢氏や鳩山氏への攻撃は、戦前の政党政治の末期、5.15事件を始め、軍人や右翼による相次いだ政治家へのテロにも比せられるー言論に名を借りた、政治テロといってもいい態のものでした。
つまり、かっての軍部さながらに、政治を壟断しているのはメディアなのであり、今日のボナパルティズムはメディアに顕れてる、と見做さなければならない。
とすると、今日版の「大政翼賛会」※Aとは、強大な執行権力(官僚機構)を<幹>にして、メディアを<環>とした集合体と言えるのではないか?
そうして、かかる集合体の、佐藤優氏の言葉を借りれば「集合的無意識」こそが、この間、挙って、鳩山政権や小沢氏の抹殺に向かわしたものなのではないか?
かのロッキード事件の際、田中角栄氏の逮捕を受けて、日経連の桜田武氏は、「田中逮捕は善し」とした上で、歴史的とも言える有名な発言をしました。
「日本はこれから危機を迎える、しかし検察・警察・裁判所および所要の官僚機構がしっかりしているならば、もう一つは、職場を基礎とする労使関係が安定しているならば、この危機を乗り越えることができる」。
勿論、桜田氏の脳裏に在ったのが、政党が機能不全に陥って登場した「大政翼賛会」であったことは疑いない。 しかしながら、それから30年を経て、もう一つ付け加えるべきは「メディアを<環>として」ということではないか?
そうだとしたら、一方で小沢氏がマスコミは苦手としているのも、彼個人の性格や気質に加えて、デモクラット=政党政治家として、政党(機能)を解体した後この集合体に統合する機能を担っているー今日版の「大政翼賛会」の<環>としてのーメディアの果す役割への本能的な警戒感がもたらしたものではないでしょうか?
さて、ところで、これまで見て来たような、メディア的経験が実際の経験よりも上位に来る事態は政治にどのような現象を引き起こすことになるのでしょうか?
恐らくは民主主義もメディア上で処理され、メディアに統合され、メディア的に理解されることになっていくでしょうが、果たして、それがどのような社会を創り出して行くのか? <身体>という観点から見て行くと、それは極めて憂慮すべきと言わねばなら
ないのですが、それはまた別の機会に論じることにします。
メディアクラシーの孕む問題として。 デモクラシーからメディアクラシーへー大衆社会がどのように最終コースを回って行くのか?という問題として。
※@「天皇の意思」を「民意」=「天の声」、「国体」を「民主主義」に置き換えてみて下さい。
※A大政翼賛会をコーポラティズムとして捉えるなら、今日型をネオ・コーポラティズムと言うべきでしょう。
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