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それにしても、何故このようになったのかと考えると、やはり<権力>というものの成立ちにその理由が求められる様に思えます。
<権力>とは本源的に暴力であり、その源泉が柄谷行人の言う<征服>に在るとするなら、戦後日本の<権力>の源泉は、上にも述べた様に、米軍の暴力に行き着きます。 従って、その点から観た戦後の日本は、米軍による制圧=米国の征服を受け入れ、更にそれを(マスメディアや何より教育によって)内面化するプロセスだった、と言うことが出来る。 そうして、そういったプロセスが一応の完成をみるのが1970年代の半ばーそれを表した文学作品が、米軍基地の周辺で、クスリとセックスに耽る青春を描いた「限りなく透明に近いブルー」(1976)でした。
このブルーが青色ではなく、「ブルーな気分」という時のブルー、即ち憂鬱を意味し(小田光雄)、従って「憂鬱なるもの」が限りなく透明になっていく、ということを言っている。 そして戦後日本を憂鬱にしていたものとはその支配体制=「日米安保体制」、その具現化が在日米軍。 即ち、「安保体制」と在日米軍という存在が限りなく透明な存在ー存在しているにも係らず、恰も存在していない様に遇し、又遇されるーと化す、時代転換の本質を文学的表現で捉えたもの、ということが出来るのです。 事実、この時期以降、「反安保」の運動が急速に消失して行っております。 多分この阿修羅においても、「安保」や「在日米軍」を実感出来ない人達が多いと思われますが、それこそが透明な存在になってる、言い換えれば、その<支配>が内面化されてることの証明以外ではないのです。
また、こうして考えれば、この同じ年、先の戦争を戦った中心的世代であり、自分達の世代のツケを払うとばかり、対中ソ接近外交を行い、資源自立外交をやろうとしたー即ち米支配を脱しようとしたー田中角栄氏が政治の表舞台からパージされたこと(ロッキード事件)も、決して偶然ではないことが分かって来るでしょう。
更にこのように観てくれば、「反安保」を主要な旗印とした左翼を中心とする戦後の反体制運動は、そのイデオロギーの部分を除いて見れば、米軍支配を背景にした体制への抵抗や抗議ということで、現在のイラクやアフガンにおいて、米軍とその傀儡政権に対して起きているレジスタンスと殆ど同じものであったことが見えて来ないでしょうか?
そうして、この傀儡政権に対するレジスタンスといった位相で見れば、折からのベトナム戦争激化に触発されたようにその運動が過激化していったこと、特にその果てに起きた「連合赤軍事件」は、彼らの掲げたスローガンが「反米愛国」であったことも含め、笠井潔が指摘している通り、その親達が日和って回避した「本土決戦」のやり直しであったことが見えて来るのです。
「本土決戦」が仲間殺しのあげくに自滅という最悪の結末を辿り、しかもそれが親達の世代のやった事の反芻であったとすれば、父子対立をその心理的根底に置く運動はポテンシャルを失い、また戦後支配体制(ヤルタ体制)への反発から始まった(世界の)反体制運動の震源地であった中国との和解により、その運動の根拠が、イデオロギーと共に、アクチュアリティを失って行く。
こうして、70年代前半に起きた世界史的転回が上記の70年代半ばの転換へと導いたと言うことが出来るのですが、ここで大きな疑問が湧いて来るはずです。 左翼イデオロギー及びその運動の有効性という問題と(米軍支配への)レジスタンスの正当性は、当然のことながら、同じではない。 何故、現在のイラクやアフガンと同じ様に、民族や宗教に依るレジスタンスが起きなかったのか? 左翼の失効こそこれらの出番ではなかったのか? その数年後に起きたイラン革命(1979年)は明らかにその事を証明しており、またオウムの問題はその要素が皆無ではなかった事を示してはいるのですが、しかしながら日本においては大きな動きにはならなかったーそれは何故か?
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