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オウムの活動が活発になっていった90年代前半は宮沢内閣で、中心的課題とされたのは”バブル崩壊”への対応と「政治改革」、即ち政治・経済における戦後体制の行き詰まりの打開でした。 その動きの中から小沢氏を中心とする勢力が主導権を握り、やがて細川政権に繋がって行くのですが、その際彼が打ち出した理念が「普通の国」。
これは、先ずは、明治の「有司専制」以来の官僚=オカミ主導の体制からの転換という、原敬や田中角栄を引き継いだ、政党政治家の宿願である以外に、折から世界の支配的潮流に成りつつあった<新自由主義>という錦の御旗を逸早く掲げることによって、政治の主導権を握ると同時に、対外的には極限まで高まりつつあった欧米の「日本異質=封じ込め論」を封じ込めることにありましたが、それらに止まるものではありませんでした。 それが明確な形で打ち出されたのが外交・安全保障における、対米関係を「大人の関係」とし、他方での「多角的安保」(防衛問題懇談会)と「国連待機軍構想」で、これは巧妙に仕組まれた「日米安保体制」の無力化と在日米軍の無意味化を志向するものでした。
多くの人が小沢氏を「新自由主義者」の片割れと思っていたようですが、私は寧ろ、「一身の独立」と「一国の独立」を重ね合わした、福沢諭吉の思想を観るものです。
つまりはそれは、こうした行き詰まりの原因が過度の対米依存に在ると見、そこからの脱却を底意とするものであったと言えます。 恐らくは、その辺が吉本隆明と江藤淳という左右の思想家・言論人が高く評価する処なのでしょう。 左と右、一見対極に在りながら、<自立>と<成熟>、共に(西欧)近代において「一人前に行動すること」を旗印としていたのですから。
ともあれ、オウムの変貌は、かかる日米関係を中心にした戦後体制の見直しの時期とピタリと一致するものでした。
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