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公私の別と家庭教育 http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/176.html
国母とかいう奴の服装問題で大の大人が喧々諤々の大論争・・・。なんだこれ? 「公」共の電波を使って「私」服論争かよって突っ込みたくなる。 公私、ん?そういえば、宮城県の村井とかいう知事が「中澤連隊長の発言は一般論としては当然だと思う。」などと宣たらしい。 http://www.asyura2.com/09/warb2/msg/875.html 中澤の発言についてはこちら。 http://www.asyura2.com/09/warb2/msg/844.html そういえば、田母神の馬鹿な論文もあったな。 http://www.asyura2.com/08/senkyo55/msg/865.html 自衛官が公的な場で、政府批判をすることは許されるのか?文民統制はどこへ行ったんだ? こういった発言や行動を見聞きする度に日本人の公私の別はどうなってんだろうと考えさせられてしまう。 公的な筈の職場の職位をそのまま私的な家庭生活にまで持ち込む例は枚挙に暇がない。公用車で私用を済ますとか、上司の奥方が部下の奥方を顎で使うとか・・・。 こうしたけじめの無さはムラ社会に根ざした身内同士の甘えの構造に起因しているのではないだろうか。 本来、儒教とは 「自律者の徳目(仁義礼智信)と従属者の徳目(忠孝悌)」 であったはずだが、いつの間にか忠孝悌が前面に押し出され、また、お互いの助け合いの精神を意味した「和」が「出る杭は打たれる」というような、制約を意味するようなつかわれ方をするようになっている。 仲間内であるという甘えと上位者であるという驕りが公私の境界を低くしてきたのではないだろうか。 このようなムラ社会の中のお山の大将「井の中の蛙」は所詮大海を知らない訳だから公的な場でどの様な発言をすべきかを理解しておらず、前述のような場を弁えない発言が繰り返されることになる。 それでも、これまではまだ儒教というバックボーンがあり、忠孝悌を教え込むことで社会に対する心構えは多少歪んではいるが子どものうちから出来ていた。 それが、高度成長と共に、生活にゆとりが出てくると家族関係も徐々に変化してきた。それが核家族化であり友達家族の出現だった。それに反発するように石原慎太郎の「スパルタ教育」なる本も出版されたが・・・。 家族が仲がいいことは決して悪いわけではない。しかし、家庭は子どもを社会に巣立たせるためのインキュベーダーでもあることを忘れてはいけないのだ。 貧しいながらも助け合ったムラ社会が変容し、権力者が法律を超越したことを平然と行っても異を唱える人はあまりいない。というより、ムラ社会からの排斥を恐れて唱えられないのだ。 しかし、そのムラ社会も壊れようとしてるのかもしれない。
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