★阿修羅♪ > 議論30 > 148.html ★阿修羅♪ |
|
Tweet |
マスコミは事件と世論を創作する。発生している状況に対する認識の相違というレベルから逸脱して、創造逞しく事件や国際関係を自ら作り出している。そして、マスコミ自らを「世論」と言ってはばからない。
自公政権はマスコミの傀儡であったのだろうか? その政権が自滅したので、マスコミが前面に出てきたのではないか? 自公政権を操っていたのがマスコミなのか、官僚組織なのか、多分両者の分業であったのだろう。官僚組織には司法と検察も含まれる。執拗で仁義無き直接攻撃が続いているように見える。
なぜそうなったのか? 少なくとも小泉政権発足以来、日本全体で組織の人事が変化したからである。大企業にあっては市場原理主義が、司法を含む官僚組織にあっては新自由主義が踏絵にされ、それらに「入信」できる人物が優先的に昇進し、権限と権力を分担してきた。官庁においては、課長、局長、審議官、事務次官のうち局長以上が新自由主義者で占められているのではないか。マスコミ(NHKも)も大企業も同じである。
よこしまな人事を積み重ねるとどういう世の中になるかの? 警世の句を思い出した。
(引用始)
【聖徳太子17条憲法】金治勇『聖徳太子のこころ 』、大蔵出版、1986年
第7条
七曰。人各有任掌。宜不濫。其賢哲任官。頌音則起。姧者有官。禍乱則繁。世少生知。尅念作聖。事無大少。得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此国家永久。社稷勿危。故古聖王。為官以求人。為人不求官。
七にいう。人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。
(引用終)
彼らは、他人の痛みを感じない。踏みつけられるのは自己責任であると思っている。優しい心の持ち主をかえって卑下し、弱者となった人たちを平気で踏み付けにもする。そのような感性の持ち主であるが故に、昇進人事で勝ち残ったのだと言えば少し言いすぎか?
今回の政権交代によって、行政官僚・司法官僚・企業管理職そしてマスコミ管理職が抵抗勢力となって団結し、国の形の変化を阻止しようと蠢いている。
こんな日本にするために、少なくとも8年間の昇進人事の積み重ねがあったのであるから、「無血民主主義革命」を成就するためにも同じ期間が必要であろう。
連立政権の支持者も批判者も、8年というスパンで対論を提示して行く必要がある。
タイトルの「和同=和して同ぜず」は聖徳太子17条憲法から採った。「和」は第1条、「同」は第10条である。第10条は「激論」を奨励しているのであるが、日本人は、古代も現代も正確に理解しようとしない。そして、二つの誤解に陥る傾向が強い。
一つ目は、憤らず怒らないために、無条件に迎合し、議論する者を好まず排除する。
二つ目は、怨念を抱いたまま服従し、時にはけ口を弱者いじめに求める。
昨今の新自由主義的傾向はこれら二つの誤解を権力者が存分に利用した結果であると思う。
民主主義の曙である今日、おおいに激論をおこない、和して同ぜずの精神をもって実行しようではないか。
(引用始)金治勇『聖徳太子のこころ 』、大蔵出版、1986年
第1条
一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。
一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。
第10条
十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理詎能可定。相共賢愚。如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。従衆同擧。
十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。
(引用終)