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それでは本来の問題に戻りましょう。
>戦後日本の政治的“自立”をさらに“成熟”へと導こうとしているのが小沢一郎である
恐らくは、彼岸楼さんは、まとおせさんへのレスhttp://www.asyura2.com/09/idletalk37/msg/275.htmlで、対米自立への千載一遇のチャンスと小沢氏は見てるのでは?という小生の見立てを我図引用(!)して、上記のように仰ってるのだと思います。
確かに「対米自立」を志向しているでしょうし、今がその千載一遇のチャンスと見ているのは間違いないでしょうが、しかしながら、他の誰よりも、それが極めて困難であることを知っているのも小沢氏でしょう。 何故なら、「ロッキード裁判」全てを傍聴した彼は、この謀略が、アメリカ側以上に国内要因、即ち霞ヶ関(官僚)を中核とする勢力によって仕向けられたものであることが解ったでしょうから。
彼岸楼さんに限らず、殆どの人がこの問題について無知というより無関心であるのは、鈴木宗男氏の場合と同様、「国策捜査」を専ら時の政権とか米国の圧力等、外側の問題にのみ一面化して、官僚という存在それ自体を見ていないからです。 明治の「有司専制」を見ても(薩長)官僚が先ずは在ったのであり、戦後も又吉田茂という(薩長)官僚から始まったことを考えれば、この問題は政治を考える中心になるのであって、今盛んに「明治以来のこの国のシステムを変える」と言われてることの持つ(極めて重大な!)意味も判るはずなのです。
その辺を明らかにする為に、役割乃至機能という処から政治家と官僚を<代表>と<統治>という概念で括って、<正統性>というあまり馴染みの無い政治概念を引っ張り出してみました。
ーこのようにして見れば、明治維新後の薩長中心=官僚専制に対する反主流(土佐)の反発に始まり、やがて野に下った旧幕勢力が合流してヘゲモニーを握っていく(自由民権運動から普選運動への流れ)ー戦後の官僚(吉田)派対党人(鳩山)派はその再現であり、その中から田中派がヘゲモニーを握っていく戦後過程はその反復ー即ち、<統治>に対する<代表>からの奪権闘争乃至主導権争いの歴史ーであることが見えてくるからです。 そうして前者の到達点が「大正デモクラシー」下の”平民宰相”原敬(岩手)誕生だとすると、後者は「戦後民主主義」全盛時の”庶民宰相”田中角栄氏(新潟)の登場がパラレルな現象だと言えるし、又原敬暗殺が「大正デモクラシー」の黄昏を示すとすれば、田中角栄失脚も同じ文脈で言えるはずです。 その辺のところを唯一見抜いていたのが、田中角栄を「受肉した戦後民主主義」と言った、小室直樹氏だと思います。
ー見られる通り、日本近代の政治史とは、<統治>と<代表>の主導権争いの歴史である、ということが出来るのです。 そうして<統治>と<代表>を繋ぐのが<正統性>ということになる。 しかしながらここに問題が在ります。 選挙で多数派を取ったからといって、直ちにそれで<正統性>の獲得となる訳ではない。 <正統性>という観点から見た場合、<代表>は必要条件ではあっても十分条件ではないのです。
この事がハッキリと出ているのがアメリカの大統領でしょう。 大統領の就任式は宗教の儀式そのものとはよく言われますが、選挙で選ばれたーその意味で<代表者>に過ぎない存在が、就任式を経ることによって聖性=超越性を帯び、言わば<神の代理人>となり、統治の総覧者になるわけです。
今回のオバマ氏の場合、加えてリンカーンのそれに擬することで<正統性>ということをより強く印象付けようとしました。(裏返せば、それだけ<正統性>の危機が深いということです)
つまり、選挙で選ばれた者が全てを仕切るという黙契は、単なるルールなのではなく、聖性=超越性を備えたもの、従って<正統性>は聖性=超越性を含んでいるのです。
そのことは<統治>を担う官僚という存在に目を向けてみればよく解ります。 民主主義=国民主権下においては官僚とは公僕、詰まり<召使>です。 とすれば、権力を行使するとは<召使>が主権者即ち<主人>に命令するということになる。 果たして、<召使>が<主人>に対して命令出来るのか?逆に、<主人>は<召使>の命令に従えるのか? −という問題が出て来るのです。
これを避ける為には、この<命令>を服すべきものと国民側が看做すーつまり自発的服従により、より物質的満足を得られると共に、心的充足感も得られるものでなくてはならないーその意味で、その命令の背後にある種の聖性というか超越性を感じると共に、この<召使>=官僚はその代理人、という心理或いは意識上の操作がなされ、その<幻想>が官民に共有されていなければならないのです。
そういう意味で、私は、官僚の本質というか本領は代官に在り、と思います。 つまりおカミの代わり。
日本の場合、敗戦前まではより以上にそれはハッキリしていました。 おカミとは上御一人=天皇であり、官僚とは、何より天皇の官僚であり、天皇の召使ということだったのだから。 また<代表>も天皇の認証を得、その輔弼する、要するに<神の代理人>となるのだから。
問題は戦後です。 「国民主権」下において、この<正統性>はどうなっているのか?
勿論、現在とて、天皇に認証を受けるのだから、その点では(形式的には)変わってはいない。 しかしながら、では官僚に<天皇の召使>という意識は在るのか?又国民の側にも権力の背後に天皇を感じているか?といったら、一部(宮内庁等)を除くと、殆ど考えられないでしょう。
それに、何より、2.26事件とか終戦時の様に、天皇の裁断によって事態が動くというような事は考えられない。 だとすると、権力の核心部分ー危機の際に顕わになるこの超越的なものは空無ということなのか? 更に<権力は真空を好まない>ということが真理であるなら、これをどのように考えれば良いのか?
ー私は、これを次の様に観ます。
権力という本源的に暴力的な視点から見ると、<統治>においては、戦前は明治維新、即ち天皇の権威を背景にした薩長の武力による成立に由来し、戦後はGHQ(米軍)に由来します。 −両者の違いを隠蔽し、連続したものとしているのが昭和天皇という存在であり、その点では満州帝国における「ラストエンペラー」溥儀と同じ、と観ます。
映画『ラスト・エンペラー』とは、80年代後半、欧米にとって最大の問題として浮上した”ジャパン・プロブレム”の本質を、”ひ弱な花日本”(ブレジンスキー)(=保護国)として、ヨーロッパ側から描いたもので、「ラスト・エンペラー」とは昭和天皇の暗喩であることは明らかです。
昭和(天皇)までは意識されず、又目立たなかった対米関係の真実の姿(擬似属国ー宗主国)が平成以降目立って(意識されて)くるようになったのもこの辺が影響していると思っています。 ”威厳””近寄り難さ””仰ぎ見る”というような聖性=超越性に付き物の要素は、昭和天皇に比べれば、現在の天皇は格段に薄れておることは確かですから。
権威的ではなく、より親和的な「国民統合の象徴」である天皇、加えて国民国家の延命装置であった冷戦体制の終焉とそれに伴う<新自由主義>の全面化によって、国境を越えた統合や関係の形成が促される状況に至り、それまでの関係の要、或いは結節点に居た官僚に取分け矛盾が集中するようになったわけです。
近年顕著になってる官僚への不信や疑念、及びその裏腹の官僚の不祥事というのも、こういった事の現れと見るべきであり、官僚(合法的)支配の危機、従って<正統性>の危機として、国家の在り方から問われている、ということです。