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ファシズムは、社会の質についての概念で、政治の概念ではありません。
それが、多くの人が誤ることなのです。
社会の質が最も低落するのは、本来的に社会の外から生じて侵略的に支配する、暴力を起源とする権力存在に取り込まれて(懐くとも言います。犬が懐くのと同じです。)、従属し同化して、自らが権力の論理を唱えて暴力化することです。
これを社会の究極の堕落形態としてファシズムと呼ぶのです。
それが人の精神文化にとっても最低であるのは論を待ちません。
ここにおいて、権力が暴力を起源にすることを確認するのはとても重要です。現に権力から軍隊と警察を取り上げたら何も残りませんもの。無害とも言えますね。
結局のところ、民度や社会の内実と本質は、権力との関係で測られるものなのです。
過去の不完全なファシズム論議をするよりも、これからの未来のために、ファシズムを上記の様に「社会の問題」と明瞭に再定義することは、私たちにとって大変有用なことです。
なぜなら、現在の社会、特に先進国の国民は、余りに資本や権力と同化して国益利権屋と化しているからです。
それが経済成長の限界にきて、パイの取り合いが激烈になるほど、荒んで文化も悪化して、普通に考えれば貧しい人で権力に遠い人が、権力にしかできない最も権力的な行為である戦争を求めると発言するような事態にまで、人の精神が劣化しているのです。
日比谷の焼き討ちは、戦争の継続を求めた大衆行為なので、当時の日本社会の状態が、今日と同じ様であったことが窺い知れます。(したがって、ボルシェビキと異なるのは言うまでもありません。)
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ファシズムを政治の大衆化と、殊更にはぐらかしをしているか、理解が混乱している人がいますが、社会的概念であって政治的概念ではないので、政治から語っている時点で終わっています。
この人は、盛んに権力の正統性(レジティマシー)について語っていますが、王権神授説や今日のアメリカ大統領就任式での聖書を用いた宣言や戦中までの天皇現人神教育を見ても明らかですが、本来的に権力とは何の関係もない神を持ち出している時点で、権力に正統性など本質的にありません。
人が権力の正統性について語る時、詐欺を働いているに過ぎないのです。もっとも、詐欺にひっかかる人がいるから詐欺師がいるのですが(笑)。
(フランスの国民教育では、フランス国家の起源をクロービスがカトリックの洗礼を受けた時と教えています。私もそう習いました。その意味では、ヨーロッパも大いに危ういですね。
聞くところ中国では、国民の統合を強調する意味で、最初の統一国家を創った始皇帝の業績を喧伝しているそうですが、事情は良く理解できるものの、人を国家に取り込めば取り込む程、人の精神が劣化して、結果として社会の暴力化に繋がりますから困ったものです。
誰が最初に言ったかは知りませんが、「愛国心は、悪党の最後の隠れ蓑。」という言葉は、本当にそうだと実感できます。)
小沢や佐藤優に共通するのは、これらが国家主義者だと言う点です。(これが見えるかどうかはとても重要です。)
国家に囚われている、とても不幸な人たちなのです。人間の原点を忘れて、いつの間にか権力と同化して肥大した自画像の幻想に染まった全ての国家主義者達の行く末は、歴史上例外なく悲惨なものです。
権力の正統性を盛んに論う国家幻想に憑依された、時に出没される暗い人も、末路はよろしくないのが危惧されます。
ですから、早急に悔い改められることをお勧めします。(アメリカへの対抗心も、そっちへ流れたらお終いです。)
これから正統性を問うなら、私たちの社会の正統性です。
果たして、私たちに如何なる正統性があるのでしょうか?