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(回答先: 私が挙げた反対理由だけでは不足というのなら 投稿者 最大多数の最大幸福 日時 2009 年 10 月 11 日 17:56:53)
【抜粋】1995年の最高裁判決主文は「憲法は外国人への参政権付与を禁止している=付与したら違憲」などという踏み込んだ判断は全くしていない。
http://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000078.html
2004年11月19日
判例が矛盾?
[Thinking ] 公明党肝入りの外国人地方参政権付与法案が審議入りしたようだ。
で、先日読売新聞がそれを批判する社説を掲載した(資料)。
もちろん批判自体はどんどんしてもらって構わない。
ただし建設的なものならば、だけど。
一九九五年の最高裁判決は、「憲法一五条の公務員を選定・罷免する権利は、日本国籍を持つ『日本国民』にある」と明示している。
憲法九三条の地方公共団体の首長、議員を選出する「住民」も「日本国民」である。
地方自治法などの関連法の規定も同様だ。
この判決は、憲法をはじめ、地方自治法などの選挙権に関する規定は、いずれも、外国人に選挙権を保障したものではない、と明言している。
公明党が、地方参政権付与の根拠とするのは、判決の傍論だ。
「永住外国人への参政権付与は憲法上禁止されておらず国の立法政策にかかわる問題」とした“見解”だ。本論と明らかに矛盾する。
どうしよう。
この社説子、どうやら「保障していない」と「禁止している」の区別すらついていないらしい。
(主文) 憲法は外国人に選挙権を保障していない。
(傍論) でも地方参政権を政策的に(法律上)付与することは禁止されていない。
判決主文はつまり、「外国人にも憲法上、参政権は保障されているはずだ=外国人参政権付与は憲法が要請している」という訴えに対してそれを否定しただけ=外国人に参政権を与えなくてもそれは違憲ではない、ということに過ぎない。
判決主文は「憲法は外国人への参政権付与を禁止している=付与したら違憲」などという踏み込んだ判断は全くしていない。
だから続く傍論で、例えば「幅広い住民参加が地方自治のあり方として望ましい」といった政策上の観点から外国人に地方参政権を与える事は憲法は禁止していない、と付け加えることは全然矛盾じゃない。
憲法学の世界でもこの判例は「許容説」を採用、または「要請説」を否定した、とされているだけで、「禁止説」を含意しているなどと言っている人はほとんど絶無。
要するに読売新聞は基本的な法律上の論理関係をもわきまえていないということだ(日本を代表する「quality paper」、読売新聞に法学部出身者が一人もいない?まさかね)。
「憲法は国民が守るもの」などとした例の改正試案もそうだったが、自分たちの無知を棚に上げて憲法を論じたり、判例を批判する前に、大学一年生あたりからやり直すことを当Blogでは彼らに提案したい。
ちなみにこの判例から離れて個人的な僕の立場を表明しておくと、外国人参政権には賛成。
理由は「国民≠国籍取得者」だから。
「国民主権」とは本来「君主主権(例えば天皇主権)」についての対概念。
つまり国民と地位を異にする君主による専制支配を排除するという意味がこの「国民主権」という概念には込められている。
従って「国民主権」を「国籍保持者主権」と読み替えてしまうと、この概念の持つ本質的な意義が失われてしまう。
もちろん、「国民主権」概念における「国民」と「国籍保持者」は密接に関わっている。
けれども憲法学者浦部法穂が指摘するように、「国籍」があって「国民主権」の内容が確定したのではなく、逆に「国民主権」があって初めて「国籍」の概念が意味を為すわけで、「国民主権」原理の「国民」が具体的にどの範囲の者を指すかは、どの範囲の者が主権者であるべきかによるのであって、当然に「国籍保持者」に限られるというものではない。
そしてここで「国民」というものを、どのような歴史観・価値観・血統を持つかといった来歴・出自を差別せず、「一般意思」に基づき統治機構をハンドリングせんとする政治的・機能的共同体というように、近代国家モデルに合致した形で設定するとすれば、「国籍保持者」のみならず永住外国人も「国民」の範囲に含まれうることになる。
だから、永住外国人の中でぜひ参政権が欲しい、と言っている人たちの願いを単に「国籍を持っていないから」という理由のみで切り捨てることについては、僕はどうも賛成しがたい。
「参政権が欲しいなら国籍を取れ」という言葉より、僕が共感するのはこういう言葉の方だ。
「外国人であるにもかかわらず政治に参加する」ではなく、「異なる民族的出自を持つにもかかわらず同じ国民であるがゆえに政治に参加する」
(「国民と民族の切断」瀧川裕英)
(追記1)
当該判例について。
よく外国人参政権反対派のサイトで「傍論には法的拘束力はない」という主張を見かける(読売新聞も社説でそう書いている)。
でもそれはちょっと乱暴な主張。
ここら辺の議論は色々と難しいみたいなのできちんとした説明は僕の手には余るのだけど、結論だけに限って言うと「法的拘束力」を広い意味で捉えれば「傍論にも拘束力はある」でほとんどの専門家が一致すると思われる。
(追記2)
外国人参政権について産経もそれを批判する社説を掲載したようだ(11/21)。
でも「主文と無関係な傍論で判例拘束性を持たない解釈であり、主文の「本論」と矛盾している」とあるように、「法学の知識ゼロ」な点も読売と一緒。言葉がない。
Posted by: deadletter | Permalink
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Comment (4)
swan_slab:
こんにちは。
傍論の拘束力についてですが、「拘束力」というよりも、事実上裁判所の見解をなすものとして後の裁判で論拠として援用されることが少なくないので強い影響力をもつということだと思います。
規範のレベルではなく、デファクトのレベルで。
先例拘束力があるかないかという形式的な議論でいえば、ないと言わざるを得ないです。
傍論違反を理由に上告はできないということです。
しかし、事実上、最高裁の見解が示されたと下級審は理解するわけで、それがきっかけでその後の判例や政策決定を形成するその影響力がまさにここでは重要なポイントなのですから、先例拘束力がないといったところでしょうがない。
政策論議やその後の下級審に事実上強い影響力があることを認めたくないといえばいいだけです。
Commented by: swan_slab | 2004年11月28日 10:33
日時: 2004年11月28日 10:33
deadletter:
こんばんは。
いつもスワンさんのWeblogで勉強させて頂いてます。
肝は「法的拘束力」で何を意味するかなんですよね。
僕は「広い意味で」というところで、事実上の拘束力(影響力)を含めて、というニュアンスを込めてみました。
読売新聞社の社説がどういう意味で用いているのか、文面からは判然としませんが、スワンさんが言われる通り、彼らが「政策論議やその後の下級審に事実上強い影響力があることを認めたくない」が為に「しょせん傍論だ」と釘を刺そうとしているのだとすれば、それは結局彼ら自身が傍論の持つ影響力の存在を暗に認めていることを示している気がします。(だから釘を刺そうと躍起になる)。
そういう意味では「傍論に法的拘束力は無い」というのはこの場合、法律の議論ではなく政治的立場の表明、政治的言明なのかもしれないですね。
Commented by: deadletter | 2004年11月29日 01:33
日時: 2004年11月29日 01:33
swan_slab:
いえいえこちらこそ勉強させていただいております。
で、エントリの永住外国人の参政権についてですが、私の場合、これほど言葉につまるテーマはないというくらい自分の足元が定まっていません。
松井茂記教授は、「在日韓国朝鮮人については、その特殊な歴史的背景のゆえに、日本国籍を保持するか、もしくは韓国・朝鮮人としての国籍を回復するかの選択権を認めるべきであったと思われる。
そしてそのような選択権が与えられなかった以上、日本国籍を有しなくても、日本国籍を有する人と同等の権利をもって扱われることを認めるべきではないだろうか」『日本国憲法』有斐閣P139 と述べ、「定住外国人」という位置づけに反対し、根本的な問題は在日韓国朝鮮人を「外国人」として扱うこと自体にあると論じています。
また、最近注目しているブログでかなり詳細に論じているのが私には参考になりました。
http://dainagon-end.at.webry.info/200410/article_9.html
http://dainagon-end.at.webry.info/200411/article_7.html
許容説の問題点を鋭く突いており、そのうえで多重国籍をみとめよ、という主張です。
Commented by: swan_slab | 2004年11月29日 22:34
日時: 2004年11月29日 22:34
deadletter:
興味深いEntryのご紹介ありがとうございます。どちらかというと僕が引用した瀧川裕英さんに近い立場ですね。
僕の基本的な立場(信条)は「国政・地方全面要請説」です。
ですが現実路線で、ここは甚だ浅学ながらも踏ん張って何とか「地方のみ許容説」の擁護を試みることにします。
瑕疵があれば容赦なくご指摘いただければ幸いです。
(1)条例は法律の範囲内でしか制定出来ない、という憲法94条がある以上、外国人に地方参政権を与えることは、地方自治体の権限がある程度拡大したところで国民主権に反することには必ずしもならない、という点がまず一つです。
また相模原市との合併に関する、相模湖町住民投票で外国籍住民の投票資格が認められなかったように、「行政過程に利害関係人が関与するシステムは今後も拡張されていくことが予想される」とまでは当然には言えず、従って「無理に地方参政権を与える必要は少なくなっていく」という主張は楽観的に過ぎると言い得ると思います。
話は逸れますが、僕の母は東京に住民票を持ちながら、ここ十数年実家のある某地方都市で年の9割以上過ごす生活を送っていました。
けれども例えば母がその市の関係する合併問題などに首を突っ込もうとすると「ここに住民票もない人間がモノを言う資格はない」と散々言われたそうです(あんまりそういう批判が多いので母は結局最近住民票をそこに移しました)。
住民票がある/無いですらそうなのですから、外国籍の「利害関係人」の政治プロセスに参加する動きが自然に高まっていく(現在高まりつつある)とは信じがたい、というのが僕の立場です。
(2)日韓の武力衝突の際にどちらに帰属すべきかという問題については、そういう問題と地方参政権とは別問題に考えるべきではないかと答えたいと思います。
第一に地方参政権と国防の問題はリンクしないということ。
また第二に、そういう極限状況において日本国籍を持つ人間が、まさに国籍をもつが故にまず第一に日本の国益を考えて行動するはずということは言い切れないですし、逆に他国籍の人間が、まさに他国籍であるが故に必然的に売国奴と化すということもまた言いえないはずですから。
またごく一部の反対派の間では「スパイ」に関する議論もあるようですが、もしまともなスパイであるなら国籍条項は何の意味もないでしょう。
国籍のみが障害なら彼は国籍を何らかの手段できちんと「クリア」した上で、スパイを行うだろうからです。
地方参政権を「スパイ防止」の観点から否定するのはあまりにナイーブな議論と言わざるをえないのではないでしょうか。
「スパイ防止」対策は個別の情報管理強化等で講じられるべきです。
結局こういった「特殊な」デメリットと「普通の」定住外国人が参加することによる「幅広い住民参加」のメリットを比較衡量すれば、許容説においても、外国人地方参政権付与すべきとの結論に達するのではないか、というのが僕の意見です。
Commented by: deadletter | 2004年11月30日 04:35
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