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宗教、金、そして次にくるもの
今、宗教の力が死んだように、将来、金の力がなくなった時に又別の危機が発生するだろう。
アイザック・アシモフ著 「ファウンデーション」より
引き続き、ファウンデーションネタで申し訳ないけれど、これは非常に面白いセリフで、今も忘れられない。
本日も、相変わらず、ファウンデーションのネタばれを含むので、まだ読んでいない人は、読まないで下さい。
時代時代によって、権力者は、その権力を正当化する、あるいは手に入れるために、何がしかの力を必要とする。
宗教の時代、イスラムとキリスト教の権力者は、その力を神と来世の利益で正当化した。自分は神に選ばれた代理人であり、その力にそむく人間は、神の力によって地獄に落ちるとされた。
地獄の恐怖と天国の利益こそが、彼らの権力を正当化し、その教義を人々に守らせた利益そのものだった。
だが、宗教の力は、キリスト教圏において、最初につきた。
それを行なったのが、金の力だった。
金とは何か。
それは、現世の利益を最大化することが可能な手段だ。
金さえあれば大抵のことは出来る。大抵のものは手に入る。それも、大抵は良いものが手に入る。
そうなると、不確定要素の大きい来世の利益よりも、現実的な金を欲する人が多くなる。人は、近視眼的なのだ。目先の利益、損に非常に弱いのである。
喉が渇いたとき、家まで帰れば水が飲めるのにジュースを飲むし、風邪を引いたとき、注射をうてばすぐ治るといわれても、注射は痛いからいやだと言い出す。
これは、合理的な判断とは言い難い。人は、完全に合理的ではない。感情に支配されているのだ。
その結果、(超長期的な利益を約束する)天国への切符でなく(現世のみの利益を約束する)金を利用することで、お互いに反発しあう人々が結託することが可能になったのである。
例えば、ユダヤ人とキリスト教圏の人々のように。
嫌い合い、時に反発もしたが、彼らは、徐々に協力するようになった。少なくとも、表面上は。
金とは、なんだろうか。
それは、私利私欲だけで人々を協力させることを可能にする糊しろだ。
これは、宗教では決して成し得なかったことだった。宗教は、神に対する服従を強いる。そして、そのために生きることを望まれる。そして、その教義に従うことが望まれる。個人的な欲望は、禁忌とされ、神への忠誠が重要視された。そして、それを守る限りは、それに対する報いとして天国への切符が約束される。来世こそが、宗教が約束する利益だった。
だが、金は、そういったものを必要としなかった。
金が必要とするものは、ただ、人々の私利私欲だけだった。
今、宗教の教義にとってかわったもの、それは経済学だとも思う。
経済学とは、単純化してしまえば、「合理的な人間」つまりは、「私利私欲のためだけに生きる人間」同士をどうやって集団として協力させるか、という事を研究する学問だからだ。
宗教は、「合理的な人間」つまりは、「私利私欲のためだけに生きる人間」同士をどうやって集団として協力させるか、という問いに対して、神への服従と天国と地獄を使った。
経済学と資本主義は、「合理的な人間」つまりは、「私利私欲のためだけに生きる人間」同士をどうやって集団として協力させるか、という問いに金と人間の私利私欲を利用する。
喩え話をしよう。
ファウンデーションに馬の例え話が出てくる。
馬が、狼という強い危険な敵がいるので、たえず恐怖におののきながら暮らしていた。絶望的になった馬は、強い同盟者を探すことを思いついた。そこで、人間に近づいて、狼が人間の敵でもあることを指摘して、同盟を結ぼうと申し出た。人間はただちにそれを受けいれ、この新しい同盟者が、人間のいうままにその素晴らしい足の速さを発揮して協力しさえすれば、すぐに狼を殺してやるといった。馬は喜んで鞍を置き、手綱をつけることを許した。人間はそれに乗り、狼を狩り、殺した。
馬は喜び、安心し、人間に感謝していった。”さあ、敵が死んだのだから、鞍と手綱をと取り除き、私を自由にしてくれ”
すると、人間は笑って答えた。”何を言うか、阿呆な駄馬め”そして、本気で拍車をあてた
という話だ。
そして、これを語ったファウンデーションのハーディンがこれに続けたように、これを宗教に喩えよう。
かつて、人間の支配者は、自分の人民への完全な支配権を確立したいが為に、支配の正当性を人民に認めさせてくれるもの、つまりは神と宗教を受け入れた。
支配者は、本当の意味で、支配者となった。
支配者は喜び、安心し、神に感謝していった。”さあ、敵が死んだのだから、宗教と寺院をと取り除き、私を自由にしてくれ”
すると、神は笑って答えた。”何を言うか、阿呆な人間め”そして、支配者を宗教裁判にかけて殺してしまった。
こうすると、非常に宗教の時代というものがわかりやすくなるのではないだろうか。
宗教の力が増大し、その力を支配者は無視できくなった。場合によっては、その力に支配されることもあった。
だが、神の時代はキリスト教圏で、最初に終わってしまった。
この話に続きがある。
その後、人間とその支配者に宗教と寺院をつけて支配することに成功した神だったが、今度は、他の強力な神々と、その崇拝者との間で戦争が起こった。
神々とそれぞれの崇拝者達は、お互いに裏切りあい、殺しあった。絶望的になった、ある神のところに、新参者が現れた。
その名前を「金」と言った。
金は、神にこう言った。
「我々が協力すれば、他の神を打ち倒して、貴方がbPになれる」
と。
ある神は、それをただちに受け入れて、金が科学と金融を作ることを許した。
ある神は、金の力で作れた金融の力で経済を発展させ、経済は科学を発展させた。科学は、近代兵器を生み出し、近代兵器の力は他の神々とその崇拝者をなぎ倒した。
ある神は喜び、安心し、金に感謝してこう言った。
「さあ、敵が死んだのだから、科学と金融を取り除いて、元の私の世界に戻してくれ」
すると金は大声で笑って、こう答えた。
「何をいうか、あほうな神め」
そしてダーウィンを使って神を殺してしまった。
ようするに、こういう事だ。
宗教は、その支配権を完全なものにするために、金の力を受け入れた。宗教というシステムが、ある種の集金システムになったのだ。その結果、宗教の力は増大した。
だが、かつて人間が馬にそうしたように、金が宗教の鞍と手綱になった。
なぜなら、金の力は、宗教心が無い人間であろうとも、私利私欲という本来、人間に備わっている能力だけで、人々を協力させることが可能だったからだ。かつては、宗教がはたしていた役割の最も重要な部分を、金が代替することが可能だった。
貨幣経済の下で、キリスト教とユダヤ教が共存したように。
宗教は、自分たちが金を利用できると思っていた。
だが、それは間違いだった。金が彼らを利用していた。そして、永遠に、宗教は鞍と手綱を取り除くことができなくなった。
キリスト教は金の力の前に膝を屈した。
その時以来、ずっと人間につけられた鞍と手綱は宗教でなく、金のままだ。
資本主義の世界では、私利私欲で働く限りは、ホイールを回すハムスターのようなものだ。絶対に、永遠に、鞍と手綱を取り除けない。
「金が私の宗教です」
というのは、使い古された言い回しだけど、これはある種の真実だ。代替えされたのだ。一部の地域では。そして、金が人々を支配し、そして動かしている。かつて、宗教がそうであったように。
この鞍と手綱を最初に取り除こうとしたのが、マルクスだった。だが、彼と社会主義は、失敗した。
けれど、最近、ひょっとしたら、金の力も尽きてきたのかもしれないな、と思うことがある。ネットという場所を見ているとだが。
オープンソースのようなシステムは、金の力が、少しづつ尽きてきた証なのかもしれないと思うことがある。かつて、宗教の力が尽きてきた証が、金融と経済の発達だったように。
金融と経済の発達した世界では、必ずしも宗教は必要ではない。地獄の恐怖と天国の利益を宗教が保証せず、神の威を借りてルールを人々に守らせずとも、金の力によって、人々は、私利私欲だけで集団を作り、ルールを守るように拍車をあてられるからだ。
だが、十分に富んだ世界では、金は必ずしも必要ではない。相対的に、その力を失っていく。
金の次に我々の背中に乗り、そしてつけられることになる手綱はなんなのだろうと、ふと思った。
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