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第6章
汚い人間神格化トリック・罠
― 人間神格化の必然の結果としての
概念法学の大罪
(概念法学の大罪)
法律は、すべて、多様なる自由なる人生の共存を規範とする自然法・モラルを守ることを目的とした、より具体的には、危難の予防を目的とした政策規範である。この事実の最も分かり易い例は、自動車運転免許や建設業営業の許可などの「許可」制度だろう。
従来の法律学は、これを、「行政法上は、法令によってある行為が一般的に禁止されているときに、特定の場合にこれを解除し、適法にその行為をすることができるようにする行政行為」だ、と概念規定している。そして、この「許可」によって、運転ができる、営業ができる、ようになった・なる、ものとして、実体化する。
そういう概念法学が未だに行われている。それは、人間を完全なる自由意思人として神格化し、人為法を観念した必然的な結果に他ならない。その結果は、少なくとも結果的には、自然法の存在は完全に隠蔽される格好になっている。
それをいいことに、資本・自由主義原理主義社会を可能にするための、巧妙を極めた詐欺理論を展開してきたのが、従来の経済学者たちである。そして、それを巧みに利用して、資本・自由主義化の強化に努めてきたのが、従来の政治家や財界人であった。
人為法を前提に成り立つ、資本・自由主義の前提にあるのは、勿論、絶対的な万能なる国家である。さしあたって、これからの政治家が企むのは、国家主義化の強化に他ならないだろう。
☆
許可については、簡単には、次のように説明されている。
「許 可 T 行政法上は、法令によってある行為が一般的に禁止されているときに、特定の場合にこれを解除し、適法にその行為をすることができるようにする行政行為。学問上の用語であって、法令上は、許可以外にも種々の言葉が用いられている。許可の例としては飲食店営業の許可〔食品21〕、輸出入の許可〔関税67〕、自動車運転免許〔道交84〕等がある(法令上許可という語が用いられていても、必ずしも学問上の許可ではない。鉄道事業法(昭和61法92)3条の許可を参照)。許可は、私人が本来もっている自由を回復させる行為であり、私人に特別の権利を設定する特許(⇒公企業の特許)や、他人の行為の法律的効力を補充する認可とは異なるとされている。許可を必要とする行為を許可なしに行ったときには、処罰の対象となることはあっても、その行為の法律的効力(例えば、無許可の飲食店の営業行為の効力)は否定されない。許可制度は、警察上・財政上・統制上等、種々の目的からされる。学問上、それぞれ、警察許可・財政許可・統制許可の名で呼ばれることがある。
U 民法上、許可という語は、法定代理人が未成年者に営業を許す場合に用いられている〔民6〕。これは行政法上の意味での許可ではなく、未成年者の個々の法律行為についての同意と同じ性質をもつものと解されている。しかし、法人の設立許可〔民34〕、養子縁組についての家庭裁判所の許可〔民798〕は、行政法上の意味での許可と解されている。」(有斐閣小辞典第4版)、と。
☆
建設業法第7条には次のように規定されている。
「第七条 国土交通大臣又は都道府県知事は、許可を受けようとする者が次に掲げる基準に適合していると認めるときでなければ、許可をしてはならない。
一 法人である場合においてはその役員(業務を執行する社員、取締役、執行役又はこれらに準ずる者をいう。以下同じ。)のうち常勤であるものの一人が、個人である場合においてはその者又はその支配人のうち一人が次のいずれかに該当する者であること。
イ 許可を受けようとする建設業に関し五年以上経営業務の管理責任者としての経験を有する者
ロ 国土交通大臣がイに掲げる者と同等以上の能力を有するものと認定した者
二 その営業所ごとに、次のいずれかに該当する者で専任のものを置く者であること。
イ 許可を受けようとする建設業に係る建設工事に関し学校教育法(昭和二十二年法律第二十六号)による高等学校・・若しくは中等教育学校を卒業した後五年以上又は同法による大学・・若しくは高等専門学校を卒業した後三年以上実務の経験を有する者で在学中に国土交通省令定める学科を修めたもの
ロ 許可を受けようとする建設業に係る建設工事に関し十年以上実務の経験を有する者
ハ 国土交通大臣がイ又はロに掲げる者と同等以上の知識及び技術又は技能を有するものと認定した者
三 法人である場合においては当該法人又はその役員若しくは政令で定める使用人が、個人である場合においてはその者又は政令で定める使用人が、請負契約に関して不正又は不誠実な行為をするおそれが明らかな者でないこと。
四 請負契約(第三条第一項ただし書きの政令で定める軽微な建設工事に係るものを除く。)を履行するに足りる財政的基礎又は金銭的信用を有しないことが明らかな者でないこと。」
これを、建設業法研究会編著の「建設業法解説 改定10版」は、次のように解説している。
「本条は、一般建設業の許可の基準について定めたものである。
一 建設業の許可は、軽微な建設工事となるものを除き、建設工事の施工を請け負うことを営業とすることを一般的に禁止し、一定の要件を備えている者に対し、その申請に基づき、許可行政庁において一定の要件を満たしているかどうかを審査して許可することにより営業の禁止を解除し、適法に営業を行わせるものである。
したがって、この一定の要件、すなわち許可の基準はこれを法律上明らかにしておくことが必要であり、許可行政庁は、この法の覊束の範囲内において許可事務を執行しなければならず、行政法上の特許とはその性質を異にするものである。
建設業の許可の基準として本条は、建設業に関する経営経験、技術者の設置、誠実性及び財産的基礎等の四つの要件を定めており、これらの要件のすべてを満たしていない限り、建設業の許可は、これを行うことができない。
また、この許可の基準は許可の更新においてもそのまま適用され、許可の更新を申請した建設業者がこの基準に適合していないときは、許可の更新を受けることができない。
二 国土交通大臣又は都道府県知事は、許可を受けようとする者が次の三から六までに掲げる基準に適合していると認めるときでなければ、許可してはならない。
なお、建設業の許可は前述のとおり行政法上の覊束裁量行為であるので、その受理した許可申請者が許可の基準に適合していると認めら、かつ、次条の欠格要件等に該当しない場合には、許可をしなければならない。」
(建設業法研究会編著「建設業法解説 改定10版」大成出版社81頁以下)、と。
☆
しかし、多様なる自由なる人生の共存を規範とする超法規社会規範が自然法として実在している現代社会では、法律は、すべて、危難の予防を目的とした政策規範である。
建設業法第7条の許可制度は、建設業者が、「建設業に関する経営経験、技術者の設置、誠実性及び財産的基礎等」を欠くことによって、発注者に惹起される危難の予防を目的とした政策的な制度に他ならない。
これは、建設業者がそういう要件を欠くことによって、「発注者」に危難が惹起されることが、経験則的に明らかだからであり、建築業法第7条で想定されている危難は、文字通りそれだから、に他ならない。
建築業法第7条は、同時に、そういう要件を備えているにもかかわらず、国家(ここでは、国土交通大臣又は都道府県知事)の恣意によって、許可されないことによって、「建設業者」に惹起される、危難の予防を目的とした政策規範としての意味を持っている。これは、べつに「行政法上の覊束裁量行為」だから、ということではない。法律が危難の予防を目的とした政策規範であり、建設業法第7条で想定されている危難には、そういう危難もあるはずだ、と考えられるからに他ならない。
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概念法学は、人間を完全なる自由意思人として神格化し、人為法を観念した必然的な結果に他ならない。その結果は、少なくとも結果的には、自然法の存在は完全に隠蔽される格好になっている。
それをいいことに、資本・自由主義原理主義社会を可能にするための、巧妙を極めた詐欺理論を展開してきたのが、従来の経済学者たちである。
曰く。
「競争が淘汰(とうた)を生むことは自明であるが、淘汰される企業や失業の憂き目に遭う労働者に同情しない人はむしろ少ない。しかし、目の前で苦しむ企業や労働者を救済するために競争を拒否すれば、経済社会全体の停滞を生み出す。このミクロ的視点からくる『同情論』とマクロ的視点からくる『停滞論』という対立はどのような論理で解消できるのだろうか。
この点について経済学の世界では、五十年近く前に一つの理論的解決を得ている。これはノーベル経済学賞を受賞したケネス・アロー教授が証明した『厚生経済学の基本定理』として知られている。この理論のポイントは『社会全体の厚生水準を最大化するためには、まず競争原理の貫徹により経済効率を最大限に引き上げ(国内総生産を最大にする)、その後に、望ましい所得配分を実現するための所得再配分政策を実行せよ』ということである。
つまり、倒産や失業を恐れて競争を制限するのではなく、徹底的に競争原理に従って経済効率を引上げ、経済のパイを最大にすることを優先する。その上で、競争の結果発生した所得分配の不平等を、社会保障政策、税制などの所得再配分政策によって是正すれば、社会にとって最適な資源配分が実現するということである。
ここでは考え方の順序が重要である。弱者救済のための競争制限から入るのではなく、効率を最大にするために競争原理の貫徹から入る。その後、最大化されたパイを活用して、競争の結果生じた所得の不平等を社会政策によって是正する、という順序である。」(中谷巌「競争は市場の活力」13・5・16日本経済新聞朝刊)、と。
☆
しかし、「倒産や失業を恐れて競争を制限する」目的の法律などどこにもない。法律は、個々人も受忍し得ない、又、社会的にも放置し得ない人権等の侵害・阻害、すなわち危難の予防を目的に存在している政策規範である。「規制」と呼ぶべきなのは、不合理な法律だけである。合理的か否かは、経済効率を基に判断するのではない。
のみならず、経済のパイが最大化された時、最適な資源配分が実現された状態、を一体誰がどう判断するのか。一体可能なのか。それは正に神以外にはいないだろう。とすれば、自らを神様として神格化しているからこそ、そういう思考が可能になったのだろう、と考えられてさえくる。
そもそも、倒産や失業などによって惹起される、危難の予防と危難からの救出は国家の本務である。長い事業生活の末に会社は倒産したが、老齢厚生年金のために余生をなんとか生き延びている、という人も少なくない。老齢厚生年金制度は防難・救難制度である。前提にあるのは、多様なる自由なる人生の共存を規範とする超法規社会規範、すなわち自然法である。そういう社会保障制度などのいわゆる所得再配分政策は、「望ましい所得分配を実現するため」のものではなく、そういう超法規社会規範すなわち自然法が犯されないようにすること・守ることを目的とした、政策規範に他ならない。
彼等には経済効率や競争を絶対的な価値とする絶対的価値観がある。それ故、経済効率至上主義とか競争至上主義とも呼ばれている。人と国家支配征服の野望がある。彼等は病気なのである。まるで現人神だ。それで計画経済を批判するのだから、巧妙を極めた詐欺理論だ。まるで敵側の旗を掲げて敵を欺く、忍者のようなだまし理論である。原因は、度を越した勝利者意識や物欲や観念論から来る、全知全能の陶酔による、人格障害以外には考えることが出来ない。
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ともあれ、概念法学が未だに行われている。それは、人間を完全なる自由意思人として神格化し、人為法を観念した必然的な結果に他ならない。その結果は、少なくとも結果的には、自然法の存在は完全に隠蔽される格好になっている。
それをいいことに、資本・自由主義原理主義社会を可能にするための、巧妙を極めた詐欺理論を展開してきたのが、従来の経済学者たちである。そして、それを巧みに利用して、資本・自由主義化の強化に努めてきたのが、従来の政治家や財界人であった。
人為法を前提に成り立つ、資本・自由主義の前提にあるのは、勿論、絶対的な万能なる国家である。さしあたって、これからの政治家が企むのは、国家主義化の強化に他ならないだろう。
そこに人間神格化の必然の結果としての概念法学の大罪を見て取れる。人間を完全なる自由意思人・合理的経済人とみなす人間神格化の大罪を見て取れる。
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